第20話 三人映画
雨の日の部屋は、少しだけ世界から切り離される。
朝からずっと、窓の向こうが白かった。
細い雨が途切れず落ちていて、電線も向かいの建物も、ぜんぶ薄い膜を一枚かけたみたいに見える。音もずっとしているのに、うるさいというより、部屋の輪郭をぼやかすための音みたいだった。
エルちゃんは朝から落ち着かなかった。
窓辺に行って、外を見る。
鳩はいない。
でも一応警備する。
しばらくすると飽きてソファへ戻る。
また思い出したように窓へ行く。
「今日の警備、だいぶ暇そうだな」
と、俺が言う。
「雨の日は治安が静かだからね」
と、ソファの上でまるさんが言う。
今日は珍しく、二人とも家にいた。
俺は休み。
まるさんもシフトの都合で夜まで完全に空きらしい。
朝の時点では、洗剤を買いに行くとか、猫砂のストックを見に行くとか、一応それっぽい予定を口にしていた。
でも昼前になっても雨脚が変わらなくて、だんだん全部どうでもよくなった。
「出る?」
と、俺が聞く。
「出ない」
と、まるさんが即答した。
「早いな」
「今日はもう、部屋が勝った」
「なんの勝負だよ」
「外と内の勝負」
「詩人か」
「雨の日だけね」
そう言って、まるさんはブランケットを膝に引き寄せた。
家用の大きいTシャツに、緩いパンツ。髪も適当にまとめただけ。
今日は完全に外へ出る気がない人の格好だった。
俺もソファに腰を下ろす。
ローテーブルの上には、さっき淹れたコーヒーと、適当に出したお菓子。
エルちゃんはその真ん中を当然のように横切っていく。
「踏むなよ」
「にゃ」
「返事だけは立派」
「王様だから」
まるさんが笑う。
「なんか見る?」
と、俺が聞いた。
「見る」
「即答だな」
「雨の日って、映画見るためにあるでしょ」
「そんな用途で天気はできてない」
「でも気分はそう」
テレビをつける。
配信の一覧を流す。
ジャンルが並ぶ。
「なに系」
「重くないやつ」
「じゃあアクション」
「派手すぎないやつ」
「注文多いな」
「雨の日のメンタルは繊細なので」
結局、最初に選んだのは、話の大筋を知らなくても何となく見られるタイプの洋画だった。
内容はそこそこ面白くて、でも見逃しても困らない感じ。
雨の日の一本目としてはちょうどいい。
映画が始まると、部屋の空気がさらに静かになる。
雨の音。
テレビの音。
たまにマグカップを置く音。
それだけで、昼がゆっくり進んでいく。
エルちゃんは、最初はテレビの前をうろうろしていた。
でも十分もしないうちに興味をなくしたらしく、今度はソファの前に座って、俺たちを見上げる。
「どうした」
「にゃ」
「内容が気に入らない?」
「たつくん、映画の感想を猫に求めないで」
「議長だから」
「会議はもう終わったでしょ」
まるさんはそう言いながら、お菓子をひとつ取った。
ついでに俺の方にも袋を寄せる。
そういう小さい動きが、なんかもういつも通りだった。
この前まで、連絡の話でちょっとぶつかっていたのが嘘みたいだと思う。
いや、嘘じゃない。
ちゃんと残っている部分もあるんだろうけど、少なくとも今は、それより雨の方が強い。
「たつくん」
「ん?」
「この人、絶対さっき死んだでしょ」
「いや生きてる流れだろ」
「でも刺さってたよ」
「洋画はたまに気合で戻る」
「雑な説明」
「雰囲気で見ろ」
まるさんが声を立てずに笑う。
その横で、エルちゃんがようやく落ち着き場所を決めた。
俺たちの足のあいだだった。
「うわ」
「そこ行く?」
「完全に動けなくする気だな」
「ベストポジション見つけたねえ」
エルちゃんは俺の膝のすぐ前と、まるさんの足先のあいだに体を滑り込ませると、そのまま丸くなる。
長く伸びれば、こっちはどっちも足を動かしづらい。
でも退けようとするほどでもない。
結局、そのまま放置になる。
「重い?」
「そこまでじゃない」
「でも動けない」
「動く必要ある?」
「ないかも」
映画は一本終わって、二本目に移った。
今度はまるさんが選ぶ番で、少し古めの邦画になった。
派手じゃないやつ。
人が静かに喋って、あまり事件も起きないやつ。
「今日それいく?」
と、俺は言った。
「雨の日だから」
「理屈が全部そこに集約されるな」
「便利でしょ」
便利ではある。
二本目の途中で、まるさんの反応が少しずつ遅くなる。
返事はする。
ちょっと笑う。
でも、セリフへのツッコミが減っていく。
「眠い?」
と、俺が聞く。
「……ちょっと」
「寝れば」
「でも続き見たい」
「目、半分閉じてるぞ」
「耳で追う」
「無茶言うな」
そう言いながらも、まるさんはソファの背にもたれて、ブランケットを少し引き上げた。
エルちゃんはその足元で、完全に熟睡している。
雨の音はまだ続いていた。
部屋はあったかい。
映画の声は穏やかで、事件も起きない。
そりゃ眠くもなる。
しばらくして横を見ると、まるさんはもう寝ていた。
顔が少しだけこっちを向いていて、手の中には食べかけのお菓子の袋が残っている。
危ないのでそっと抜き取って、テーブルへ置く。
起きない。
それからブランケットの端が落ちかけていたので、肩まで引き上げる。
そのときも、まるさんは少しだけ身じろぎしただけだった。
「……無防備だな」
小さく言う。
返事はもちろんない。
映画はまだ続いていたけど、俺はあまり画面を見ていなかった。
ソファの真ん中にはエルちゃん。
その向こう側でまるさんが寝ていて、ブランケットの端だけが少し揺れる。
外は雨。
部屋の中は、何も起きていない。
何も起きていないのに、なんかちゃんと満たされている感じがした。
こういうのが、この作品の本体なんだろうな、とたまに思う。
じゃない、この生活の、たぶん本体。
大きなことはない。
でも、気がつくと形になっている。
映画が終わる少し前に、エルちゃんが起きた。
ぐっと伸びをして、そのまま前足を俺の膝にかける。
「ん」
「にゃ」
ごはんではない。
でも何か主張したい声だった。
「トイレ?」
「にゃ」
「分からん」
エルちゃんはそのままソファに飛び乗り、今度はまるさんの足の方へ行く。
ブランケットの上をのしのし歩いて、まるさんの膝のあたりで止まった。
「それは起きるぞ」
案の定、まるさんが薄く目を開ける。
「……ん」
「おはよ」
「寝てた?」
「だいぶ」
「最悪」
「二本目の後半、ほぼ参加してない」
「うそ」
「ほんと」
まるさんは顔をしかめたあと、ブランケットを見た。
肩まで掛かっているのに気づいて、少しだけ目を瞬く。
「……ありがと」
「勝手に落ちそうだったから」
「そういうことにしとく」
「なんだよそれ」
起きたばかりの、やわらかい声だった。
まるさんは目をこすって、それからテレビのエンドロールを見る。
すぐには立ち上がらない。
ソファの端で体勢を少し整えただけだ。
「エルちゃん」
「にゃ」
「起こした?」
「起こしたね」
「えらい」
「なんで」
「見逃したら損するから」
「もう終わってるよ」
それでまた、少し笑う。
「三本目いく?」
と、俺は聞いた。
「いく」
「まだ見るのか」
「雨の日だよ?」
「だからその理論なんなんだよ」
「今日は無限に見れる」
結局、三本目はもう少し軽いやつにした。
内容より、流れていればいいやつ。
途中で会話してもいいし、ぼんやり眺めていても成立するやつ。
夕方が近づくにつれて、部屋は少し暗くなる。
俺が照明をつけると、ガラスに当たる雨粒がそのぶんはっきり見えた。
「出なくて正解だったね」
と、まるさんが言う。
「洗剤は買えてないけどな」
「明日でいい」
「猫砂も」
「まだある」
「中央政権会議で在庫管理の重要性を」
「急に現実に戻すな」
まるさんが笑いながら、ソファの上で足を少し崩す。
エルちゃんはその隙間を見逃さず、また真ん中に戻ってくる。
「おまえ、ほんと中央好きだな」
「にゃ」
「今日いちばん映画見てないのに、いちばん満足そう」
「部屋が整ってるからでしょ」
「ざっくりした解釈だな」
でも、たぶん間違ってない。
今日は何も進んでいない。
外にも出ていない。
大事な話もしていない。
映画を流して、コーヒーを飲んで、猫に動きを制限されて、少し寝ただけだ。
それなのに、ここ数話で少しずつずれていたものが、ちゃんと元の位置に戻った感じがある。
まるさんが不意に言った。
「こういう日、けっこう好き」
「映画?」
「映画もだけど」
「雨?」
「それもだけど」
そこで言葉を切って、ソファの真ん中を見る。
「三人で、どこにも行かない日」
俺は一度だけ、エルちゃんの背中に触れた。
あったかい。
「分かる」
と、俺は言う。
まるさんはその返事に少しだけ笑って、それ以上は何も言わなかった。
映画はまだ続いている。
でも、もう誰もそんなに真面目には見ていない。
部屋の中に雨音が染みて、ソファの上に三人分の体温があって、足元は少し狭い。
それだけで、今日はもう十分だった。
たぶん次には、また何か起きる。
仕事とか、外とか、気持ちのずれとか、いろいろ。
でもその前に、こういう何もない日がちゃんとあるのは、かなり大事なんだと思う。
エルちゃんが真ん中で丸くなり直す。
俺とまるさんはその左右で、同じように動けなくなっている。
「なあ」
と、俺は言う。
「これ、映画終わっても誰も立てないな」
「うん」
「ごはんどうする」
「そのとき考える」
「現実担当がそれ言う?」
「今日は雨の日だから」
「万能すぎるだろ、その言葉」
まるさんが声を立てて笑った。
その笑い声を聞きながら、俺も少しだけ背にもたれる。
テレビの光がゆっくり部屋を変えていく。
何も起きない午後。
でも、ちゃんと整う午後。
雨の日の部屋は、やっぱり少しだけ世界から切り離されていた。




