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第21話 ストーカー客

 嫌な客というのは、その場で終わらない。


 その店を出て、メイクを落として、服を着替えて、家に帰ってきても、少しだけ肌の上に残る。

 たぶん匂いみたいなものなんだと思う。

 目に見えないくせに、しばらく消えない。


 その日の「ただいま」は、遅くも早くもなかった。


 時計は一時を少し過ぎたくらい。

 俺はソファで仕事用の画面を閉じて、ちょうど気を抜きかけたところだった。


 玄関の鍵が回る。

 ドアが開く。

 ヒールを脱ぐ音。


「ただいまー」


 声はいつも通りだった。

 でも、たぶん、その“いつも通り”の作り方が少しだけ固かった。


「おかえり」

「起きてたんだ」

「まだこの時間だし」

「えらいねえ」

「その褒め方やめろ」


 玄関まで行くと、まるさんは仕事帰りの格好のまま、バッグを肩から下ろしていた。

 髪も乱れてない。

 メイクもきれいなまま。

 見た目だけなら、たぶん何も変じゃない。


 でも、目だけが少し疲れていた。


「なんかあった?」

 と、俺は聞く。


 まるさんは一瞬だけ止まって、それから少し笑った。


「え、いきなり」

「いや」

「顔に出てた?」

「ちょっと」

「やだなあ」


 やだなあ、と言いながら、その笑い方は軽かった。

 軽く見せようとしている感じのやつだった。


「めんどい客?」

「……まあ、そんな感じ」

「酔っ払い?」

「酔ってはない」

「余計やだな」


 俺がそう言うと、まるさんは「そうなんだよね」とでも言いたげな顔をした。

 でも、口には出さない。


 その代わり、玄関のたたきで、エルちゃんが珍しく低い位置からじっとこっちを見ていた。


「お」

「なに?」

「今日、王様が玄関から動かない」

「ほんとだ」


 いつもなら、まるさんが帰ってきたら一度足元に寄って、匂いを確認して、それで終わる。

 でも今日は違った。


 エルちゃんは、まるさんの足元と玄関の外側を何度も見比べる。

 それから、ドアの方に顔を向けたまま、短く鳴いた。


「にゃ」


「どうした」

 と、まるさんがしゃがむ。

「今日、厳しいね」


 エルちゃんは返事の代わりに、ドアの前を横切って、また戻る。

 完全に警備モードだった。


「なんかついてきたとかじゃないよな」

 と、俺が言うと、

「やめてよ」

と、まるさんがすぐ返した。


 でも、その返しが早すぎて、逆に少し引っかかる。


「冗談」

「……冗談にならない客っているんだよ」

「……」


 その言い方で、俺は黙った。


 まるさんも、それ以上は続けなかった。

 靴を揃えて、バッグを置いて、そのまま洗面所へ向かう。


「先、落としてくる」

「うん」

「今日ちょっと顔重い」

「それは見れば分かる」

「失礼だなあ」


 その軽口も、半分くらいはいつも通りだった。

 でも残り半分が、まだ仕事の方に残っている感じがした。


 洗面所の明かりがつく。

 水の音がする。


 俺はリビングへ戻って、なんとなくテレビもつけずにいた。

 エルちゃんも、今日はソファに来ない。

 玄関の近くで一度止まって、そこからようやくゆっくり歩き出した。


 でも、いつもみたいなふてぶてしさはない。

 警戒している顔だった。


「おまえも変だな」


 小さく言うと、エルちゃんは耳だけ動かした。

 それから、洗面所の方へ向かう。


 俺も少し遅れてそっちを見る。


 ドアは半分開いていた。

 鏡の前で、まるさんがクレンジングを手に取っているのが見える。


 ただ、動きが少し遅い。


 というか、正確には、右手が少しだけ震えていた。


「……」


 たぶん、他人が見たら気づかない程度だ。

 大きく震えてるわけじゃない。

 でも、いつもはもっと迷いなく動く手が、今日は一拍ずつ遅れている。


 まるさん本人も、それに気づいている顔だった。

 気づいてるから、余計に何でもないふうに動かそうとしている。


「まるさん」

 と、俺は洗面所の手前から声をかけた。


「ん?」

「大丈夫か」

「大丈夫」


 返事が早い。

 そして、その早さがあまり大丈夫じゃない。


「客、なんか言ってきた?」

「……別に」

「別に、でその手にはならないだろ」

「見てたの?」

「見えるだろ」


 まるさんは鏡越しにこっちを見た。

 数秒、何も言わない。


 それから、諦めたみたいに小さく息を吐いた。


「常連でさ」

「うん」

「前からちょっと距離近い人いたんだけど」

「うん」

「今日、なんか、帰り際までしつこくて」

「……」


 俺はドア枠に手をかけたまま動かなかった。


「店の外で待つとか、そういうのじゃないよ」

 と、まるさんは言う。

「そこまでじゃない」

「そこまでじゃない、で済ませる顔じゃない」

「でも、ほんとにまだそこまでじゃないの」


 “まだ”が混ざった気がした。


 気のせいじゃないと思う。


「番号聞かれたとか?」

「それは流した」

「帰りついてくる感じ?」

「今日はない」

「今日は、って」

「……」


 そこで、まるさんが黙る。


 洗面所の明かりの下で見ると、目元のメイクはまだきれいなのに、その下の表情だけが少し削れていた。


「なんかね」

 と、やがて言う。

「笑ってると、向こうがどこまで来ていいか分かんなくなる人、いるじゃん」

「……」

「仕事だから笑ってるだけなんだけど」


 その言い方は、怒っているというより、消耗している感じだった。


 俺は何か言おうとして、やめた。

 ここで安易に「やめろよその客」とか「店に言えよ」とか言うのは、たぶん簡単すぎる。


 もちろん言うべきなんだろうけど、今のまるさんがほしい言葉はそれじゃない気がした。


「今日はもう、終わった」

 と、俺は言う。


 まるさんは少しだけ眉を上げる。


「なにが」

「仕事」

「……」

「家まで持って帰ってきてるけど、でも今は終わり」

「雑だなあ」

「雑でいいだろ、今は」


 その言い方で、まるさんがほんの少しだけ笑った。

 ちゃんと笑ったわけじゃない。

 でも、さっきよりは呼吸が戻った顔だった。


「麦茶いる?」

 と、俺は聞く。


「ほしい」

「了解」


 キッチンへ行って、冷たいのを一杯注ぐ。

 氷は入れない。

 今日みたいな日はたぶん、その方がいい。


 戻ると、まるさんはちょうどメイクを半分落としたところだった。

 外の顔と家の顔がまだ途中で混ざっていて、妙に危うい。


「はい」

「ありがと」


 グラスを受け取るとき、やっぱり指先が少しだけ冷えていた。


 エルちゃんはそのころ、洗面所の前まで来ていた。

 いつもならこのへんで洗面台の上に乗りたがるのに、今日は乗らない。

 ただ、ドアの近くで座っている。


「おまえ、ほんとどうした」

 と、俺が言う。


「警備強化中なんじゃない?」

 と、まるさんが言う。


「何の」

「知らない。でも、そういう日あるじゃん」

「あるけど」

「今日はたぶん、そういう日」


 その言葉は、猫の話をしているようで、そうじゃなかった。


 まるさんは麦茶を半分くらい飲んで、それからまた鏡の前に向き直る。

 今度は手の震えは少しだけましだった。


「店には言うの?」

 と、俺は聞く。


 まるさんは少しだけ考えて、

「様子は見る」

と答えた。


「すぐに?」

「……まだ、そこまでじゃない」

「でも嫌なんだろ」

「嫌だよ」


 その即答で、こっちも引けなくなる。


「じゃあ」

「でも、嫌ってだけで全部大きくできるわけでもないじゃん」

「……」

「仕事だし」


 仕事。

 その言葉は便利だけど、たぶんだいぶ厄介だ。


 仕事の範囲で流すべきものと、そうじゃないものの線を、まるさんは毎回自分で引かなきゃいけない。

 しかも、笑いながら。


 それがどれだけ面倒か、全部は分からない。

 でも、楽じゃないことくらいは分かる。


「分かった」

 と、俺は言った。

「でも、次なんかあったら、ちゃんと言って」

「うん」

「“まだそこまでじゃない”の範囲で止まってるうちに」

「……うん」


 まるさんは今度はちゃんと、こっちを見てうなずいた。


 そのとき、エルちゃんが不意に立ち上がった。

 玄関の方へ走るわけでもなく、洗面所へ入るわけでもなく、ちょうど俺とまるさんの間まで来て、そこで止まる。


 それから、いつもの軽カプじゃなく、ただ俺の足に体を押しつけた。

 次に、まるさんの足にも同じようにする。


「……なに」

「仲裁じゃなくて、確認っぽいな」

「点呼?」

「そんな感じ」


 エルちゃんは満足したのか、そのまま床に座り込んだ。

 洗面所とリビングの境目みたいな位置だった。


 見張っているんだと思う。

 何をかは分からないけど、少なくとも今日は、自分なりにこの家の入口を気にしている。


「たつくん」

 と、まるさんが言う。


「ん?」

「さっきの」

「どれ」

「“今日はもう終わった”ってやつ」

「うん」

「ちょっと助かった」


 鏡に向いたままの声だった。

 でも、その声は、さっきより少しだけやわらかかった。


「ならよかった」

「雑だけどね」

「褒め言葉として受け取る」

「どうぞ」


 まるさんはそこでようやく、メイクを全部落とし終えた。

 顔を上げる。

 鏡の中にいるのは、仕事の人じゃなくて、家に帰ってきたまるさんだった。


 まだ疲れてる。

 たぶん完全には抜けていない。

 でも少なくとも、さっき玄関で見たときよりは、この部屋の空気に戻ってきていた。


「なんか食べる?」

 と、俺は聞く。


「いらない」

「ほんとか?」

「プリンなら食べるかも」

「元気じゃん」

「ちょっとだけね」


 その返しで、俺も少しだけ息を吐く。


 完全に大丈夫じゃない。

 でも、完全に壊れてるわけでもない。

 今はたぶん、その中間で持ちこたえている。


 エルちゃんが、洗面所の前でまだ動かない。

 玄関を警戒するみたいに、時々そっちを見る。


 この家の中に、外の厄介さが少しだけ入り始めている。

 たぶん、それは事実だった。


 でも同時に、この家の中には、それを全部そのまま通さない何かもあるんだと思う。


 玄関で止まる猫とか。

 洗面所の前で見張る猫とか。

 雑でも「今日はもう終わった」と言う俺とか。


 どれも頼りないけど、ゼロではない。


「プリン出す?」

 と、俺が言う。


「出す」

 と、まるさんが言う。


 その声が少しだけ軽くなっていて、俺はようやく、今夜はここまででいいかと思えた。

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