第2話 ニャルソック
朝、いちばん早く起きるのは俺だ。
正確には、俺を起こすのがいちばん早いのはエルちゃんだ。
「……うぉっ」
胸の上に、ずし、と熱いものが乗った。
目を開けると、薄明るい部屋の中でエルちゃんがじっとこっちを見下ろしていた。無毛のくせに妙に威圧感がある顔である。王様というより、徴税に来た代官みたいな顔だ。
「重いって、おまえ……」
「……にゃ」
短く鳴く。
ああ、これは完全に「起きろ」のやつだ。
枕元のスマホを見ると、朝の六時半。まだもう少し寝られる時間ではあるけど、エルちゃんの中ではとっくに始業時刻らしい。というか、たぶん朝ごはんの催促だ。
胸の上からどく気配はない。
むしろ「起きないならここで待つが?」みたいな顔をしている。
「分かった分かった。起きるから」
上半身を起こすと、エルちゃんは仕事を終えた顔でさっと降りた。
毎回思うけど、絶対わざとだ。人の睡眠を切り上げるタイミングに迷いがない。
ベッドの反対側を見る。
まるさんは毛布に半分埋もれたまま、まだ寝ていた。夜職だから当たり前なんだけど、この時間はだいたい完全に停止している。昨夜も帰ってきたの遅かったし、起きるのは早くて昼前だろう。
右に寝ぼけた俺、左に熟睡中のまるさん、真ん中に王様。
昨夜の陣形が、そのまま朝まで保存されていたらしい。
エルちゃんは一足先にベッドを降りると、すたすたと部屋の外へ向かった。
振り返りもしない。
ついてくるのが当然だと思ってる足取りだった。
「案内しなくても分かるって」
小声で文句を言いながら、俺も後を追う。
キッチンでフードを皿に入れると、さっきまでの尊大な顔はどこへやら、エルちゃんは瞬間移動みたいな速度で足元に現れた。
「袋の音にだけ反応速度おかしいんだよなあ」
カリカリという軽い音が朝の部屋に響く。
俺はその間にケトルをつけて、コーヒーを入れて、ついでに自分の朝飯用のパンをトースターに押し込んだ。
この家の朝は静かだ。
たまに外を走る車の音がして、冷蔵庫が小さく唸って、エルちゃんが食べる音だけが妙にはっきり聞こえる。夜の時間帯とは別の部屋みたいだと、たまに思う。
食べ終わったエルちゃんは、満足したらすぐ窓際に移動した。
うちのリビングの窓辺には、半分だけ日が差す場所があって、そこがエルちゃんの第二の玉座になっている。ベッドが夜の王座なら、こっちは昼の監視台だ。
カーテンの隙間から外を見て、耳がぴくっと動く。
「始まったな、朝の警備が」
俺がそう言うと、エルちゃんは一度だけ尻尾を揺らした。
返事のつもりかもしれないし、たぶん違う。
ノートPCを立ち上げて、仕事用のチャットを開く。
まだ本格的に始業ではないけど、インフラ系は朝の確認だけでもそれなりにやることがある。夜のうちにアラートが飛んでいないか、ログが変なことになっていないか、軽く見るだけでも精神の安定度が違う。
その横で、エルちゃんはじっと窓の外を見ていた。
「異常なし?」
「……」
「ある顔だな、それ」
つられて窓の外を見ると、電線に鳩が一羽いた。
エルちゃんの肩甲骨のあたりが、わずかに盛り上がる。
分かりやすい。めちゃくちゃ分かりやすい。
「おまえ、ほんと鳩好きだよな」
「にゃ」
好きというか、敵視というか。
毎朝のように窓越しで睨み合っているくせに、向こうの鳩にはたぶん一ミリも脅威と思われていない。その一方通行な緊張感込みで、もううちでは恒例行事になっていた。
俺がキーボードを叩いている間も、エルちゃんはずっと警備を続ける。
視線は外。耳だけが、部屋の中の音もちゃんと拾っている。
たとえば、寝室の扉が開く音とか。
「……さむ」
かすれた声と一緒に、まるさんがふらふら出てきた。
まだ十時前。今日は少し早い方だ。
寝起きのまるさんはだいたい無防備で、髪は跳ねてるし、目も半分しか開いてないし、さっきまで外で働いてた人には全然見えない。大きめのパーカーを頭からかぶって、そのままソファまで歩いてきて、力尽きたみたいに座り込む。
「おはよ」
「……おはよー」
「早いな」
「エルちゃんの朝ごはんの音で、ちょっと起きた」
「そこから二時間半かけてここまで来たんだ」
「起床には助走が必要なの」
もっともらしい顔で言うけど、寝起きすぎて説得力は薄い。
まるさんはぼんやりしたまま窓辺を見て、それから小さく笑った。
「あ、ニャルソックしてる」
「してる」
「今日も治安守ってるねえ」
「このへんの平和、ほぼあいつにかかってるから」
「警備対象、鳩だけど」
エルちゃんはその会話など気にもせず、窓の外の一点を見つめ続けている。
気迫だけなら特殊部隊だ。
「コーヒーいる?」
「んー……いる」
「砂糖」
「多め」
「はいはい」
マグカップをもうひとつ出してコーヒーを淹れる。
砂糖を入れて渡すと、まるさんは両手でカップを抱えた。朝のこの人は、だいたいまず熱で起動する。
「たつくん、仕事?」
「ぼちぼち」
「平和?」
「今んとこ」
「よかったねえ」
言いながら、まるさんはソファの背にもたれた。
家の中にいると、こういう何でもない会話ばっかりになる。でも、それで足りてしまうのが不思議だった。
外で起きたこととか、将来のこととか、考えればいろいろあるはずなのに、朝のこの部屋にいると、だいたい全部あとでいい気がしてくる。
そのとき、エルちゃんが急に身を乗り出した。
「おっ」
「なに?」
窓の向こうで、鳩が二羽に増えていた。
「増援来た」
「緊急事態じゃん」
「治安悪化したな」
まるさんが笑いながら立ち上がる。
そのままエルちゃんの隣にしゃがみ込んで、同じように外を見た。
「どれ?」
「電線の上」
「あー、いた。あれか」
「完全にマークしてる」
「えらいねえ」
「褒めると調子乗るぞ」
もう遅い。
エルちゃんは明らかに自分が褒められていると思っていて、胸を張るみたいに背筋を伸ばした。窓越しの鳩相手に優勢を確信した顔をしている。
「おまえ、実際には外出たら三秒で帰ってくるくせに」
「にゃー!」
「怒った」
「怒ったね」
「図星だからだろ」
「いやでも、出たら困るし」
そう言って、まるさんはエルちゃんの背中を撫でる。
エルちゃんは嫌がらない。
窓警備中はだいたい機嫌がいいからだ。
俺も少しだけ手を止めて、その様子を見る。
昼と夜で生活時間はずれてるし、仕事の中身も全然違うし、家の中でもそれぞれ勝手に動いてる時間の方が多い。それなのに、こういう瞬間だけ、同じものを見てる感じがする。
まあ、見てるのは鳩なんだけど。
「たつくん」
「ん?」
「今日、夜ごはんいる?」
「いる」
「じゃあ帰り、卵買ってきて」
「了解」
「あとプリン」
「まだ食うの」
「昨日のは昨日のだから」
「理論が強いな」
まるさんは満足そうに頷いた。
その足元で、エルちゃんがようやく窓から離れる。たぶん、ひととおり警備が終わったんだろう。
そして当然のように、まるさんの足に体を擦りつけた。
「はいはい。なに、第二ラウンド?」
「朝ごはん食べたろ」
「でも食べた気はしないのかもよ」
「贅沢な王様だなあ」
エルちゃんはまるさんの足元を一周すると、今度は俺の椅子の脚にも額を押しつけてきた。
平等に徴税しているらしい。
まるさんがくすっと笑う。
「ほんと、真ん中にいるね」
「何が」
「エルちゃん。夜も昼も」
「物理的にもな」
「そうそう」
それだけ言って、まるさんはまたコーヒーを飲んだ。
俺は仕事用の画面に戻る。
窓際では、ニャルソック任務を終えたエルちゃんが丸くなっていた。
ソファには、まだ完全には目が覚めていないまるさんがいる。
夜の近さとは違う。
朝のこの距離も、たぶん嫌いじゃない。
静かな部屋の真ん中で、エルちゃんが満足そうに目を閉じる。
平和はたぶん、今日も守られた。




