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第17話 エルちゃん仲裁

 気まずい空気は、音が少ない。


 別に怒鳴り合ったわけでもない。

 物が壊れたわけでもない。

 昨日の喧嘩だって、声は最後までそんなに大きくならなかった。


 でも、翌日の部屋には、ちゃんとその余波が残る。


 朝、俺が起きても、まるさんはまだ寝ていた。

 それはいつも通りだ。


 昼、俺が仕事をしているあいだ、寝室のドアが一度開いて、まるさんが水だけ飲みに出てきた。

 それもまあ、よくある。


 違うのは、そのときの会話だった。


「おはよ」

「……おはよ」

「水?」

「うん」

「そっか」


 それだけ。


 前なら、寝起きの顔ひどいなとか、今日早いなとか、なんか一個くらい余計なことを挟んでいたはずなのに、それがない。


 まるさんも、俺の仕事の画面を見て「平和?」とか聞いてこない。

 ただ水を飲んで、エルちゃんの頭を一回だけ撫でて、また寝室へ戻っていった。


 部屋がやけに静かだった。


 静かっていうか、会話の余白がなくなっている。

 必要な言葉しか出てこない。


 それは、喧嘩のあと特有のやつだ。


 夕方になって仕事が終わっても、その感じはあまり変わらなかった。


 俺がノートPCを閉じる。

 キッチンで湯を沸かす。

 まるさんが起きてきて、冷蔵庫を開ける。


「なんか食べる?」

 と、俺が聞く。


「あとでいい」

 と、まるさんが答える。


「そっか」

「うん」


 終わり。


 会話が全部、三手以内で終わる。

 効率はいいのかもしれないけど、生活としてはだいぶよくない。


 ソファの上では、エルちゃんが珍しく落ち着かなかった。


 普段なら、ど真ん中を取って一日ひとりで満足している時間なのに、今日は妙に立ったり座ったりしている。

 窓辺へ行って、すぐ戻る。

 寝室のドアの前まで行って、また戻る。

 そのたびに、こっちを一回ずつ見る。


「……なんだよ」


 俺が言うと、エルちゃんは短く鳴いた。


「にゃ」


 その声が、いつもの要求のやつじゃない気がした。

 飯でもない。

 おやつでもない。

 たぶん、もっと漠然とした不満だ。


 まるさんもそれに気づいたらしい。


「今日、落ち着かないね」

「おまえが?」

「エルちゃんが」

「そっちか」

「そっちです」


 その返しだけ、少しだけ前に近かった。

 でもそこから先は続かない。


 エルちゃんはソファの上で方向転換を繰り返したあと、突然、テレビ台の前に移動した。

 それから、こちらを振り返って、鳴く。


「にゃー」


「なに」

 と、俺が言う。


 返事の代わりに、もう一回。


「にゃー」


 まるさんが冷蔵庫の前から顔を出した。


「ごはん?」

「まだ早い」

「じゃあおやつ?」

「それにしては声が大きい」


 エルちゃんはテレビ台の前から動かない。

 ただ、じっとこちらを見ている。


「行ってみれば」

 と、まるさんが言った。


「なんで俺が」

「呼ばれてるから」

「おまえもだろ」


 そこで、ほんの少しだけ間が空く。


 たぶん、どっちも同じことを思った。

 呼ばれてるのは俺ひとりじゃない。

 でも先に動くのも、なんか妙に気まずい。


「……行けば」

 と、俺が言う。


「たつくんが先でいいよ」

「なんで」

「私いまコップ持ってるし」

「雑な理由だな」


 そのやりとりのあいだに、エルちゃんがまた鳴いた。

 今度は少しだけ苛立ってるみたいな声だった。


「分かったよ」


 俺は立ち上がって、テレビ台の前まで行った。

 エルちゃんは一歩下がる。

 そして、ソファの方へ移動する。


「……は?」


 ソファの真ん中へ跳び乗る。

 そこでくるっと向きを変えて、またこっちを見る。


「座れって?」

 と、思わず言う。


「え、なにそれ」

 と、まるさんが笑う。


「知らんけど」

「座ってみたら」

「なんで俺だけ」

「呼ばれてるから」


 さっき言われたのをそのまま返される。

 仕方なく、俺はソファの片側に腰を下ろした。


 するとエルちゃんは、すぐには丸くならなかった。


 真ん中に座ったまま、じっと反対側を見る。


「……」

「……もしかして」

 と、まるさんが言う。


「なに」

「私も?」

「そんなわけ」

「にゃー!」


 そのタイミングで鳴くなよ、と思う。


 エルちゃんは完全にまるさんの方を向いていた。

 呼んでいる。

 どう見ても呼んでいる。


「え、やだ」

「なんで」

「なんか恥ずかしい」

「意味分かんないこと言うな」

「だって、猫に着席指示されてる」

「俺もされてるよ」


 そこで、まるさんが少しだけ口元をゆるめる。

 昨日から比べれば、それだけでもかなり進歩だった。


 でも本人はまだ動かない。


 するとエルちゃんは、待つのをやめた。

 ソファから降りて、まるさんの足元まで行く。

 それから、くるぶしに前足をかけて、短く鳴く。


「にゃ」


「わ」

「完全に呼んでるな」

「そんなことある?」

「うちの王様ならある」


 まるさんはコップをテーブルに置いた。

 そして、渋々みたいな顔でソファに近づいてくる。


「座ればいいの?」

「知らんけど」

「命令しないで」

「してない」


 まるさんがソファの反対側に腰を下ろした。


 その瞬間だった。


 エルちゃんは満足したように、ようやく真ん中で丸くなった。


「……あ」

「ほんとだ」


 さっきまで落ち着かなかったのに、今はものすごく納得した顔で喉を鳴らしている。

 左右に俺とまるさん。

 真ん中にエルちゃん。


 いつもの配置だった。


「なにそれ」

 と、まるさんが言う。

「仲裁?」

「雑すぎるだろ」

「でも、今めっちゃ満足してる」

「してるな」


 ほんとにしていた。


 さっきまでテレビ台の前で文句を言っていた猫とは思えないくらい、穏やかだ。

 前足をきれいにそろえて、目まで細めている。

 配置が整ったので、もう文句はありません、という顔だった。


 俺とまるさんは、ソファの左右で少しだけぎこちなく座っていた。


 距離はある。

 触れない。

 でも、前みたいな「部屋の中で別々の島にいる」感じではなくなっていた。


「エルちゃん」

 と、まるさんが小さく呼ぶ。


「にゃ」


「気まずかった?」

「猫に聞くことじゃないだろ」

「でも、今日ずっと変だったよね」

「……まあ」

「部屋の空気とか」

「……まあ」


 そこで、俺も認めざるをえない。


 気まずかった。

 かなり。


 でも、それを改めて言葉にするのも、やっぱり少し照れくさかった。


 まるさんが、エルちゃんの背中をそっと撫でる。

 喉の音が少し大きくなる。


「昨日の続き、まだちょっと残ってたね」

 と、まるさんが言う。


「うん」

「ごめん」

「……俺も」


 それだけだった。


 ちゃんとした謝罪の言葉じゃない。

 何に対してどこまで謝っているのかも曖昧だ。

 でも、今はそれで足りる気がした。


「たつくん」

「ん?」

「私さ」

「うん」

「昨日、たつくんが言ってたこと、嫌だったわけじゃない」

「……」

「連絡いるのは、ほんとにそうだと思う」

「うん」


 俺はエルちゃんの耳の先を見る。

 まるさんの顔をまっすぐ見るには、まだ少しだけ気まずかった。


「俺も」

 と、言う。

「おまえが帰れない日あるの、分からないわけじゃない」

「うん」

「でも、分かってても焦る」

「うん」

「だから、昨日はちょっと、言い方が悪かった」


 そこでまるさんが、小さく笑った。


「ちょっと?」

「……まあ、そこそこ」

「そういうとこだよ」

「またそれ言うのか」

「でも今のは、前よりちょっとやわらかい」

「うるさい」


 言い返すと、まるさんの笑い方が少し深くなる。

 やっと、昨日までの冷えた感じじゃない笑い方になった。


 エルちゃんはそのあいだ、まったく動かない。

 完全に、自分の仕事が成功したことを知っている顔だった。


「おまえ、すごいな」

 と、俺が言う。


「今日いちばん仕事してる」

 と、まるさんが言う。


「王様兼裁判官兼仲裁役」

「役職多すぎ」

「にゃ」


 タイミングよく鳴いたせいで、二人とも吹き出した。


 それでたぶん、完全に元に戻ったわけじゃないけど、少なくとも前を向けるくらいには空気がほどけた。


 まるさんが立ち上がる。


「なんか、あったかいの入れようか」

「いいの?」

「いいよ。仲裁成功祝い」

「誰の」

「エルちゃんの」

「本人に飲ませるのか」

「それはだめ」


 まるさんがキッチンへ向かう。

 その途中で、ふと振り返った。


「たつくん、コーヒー?」

「うん」

「今日は甘いやつ?」

「……そうしようかな」

「了解」


 その返事が、昨日までの短いやつじゃなくて、いつもの温度に戻っていた。


 エルちゃんはまだ真ん中にいる。

 俺が少しだけ体を預けても、逃げない。

 むしろ「当然そこだろ」と言いたげな顔だった。


 キッチンから湯の沸く音がする。

 スプーンがカップに当たる音がする。

 部屋の中に、また生活の音が戻ってくる。


 喧嘩って、ちゃんと解決したかどうか分からないまま終わることもあるんだろうなと思う。

 でも、同じソファに戻って、真ん中の猫が落ち着いて、台所から湯気の音がしてくるなら、それで十分な夜もある。


 まるさんがマグカップを二つ持って戻ってきた。


「はい」

「ありがと」

「熱いから気をつけて」

「おう」


 カップを受け取ると、指先にじんわり熱が移る。


 まるさんはもう一度ソファに座った。

 今度はさっきより自然だった。


 エルちゃんは真ん中で満足そうに目を閉じる。


 たぶん、この家では、ちゃんと話すことも大事だ。

 でも同じくらい、同じ場所に戻ることも大事なんだと思う。


 そしてそのタイミングを、たまに猫が勝手に決める。


「なあ」

 と、俺がエルちゃんに言う。

「次から毎回やってくれない?」

「無理だろ」

 と、まるさんが言う。

「成功報酬高そうだし」

「カリカリ一食分とか?」

「安い」

「王様だからな」


 また、二人で笑う。


 その真ん中で、エルちゃんは何も知らない顔で喉を鳴らしていた。

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