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第16話 小さな喧嘩

 喧嘩というのは、たいてい大きい声から始まるわけじゃない。


 むしろ、小さい方が厄介だ。


 普段通りの声で。

 普段通りの顔で。

 でも、どこかに引っかかりが残ったまま話していると、会話はだんだんうまく転がらなくなる。


 昨日の夜がまさにそうだった。


 駅まで迎えに行って、傘を一本買って、エルちゃんに玄関で怒鳴られて、ようやく家に戻ってきた。

 そのあとはもう、大きな話はしなかった。


 まるさんは風呂に入って、スマホを充電して、珍しくすぐ寝た。

 俺もそれ以上何か言う気にはなれなくて、結局そのまま夜を越えた。


 だから、今この部屋にあるのは、解決した空気じゃない。

 ただ持ち越された空気だった。


 夕方、俺は仕事を終えてノートPCを閉じた。

 リビングには、キッチンで麦茶を注ぐ音がしている。


 まるさんは今日は休みらしく、家用のラフな服のままだった。

 髪も適当に結んだだけ。

 見た目だけなら、いつもの休みの夕方だ。


「仕事終わった?」

 と、まるさんが聞く。


「終わった」

「おつかれ」

「そっち、起きるの早いな」

「今日はまあ」

「珍しい」

「失礼だなあ」


 言い方も、笑い方も、普通だった。


 だから余計に、昨日の夜が浮いて見える。


 エルちゃんはソファの背に前足をかけて、窓の外を見ていた。

 鳩はいない。

 でも警備は続いているらしい。


「夜、出る?」

 と、俺は聞く。

「出ない。今日は休み」

「そっか」

「うん」


 そこで会話がいったん切れる。


 こういうとき、普段なら別に気にしない数秒が、妙に長く感じる。

 俺はソファに座ったまま、テーブルの上のスマホを手に取って、置いて、また手を離した。


 言うなら今だな、と思う。


 先延ばしにしても、たぶんよくない。

 まるさんだって、分かってるはずだ。

 昨日のことが、何もなかったことにはなっていないって。


「昨日のことなんだけど」

 と、俺は言った。


 まるさんの手が一瞬だけ止まる。

 でも振り返らないまま、

「うん」

と返す。


「ごめん」

「いや」

「心配かけたのは、ほんとにそうだから」

「うん」


 そこまでは、想定通りだった。

 たぶん、まるさんもそこは分かってる。


 問題は、その先だった。


「次から」

 と、俺は言う。

「連絡だけは入れて」


 まるさんが、今度はちゃんとこっちを見た。


「……入れた方がいいのは分かってる」

「じゃなくて」

「うん」

「分かってる、じゃなくて、入れてくれないと困る」

「困る、って」


 その言葉の返り方で、少しだけ空気が変わる。


 俺は自分でも、それが少し硬い言い方だったと思う。

 でも、昨日の夜のあの感じを思い出すと、やわらかく言い換える余裕がなくなる。


「昨日、スマホ切れてたし」

「それはほんとに気づいてなかった」

「そこも含めて」

「うん」

「一言でいいからさ」

「……」


 まるさんはグラスを持ったまま、キッチンのカウンターにもたれた。


「一言って、簡単に言うけど」

「簡単だろ」

「そうでもない日もあるよ」


 その返しで、俺も少しだけ止まる。


「いや、でも」

「スタンプ一個とかでいい、って言いたいんでしょ」

「……まあ」

「昨日の私は、そのスタンプ一個送るのもしんどかった」

「それでも」


 言いかけて、語尾が少し強くなる。


「それでも、連絡ない方がこっちはきつい」

「こっち、って」

「俺も」

 一拍置いて、

「エルも」


 まるさんの目が少しだけ細くなる。


「エルちゃんまで使うんだ」

「使ってない」

「使ってるよ」


 たぶん、そこじゃない。

 でも、そこから少しずつずれていく感じがした。


 俺は息を吐く。


「別に責めたいわけじゃない」

「そう聞こえてる」

「じゃあどう言えばいいんだよ」

「……」


 まるさんは答えない。

 グラスの中の氷だけが、かすかに鳴る。


 俺はそこで、言い方を変えるべきだったんだと思う。

 でも一度乗った流れは、そう簡単には止まらない。


「昨日、本気で何かあったかと思った」

「うん」

「駅まで探しに行った」

「うん」

「そういうのを、もう一回やるの嫌なんだよ」


 たぶん、その言い方もよくなかった。


 嫌なんだよ、は本音だった。

 でも、まるさんにとっては「迷惑をかけるな」に聞こえかねない言い方だった。


 案の定、まるさんの顔が少しだけ固くなる。


「迷惑だった?」

「そういう意味じゃなくて」

「でも、嫌だったんでしょ」

「心配したって言ってるだろ」

「分かってるよ」


 分かってるよ、と言いながら、その顔はあんまり分かっている感じじゃなかった。

 いや、違うな。

 分かってるけど、そこにだけ収まれない顔だった。


 まるさんはグラスを置いた。

 その音は小さいのに、部屋にやけに響く。


「昨日さ」

 と、まるさんが言う。

「帰れなかったのは、帰りたくなかったからじゃないよ」

「うん」

「帰る元気がなかったの」

「それも分かる」

「ほんとに?」

「分かろうとはしてる」


 それが、たぶんだめだった。


 “分かる”じゃなくて“分かろうとはしてる”。

 事実としては正しい。

 でも、今の会話でそれを選ぶのは、あまりにも正しすぎた。


 まるさんは小さく笑った。

 でもその笑い方は、冷えていた。


「そういうとこだよ」

「なにが」

「たつくん、いつも正しいこと言おうとする」

「正しいこと言って悪いのか」

「悪いって言ってない」

「じゃあ」

「弱ってるときに、正しいこと出されると、しんどいって言ってるの」


 そこでようやく、俺も黙る。


 言ってる意味は、分かる。

 分かるけど、それでも連絡は必要だと思っている自分もいる。


 どっちも間違ってないから、余計にやっかいだった。


「じゃあ、何も言うなってこと?」

 と、俺は聞いた。


 聞き方が悪いのは、自分でも分かっていた。


「そういう極端な話じゃないでしょ」

「でも」

「私は昨日、うまく帰れなかった」

「うん」

「そのときに、“連絡しろ”って言われると、余計帰れなくなる日もある」

「……」


 まるさんの声は大きくない。

 怒鳴ってもいない。

 でも、その静かさの方が、かえって刺さる。


「弱ってる顔のまま帰るの、嫌だったの」

 と、まるさんは続けた。

「たつくんに見せるのも、ちょっと嫌だった」

「なんで」

「なんでって……」


 そこで、まるさんは初めて少しだけ目を逸らした。


「見せたら、たつくん、たぶん優しいから」

「……」

「それが、しんどい日もある」


 その言葉は、想定していなかった形で来た。


 優しくされるのが嫌、じゃない。

 優しくされると、その場では助かる。

 でも、その前に自分が弱っていることを認めないといけない。

 たぶん、そういう話なんだろう。


 俺は口を開いて、閉じた。


 何か言わなきゃと思うのに、ここで何を言っても、また正しさの方へ転びそうだった。


 その沈黙の中を、エルちゃんが横切った。


 のそのそと、いつもの調子でリビングの真ん中まで来る。

 空気の悪さなんて関係ないみたいな歩き方で。

 でも、そこで止まらず、まっすぐ俺の方へ来た。


「ん?」


 見下ろした次の瞬間、エルちゃんは俺の手首に軽く口をつけた。


「いっ」


 軽い。

 ほんとに軽い。

 でも、注意です、という感じのカプだった。


「なに」

「……にゃ」


 抗議するみたいにもう一度鳴いてから、今度はまるさんの足元へ行く。

 そして同じように、くるぶしのあたりに軽く口をつけた。


「いたっ」

「公平だな」

「今日の王様、裁判官?」


 思わず二人とも同時に言って、そこで少しだけ空気が崩れる。


 ほんの少しだけだ。

 仲直りってほどじゃない。

 でも、張りつめていた一本の線は、少しゆるんだ。


 エルちゃんは仕事を終えた顔で、ソファの前に座り込む。

 完全に「どっちも落ち着け」と言っているような態度だった。


「……ごめん」

 と、俺が先に言った。


 まるさんが顔を上げる。


「言い方、きつかった」

「……うん」

「でも、ほんとに心配はした」

「それは分かってる」

「連絡ほしいのも本音」

「うん」


 まるさんはしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。


「私も、ごめん」

「うん」

「ちゃんとできなかった」

「……うん」

「でも、昨日は、ほんとに無理だった」


 その言い方は、言い訳じゃなかった。

 ただの事実だった。


 俺はそれ以上、「でも」を重ねなかった。

 重ねたら、また同じところに戻る気がした。


「次」

 と、まるさんが言う。

「またああなりそうだったら、できるだけ、なんか送る」

「……うん」

「でも、できない日がゼロとは言わない」

「それは」

 少し迷ってから、

「分かった」

と返す。


 完全な納得ではない。

 たぶん向こうもそうだ。


 でも、今この場で求められるのは、正解じゃなくて着地点なんだろう。


「たつくん」

「ん?」

「昨日、迎えに来てくれたのは、ありがたかった」

「……うん」

「そこはほんと」

「分かった」


 そこで会話はまた切れる。


 さっきまでみたいに刺さる沈黙じゃない。

 でも、すっきり晴れたわけでもない。


 喧嘩って、こういう感じだよなと思う。

 大きく壊れたわけじゃないのに、部屋の中の温度が少しずれている。

 元に戻ったとは言えないけど、完全に離れたわけでもない。


 エルちゃんがソファに飛び乗って、ど真ん中に寝そべった。

 当然の顔だった。


「おまえ、さっきのカプ痛かったぞ」

 と、俺が言う。


「私もやられた」

 と、まるさんが言う。


「平等だな」

「公平だねえ」


 少しだけ、笑いが混ざる。

 でもまだ、以前みたいに自然ではない。


 まるさんはグラスを持って、寝室の方へ向かった。


「ちょっと横になる」

「うん」

「ごはん、あとででいい?」

「いいよ」

「ありがと」


 そこまで言って、立ち止まる。


「たつくん」

「ん?」

「怒ってる?」

「……ちょっとは」

「だよね」


 それで、まるさんは小さく笑った。

 今度の笑い方は、さっきより少しやわらかかった。


「私も、ちょっと怒ってる」

「知ってる」

「そっか」


 そのまま寝室のドアが閉まる。


 リビングに残るのは、俺とエルちゃんだけになる。


 ソファに座り直すと、エルちゃんがのそのそ近づいてきて、俺の隣に丸くなった。

 さっきのカプなんてなかったみたいな顔だ。


「おまえ、雑なんだよな」

「……にゃ」

「でも、まあ、助かったかも」


 喧嘩はまだ終わっていない。

 ただ、壊れてもいない。


 たぶん今は、その中途半端なところで止まっている。

 それがこの家らしいのか、単に不器用なだけなのかは、まだよく分からなかった。


 窓の外はもう暗くなりかけていて、部屋の中には夕方のぬるい空気が残っていた。


 近いから、ぶつかる。

 でも近いから、完全には離れない。


 エルちゃんが真ん中にいる限り、たぶんその距離は、ぎりぎり保たれる。

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