第23話 まる限界
限界っていうのは、ある日いきなり来るわけじゃない。
少しずつずれていく。
食べる量が減るとか。
寝つきが悪くなるとか。
「平気」の言い方が、だんだん早くなるとか。
そういう小さいずれが積もって、ある日ふと、ああもうだめだな、って見える形になる。
最初に気づいたのは、夜の音だった。
俺はもともと寝つきが深い方じゃない。
仕事柄、通知音ひとつで起きる日もあるし、逆に何もなくても浅い眠りを行ったり来たりすることがある。
その夜、目が覚めたのは、隣の布団がやけに何度も揺れたからだった。
暗い部屋の中で、まるさんが寝返りを打っていた。
ひとつ。
少し間を置いて、またひとつ。
そのたびに、シーツがかすかに擦れる。
エルちゃんは珍しく、ど真ん中ではなく、まるさん寄りの位置にいた。
でも、いつものように前足で制圧したり、蹴り返したりはしない。
ただ、起きていた。
「……まるさん」
と、小さく呼んでみる。
「ん……」
返事はある。
でも起きてはいない。
「寝れてる?」
「……うん」
嘘だな、と思う。
こんな時間にこんな何回も寝返り打ってるやつの返事じゃない。
でも、それ以上は聞かなかった。
暗い部屋の中で「寝れてないだろ」って追い打ちをかけるのも違う気がした。
結局、そのあともしばらく、まるさんは何度も体勢を変えていた。
俺も途中から完全に寝直すのを諦めて、天井の暗さをぼんやり見ていた。
朝、いや昼に近い時間になって、まるさんは遅れて起きてきた。
顔を見た瞬間、だいぶしんどいなと思う。
寝てない人の顔だった。
化粧をしていないとか、部屋着だとか、そういうことじゃなくて、目の奥の焦点が少し遠い。
「おはよ」
と、俺が言う。
「……おはよ」
声も遅い。
エルちゃんはすでにソファの上にいて、まるさんが座るより先にその隣へ移動した。
今日は朝からやけに近い。
「コーヒー?」
「うん」
「なんか食べる?」
「いらない」
「昨日も食ってないだろ」
「食べたよ」
「プリン半分だけな」
「食べたじゃん」
その言い方が、少しむっとしていた。
俺もそこで黙る。
正論を積むと、今日はだめな気がした。
コーヒーを淹れて渡す。
まるさんは両手でマグを持ったまま、すぐには飲まない。
あったかさだけ受け取っているみたいな持ち方だった。
「仕事、今日も?」
「夜から」
「休めない?」
「……そこまでじゃない」
出た、と思う。
最近その言葉をよく聞く。
まだそこまでじゃない。
大したことじゃない。
平気。
もう慣れた。
全部、同じ方向を向いている言葉だ。
「おまえさ」
と、俺は言う。
「その“そこまでじゃない”の基準、だいぶおかしくなってない?」
まるさんはマグカップの中を見たまま、
「そう?」
と返した。
「寝れてないし」
「ちょっと浅いだけ」
「食べてないし」
「今ほしくないだけ」
「顔色もよくない」
「たつくんはすぐ大げさ」
そこで俺は、少しだけ言葉に詰まる。
大げさ。
そう言われると、たしかに俺はすぐ構造で見て、問題を問題として扱いたがる。
でも今見えているものを、全部こっちの気にしすぎで片づけるのも違うだろ、と思う。
「シフト減らすとか」
と、俺は言う。
「少し休むとか」
「うん」
「店ともう一回話すとか」
「うん」
「客のことも、ちゃんと共有するとか」
「うん」
うん、うん、と返ってくる。
でも全部、壁に当たって返ってくる音みたいだった。
「……聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ」
「でも今そういうの、考えたくない」
その返しで、俺は止まる。
考えたくない。
分からなくはない。
でも、考えないで済む段階かと言われると、たぶん違う。
「向いてないのかな」
と、まるさんが急に言った。
「なにが」
「こういう仕事」
「……」
言い方が軽かったから、一瞬聞き流しかけた。
でも、その軽さ自体が少し危なかった。
「別に、前からずっと天職だなんて思ってないけど」
と、まるさんは続ける。
「最近、こういうの増えるとさ」
「うん」
「なんか、向いてないのかなって思う」
マグを持つ指が、少しだけ強くなる。
「でも、今さら昼職戻るのもしんどいし」
「……」
「って考えてたら、余計眠れないし」
「……」
「笑ってればだいたい流れると思ってたけど、それも最近ちょっと面倒で」
そこまで一気に言ってから、まるさんは小さく首を振った。
「ごめん。朝から重いね」
「朝じゃないけどな」
「そういうことじゃない」
俺は返事をしない。
こういうとき、何が正解なんだろうと考える。
励ますのか。
具体策を出すのか。
休めと言うのか。
向いてないなんてことないと言うのか。
たぶんどれも、今は少しずつ違う。
でも黙っているのも違う。
「向いてない、って」
と、俺はゆっくり言った。
「それ、仕事自体が?」
「……」
「それとも、我慢して流すやり方が?」
まるさんはすぐには答えなかった。
エルちゃんが、その膝の上に前足をかける。
いつもならそこで軽く噛んだり、何か要求したりするのに、今日はただ体を寄せるだけだった。
まるさんは無意識みたいに、その背中を撫でる。
「後者かも」
と、やがて言った。
「でもそれって、結局向いてないのと同じじゃない?」
「違うだろ」
と、俺はすぐ返す。
返してから、少し早すぎたなと思う。
でも、そこは引けなかった。
「流すのに向いてないのと」
「うん」
「仕事に向いてないのは別だ」
「……」
「おまえが勝手に一緒にしてるだけ」
まるさんはそこで、少しだけ目を細めた。
怒ったというより、疲れた顔だった。
「たつくん、そういうとこあるよね」
「なにが」
「言ってることは分かるけど、今それを分解されるの、ちょっとしんどい」
まただ、と思う。
俺は助けたいときほど、細かく分けて考える。
どこが問題で、どこが違って、何なら直せて、どこから手をつけるか。
それが一番安全だと思っている。
でも、相手が疲れているときには、それが解体に見えるんだろう。
「……ごめん」
と、俺は言った。
まるさんは首を振る。
「たつくんが悪いっていうか」
「うん」
「たぶん今、私が何言われても刺さらないだけ」
その言い方は、妙に正確だった。
刺さらない。
そうだろうなと思う。
いま差し出せる正しい言葉があったとしても、たぶん受け取る側の手がいっぱいなんだろう。
その状態で渡しても、落ちるだけだ。
会話はそこで一回、切れた。
キッチンの時計の音。
外の車の音。
エルちゃんの喉が、小さく鳴る音。
部屋の中が、やけに広く感じる。
夕方になると、まるさんは支度を始めた。
でもいつもよりずっと遅い。
服を出して、座る。
ポーチを開いて、閉じる。
鏡の前に立って、またソファに戻る。
「今日、休めば」
と、俺はもう一度言った。
「……大丈夫」
「その大丈夫、信用ない」
「分かってる」
そこは否定しないんだな、と思う。
自分でも分かっているんだろう。
分かっているのに止まれない。
「じゃあなんで行く」
と、俺は聞く。
「行かないと」
「なんで」
「そういうものでしょ、仕事って」
「限界でも?」
「限界ってほどじゃない」
「……」
またそこに戻る。
エルちゃんは、準備の途中のまるさんの足元から離れなかった。
普段ならコードにじゃれたり、ポーチに顔を突っ込んだり、もっと邪魔をする。
でも今日は違う。
ただ近くにいる。
椅子の脚のそば。
立ち上がれば一緒に立つ。
座ればまた隣に座る。
「おまえ今日、妙に静かだな」
と、俺が言う。
エルちゃんは返事をしない。
ただ、まるさんが立ち上がったとき、すぐその足元へ移動した。
「ほんとだね」
と、まるさんが言う。
「いつもなら、こういう時もっと邪魔するのに」
「空気読んでるのかもな」
「猫が?」
「たまにあるだろ」
たまにある。
ほんとにたまにだけど、エルちゃんは変なところでこちらの空気を拾う。
今日は、要求の猫じゃなかった。
寄り添う猫だった。
それが余計に、状況の悪さをはっきりさせる。
夜、出る時間になっても、まるさんの食欲は戻らなかった。
結局、ゼリーを少し食べただけで、あとは水だけ。
「それで持つのか」
と、俺は言う。
「持たせる」
「雑だな」
「今日は全部そう」
玄関まで見送る。
靴を履いて、バッグを持って、ドアの前に立つ。
そこまではいつも通りだ。
でも背中の薄さみたいなものが、今日は少し目についた。
「まるさん」
「ん?」
「ほんとに無理なら」
「うん」
「帰ってこい」
「……」
その一言に、まるさんは少しだけ目を伏せた。
それから、小さく笑う。
「帰る場所あると、そういうこと言えるよね」
「皮肉か」
「ちがう」
「じゃあなに」
「……ちょっと、助かるって話」
その返事は小さかった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
「エルちゃん、警備お願いね」
「……」
エルちゃんは鳴かなかった。
ただ、玄関のところまでついてきて、出ていくまるさんの足元をじっと見ていた。
ドアが閉まる。
静かになる。
俺はしばらくその場から動けなかった。
たぶん今、必要なのはもっと上手い言葉なんだろう。
でも俺は、そういうのが昔からあまり得意じゃない。
正しいことを考えるのはできる。
対処法を並べるのもできる。
でも、相手がもう擦り減っているときに、何が支えになるのかは、思ったよりずっと難しい。
エルちゃんが足元に戻ってくる。
いつもの軽カプもしない。
ただ、俺の脛に一度だけ体を押しつけた。
「……おまえも分かんないか」
と、俺は言う。
もちろん返事はない。
でも、返事がないまま隣にいてくれる感じが、今日は妙にありがたかった。
家の中の会話が、少しずつ短くなっている。
食事も、睡眠も、笑い方も、全部少しずつ鈍っている。
たぶん、今はまだ壊れていない。
でも、持ちこたえ方がだいぶ危ういところまで来ている。
そういうのを、見ているだけの時間が、一番きつい。




