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第22話 店トラブル

 嫌なことは、たいてい一個ずつ来てはくれない。


 厄介な客がいて。

 それを店に伝えて。

 そこで「じゃあ気をつけようね」で済めば、まだ話は単純だ。


 でも現実は、だいたいその次で面倒になる。


 その日の夜、まるさんから来たメッセージは短かった。


 少し遅くなる

 店長と話してる


 それだけ。


 俺はソファでスマホを見ながら、ああ、たぶんあの客の話だなと思った。

 昨日の時点で、様子を見ると言っていた。

 その“様子”が、思ったより早く次の段階に行ったらしい。


 帰ってきたのは、一時半を少し回ったころだった。


「ただいまー」


 玄関から聞こえた声は、明るかった。


 いや、明るすぎた。


 俺はリビングから顔を上げる。

 この前の「営業スマイル」の回と同じ感じだ、と思う。

 笑い方の角度がきれいすぎる。

 家の中で使う声じゃない。


「おかえり」

「起きてたんだ」

「その時間だからな」

「えらいねえ」

「その言い方、好きだな」


 玄関まで行くと、まるさんはいつも通りの仕事帰りの姿だった。

 髪もメイクも崩れていない。

 バッグもきちんと肩にかかっている。


 でも、部屋の中に入ってきたのに、どこかまだ店の中にいるみたいだった。


「話したんだろ」

 と、俺は聞く。


 まるさんは靴を脱ぎながら、

「うん」

と答える。

 その返事も、やっぱり少しだけ明るすぎる。


「どうだった」

「どうだったでしょう」

「クイズにすんな」

「えー」


 そこで笑う。

 でもその笑い方が、明らかに無理をしている。


 エルちゃんが玄関まで来て、まるさんの足元を一周した。

 それから、いつもならすぐ匂いチェックを終えるのに、今日はなぜかじっと見上げたまま動かない。


「今日も厳しいね」

 と、まるさんが言う。


「昨日の続きだろ」

「どうだろうねえ」

「おまえ、その笑い方やめろ」

「どの笑い方?」


 それがもう、そのまんまだった。


 俺はそこで、それ以上玄関では聞かなかった。

 聞いたところで、今のまるさんはたぶんちゃんと答えない。

 答えても、きれいな言い方に整えられる気がした。


 まるさんはリビングへ入って、バッグをソファの横に下ろした。

 エルちゃんもついてくる。

 でも今日はバッグには乗らない。

 代わりに、少し離れた位置から見ていた。


「麦茶いる?」

 と、俺は聞く。


「いるー」

「雑に明るいな」

「今日はそういう日なので」

「そういう日の内容を聞いてるんだよ」


 キッチンでグラスを出して戻る。

 まるさんはソファに浅く腰かけたまま、ヒールを脱いだあとの足先をぼんやり見ていた。


 顔は笑っている。

 でも、目の焦点が少し遠い。


「はい」

「ありがと」


 グラスを受け取る手は普通だ。

 震えてもいない。

 でも、飲み終わるまでの間に、ひとつも表情が変わらない。


「で」

 と、俺は言う。

「店長と何話した」


 まるさんはグラスを持ったまま、少しだけ首をかしげた。


「んー」

「んー、じゃなくて」

「まあ、言ったよ。あの人、ちょっと距離感おかしいですって」

「うん」

「そしたら、気にしすぎじゃない?って」

「……」


 俺は黙る。


 まるさんはまだ、笑っていた。


「あと、売上いい人だから、あんまり角立てないでねって」

「……」

「まるさんなら上手く流せるでしょって」

「……まじか」

「まじまじ」


 軽く言う。

 軽く言ってるけど、その軽さ自体が妙に危なかった。


「それで終わり?」

「うん」

「店の人、他に何も言わなかったのか」

「まあ、一応見とくとは言ってた」

「それは見とくって言わないだろ」

「そうだねえ」


 そこで、まるさんはまた笑った。


 だめだな、と思う。

 これは家の中の笑い方じゃない。

 店の中で、「大丈夫ですー」「平気ですよー」って言ってるときのやつだ。


「腹立つな」

 と、俺は言った。


 たぶん、思っていたより低い声が出た。


 まるさんが少しだけ目を上げる。


「どっちに?」

「店」

「客じゃなくて?」

「両方だけど、今は店」

「おお」


 ちょっと驚いたみたいな顔をする。

 でも、すぐまた笑って、

「珍しいね」

と言う。


「そうか?」

「たつくんって、こういうとき先に構造見るじゃん」

「今日は見るまでもないだろ」

「まあねえ」


 そこまでは言えた。

 でも、その先が続かなかった。


 たとえば、「やめれば」とか。

 「その店おかしい」とか。

 「もっとちゃんと怒れよ」とか。


 そういう言葉は頭に浮かぶ。

 浮かぶけど、どれも今の俺が口にするには少しだけ雑すぎた。


 まるさんがまだそこを“仕事の範囲”として抱えている以上、外から簡単に正論を投げるのも違う気がした。


 店の事情も、客との距離も、現場の空気も、俺は知らない。

 知ってるのは、帰ってきたこの人が、今も笑ったまま少し消耗しているってことだけだ。


「たつくん」

「ん?」

「そんな顔しないでよ」

「どんな」

「今すぐその店に電話しそうな顔」

「してない」

「してる」


 まるさんはそう言って、少しだけ目を細めた。


「でも、ありがと」

「……」

「腹立ってくれるのは、ちょっと助かる」

「そうなのか」

「うん」


 その声で、ようやく少しだけ本音が見えた気がした。


 でも、表情はまだ落ちない。


 まるさんは麦茶を飲み干して、立ち上がる。


「先、落としてくる」

「うん」

「今日はもう、顔が重い」

「それ昨日も言ってたな」

「仕事が濃いとそうなるの」

「便利な表現だな」

「便利にしないとやってられない日もあります」


 その言い方も、少しだけ外向けだった。


 洗面所のドアが閉まる。

 水の音がして、クレンジングのボトルを押す音がして、それでも部屋の空気はまだ戻らない。


 エルちゃんはソファの前で座っていた。

 いつもなら窓辺へ行く時間なのに、今日は動かない。


「おまえも気になるか」

 と、俺は言う。


「にゃ」


 短い返事。

 それから、洗面所の方を見る。


「だよな」


 しばらくして、まるさんが戻ってきた。


 メイクは落ちている。

 服も部屋着に替わっている。

 外見だけ見れば、ちゃんと家に戻ってきているはずだった。


 でも、表情だけがまだ切り替わっていない。


「さっぱりした?」

 と、俺は聞く。


「した」

「嘘だな」

「なんで分かるの」

「分かるだろ」


 まるさんはソファに座った。

 いつもならそのへんで、顔の筋肉がやっと抜けて、ふう、と息を吐く。

 でも今日は違う。


 口元だけが、まだ少し上がっていた。


 自分でも下ろし方を忘れてるみたいな顔だった。


「おまえ」

 と、俺は言う。

「今、笑ってない方が自然だぞ」

「え」

「ずっとその顔してる」

「うそ」

「ほんと」


 まるさんはそこで、はじめて少しだけ戸惑った顔をした。

 でも、その戸惑いの上に、また同じ笑い方を重ねようとする。


「……だって、なんか」

「うん」

「今さら落とすのも変じゃない?」


 その言葉は、ひどくまるさんらしかった。


 無理をしてるのに、その無理をやめるタイミングの方が分からなくなる。

 そういう種類の器用さと不器用さが、両方ある。


「変じゃないだろ」

「いや、でも」

「ここ家だぞ」

「分かってる」


 分かってる。

 でも切れない。

 たぶんそういう感じなんだろう。


 そのときだった。


 エルちゃんが、何の前触れもなく動いた。


 ソファに飛び乗る。

 まるさんの膝の上ではなく、そのすぐ横へ。

 それから、一瞬だけ狙いを定めるみたいに止まって、次の瞬間、まるさんの部屋着の袖口に軽く噛みついた。


「いたっ」


 強くはない。

 いつもの、注意です、のカプだ。


 でもタイミングが完璧だった。


「エルちゃん?」

「にゃ」


 もう一回。

 今度は噛むというより、袖を引くみたいな感じだった。


「なに、どうしたの」

「……」


 まるさんが、ようやくその場で本当に止まる。


 袖を見て、エルちゃんを見て、それから、自分の顔に手をやる。

 そこで、何かが切れたみたいに、ふっと息を吐いた。


「……あ」


 その一文字で、さっきまでの笑い方が全部落ちた。


 口元の力が抜ける。

 肩も少し下がる。

 目の奥に残っていた変な明るさも消える。


「……しんど」

 と、まるさんは言った。


 やっと出た、本当の声だった。


「だろ」

 と、俺は言う。


「ずっとしんどかった」

「うん」

「今ので分かった」

「自覚遅いな」

「うるさい」


 そう言う声まで、ようやく家の中のまるさんに戻っていた。


 エルちゃんは満足したのか、袖から口を離して、そのまままるさんの腿に前足を乗せる。

 今度は噛まない。

 ただ、そこにいる。


「おまえ」

 と、俺は言う。

「すごいタイミングだったな」

「今日いちばん仕事した」

 と、まるさんが言う。


「にゃ」

「認めてるな」

「王様だからねえ」


 まるさんはそのまま、ソファの背に体重を預けた。

 さっきまでみたいに姿勢を保たない。

 だらしなくもたれる。

 そのだらしなさが、今日はむしろ安心だった。


「なんか食べる?」

 と、俺は聞く。


「いらない」

「プリンは?」

「……半分なら」

「元気ではあるな」

「しんどいけど、甘いのはほしい」

「人間として正常」


 立ち上がって冷蔵庫を開ける。

 プリンを二つ出す。

 ついでにスプーンも持ってくる。


 戻ると、まるさんはもう完全に笑っていなかった。

 その代わり、疲れた顔をしていた。

 でも、そっちの方がよかった。


「はい」

「ありがと」


 プリンを受け取る手つきはさっきよりずっと自然だ。


「たつくん」

「ん?」

「さっき、腹立つって言ったじゃん」

「言った」

「ちょっと救われた」

「そうか」

「うん。私が気にしすぎなのかなって、ちょっと思ってたから」


 俺はスプーンのふたをはがしながら、

「それは違うだろ」

と返す。


 今度は、迷わず言えた。


「嫌なもんは嫌でいい」

「うん」

「店が雑なのも、たぶん雑だし」

「うん」

「だから、またなんかあったら言え」

「……うん」


 その返事は小さかったけど、さっきまでみたいな作り物の軽さはなかった。


 エルちゃんはまるさんの袖にもう一回だけ鼻先を押しつけて、それから真ん中に移動する。

 いつもの位置だ。

 左右に俺たち。

 真ん中に猫。


 ようやく部屋の配置が整う。


「でもさ」

 と、まるさんが言う。

「店長に“まるさんなら上手く流せる”って言われたとき」

「うん」

「ちょっと笑っちゃったんだよね」

「なんで」

「私、いまそれ、やりたくなくて困ってるんだけどって」


 その自嘲みたいな笑いは、もう営業スマイルじゃなかった。

 だからこそ、ちゃんと腹が立つ。


「その店長も雑だな」

「雑だねえ」

「王様の噛み対象に追加だな」

「それはちょっと見たい」


 まるさんが少しだけ笑う。

 今度の笑い方は、ちゃんとこの部屋のものだった。


 雨は降っていない。

 窓の外も静かだ。

 でも今日は、玄関の外の気配が少しだけ家の中まで入ってきている。


 それでも、全部は通さない。


 袖を噛んで止める猫がいて、

 雑でも怒る俺がいて、

 ようやく「しんどい」と言えたまるさんがいる。


 それでたぶん、今夜は十分だった。

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