第15話 夜の駅
夜の外は、家の中より少しだけ現実的だ。
ドアを開けた瞬間の空気が、まず冷たい。
廊下の照明は白くて、階段は固くて、当たり前だけどエルちゃんもいない。
それだけで、さっきまでの不安が少し別の形になる。
俺はアパートの階段を降りながら、もう一度スマホを見た。
メッセージは既読になっていない。
通話履歴だけが虚しく増えている。
とりあえず、考える。
まるさんがこういうときに行きそうな場所。
終電を逃したあとでも入れて、少し座れて、でも家に帰る決心まではつかないような場所。
コンビニ。
駅前のベンチ。
二十四時間営業のファミレス。
あと、駅。
「……駅か」
口に出した時点で、たぶんそこだと思った。
根拠はない。
でも、遅い時間に一人でぼんやりする場所としては、いちばんまるさんらしかった。
歩き出す。
途中のコンビニだけ一応覗く。
いない。
駅前の明るい自販機のあたりも、いない。
そのまま駅へ向かう途中で、ぽつ、と頬に冷たいものが当たった。
「まじか」
空を見上げると、細い雨が落ち始めていた。
本降りではない。
でも、帰り道を余計に長く感じさせるには十分な雨だった。
駅に着くころには、アスファルトがじわっと色を変えていた。
終電後の駅前は、昼とは別の場所みたいだ。
店のシャッターは半分以上閉まっていて、人も少ない。タクシー乗り場の灯りだけが妙に明るくて、屋根の下に何人かの影がいる。
俺は歩きながら、ひとつずつ顔を見た。
違う。
違う。
あれも違う。
そのとき、改札とは反対側の、少し暗いベンチのあたりに、見慣れたスニーカーが見えた。
立ち止まる。
黒っぽい上着。
膝の上に置いたバッグ。
少しだけ前屈みの背中。
まるさんだった。
見つけた瞬間、胸の奥で何かが強くほどけた。
安心に近いけど、それだけじゃない。力が抜けるのと、妙に腹が立つのと、よかったと思うのが、一気に来る感じだった。
でも、そのどれも、そのままぶつける気にはならなかった。
まるさんは俺に気づいていない。
屋根の端から垂れる雨をぼんやり見ている。
俺は近くの自販機に寄った。
温かい缶コーヒーを二本買う。
なんで二本なのかは分からないけど、たぶん一本だけだと座る理由が弱かった。
それを片手に持って、まるさんの前まで行く。
「こんなとこにいたのか」
声をかけると、まるさんの肩がびくっと揺れた。
顔が上がる。
目が合う。
数秒、まるさんは何も言わなかった。
「……たつくん」
「うん」
「なんで」
「なんでって」
俺はその隣に、少し間を空けて座った。
缶コーヒーを一本、膝の上に置く。
「家に帰ってこないから」
「……」
「スマホ切れてたし」
まるさんは缶コーヒーを見て、それから自分のポケットを探った。
たぶん、そこで初めてスマホの電源が落ちていることを思い出したんだろう。
「うそ」
「うそじゃない」
「……まじか」
その声が、だいぶ疲れていた。
俺はそれ以上、まず何も言わなかった。
怒るのも、問い詰めるのも、ここじゃない気がした。
まるさんも、すぐにはコーヒーに手をつけない。
ただ膝の上のバッグを両手で押さえて、濡れた駅前の地面を見ている。
「雨、降ってる」
と、まるさんが言った。
「うん」
「気づかなかった」
「そうだろうな」
細い雨が、屋根の先で絶えず落ちている。
音は小さいのに、無視しにくい音だった。
しばらくして、まるさんがようやく缶コーヒーを手に取った。
あったかさに少しだけ息をつく。
「ありがと」
「ん」
「怒ってる?」
「……ちょっとは」
「だよね」
そう言って、まるさんはうっすら笑った。
でもその笑い方は、営業スマイルじゃなかった。家の顔でもない。ただ、疲れてる人の顔だった。
「なんか」
と、まるさんが言う。
「帰るタイミング、なくなっちゃって」
「駅で?」
「うん。帰ろうとは思ったんだけど」
「うん」
「なんか、家帰ったら、ちゃんとしなきゃって思って」
「……」
その言葉で、少しだけ分かる気がした。
帰ってきたら、笑って「ただいま」って言うとか。
疲れてても、外の顔を全部すぐには脱げないとか。
そういう小さい手間が、今日のまるさんには重かったんだろう。
「別に、消えたかったとかじゃないよ」
と、まるさんは言った。
「そこまではいってない」
「それはよかった」
「でも、すぐ帰る元気もなかった」
「うん」
俺はコーヒーをひと口飲んだ。
少し苦い。
ぬるすぎず熱すぎず、どうにも中途半端な温度だった。
「連絡はしろよ」
と、俺は言った。
「……はい」
「それだけでだいぶ違う」
「ごめん」
「うん」
責めるつもりで言ったわけじゃない。
でも、それだけはちゃんと言わないといけない気がした。
まるさんは缶を両手で包んだまま、小さくうなずいた。
「たつくん」
「ん?」
「迎えに来るんだ」
「来るだろ」
「そうなんだ」
「そうだよ」
言ってから、少し言いすぎたかなと思う。
でも、引っ込めるほどでもなかった。
迎えに来る。
それは、たぶん俺の中では、かなり自然なことだった。
自然なことになっているのが、少し変だなとも思うけど。
まるさんは少しだけ俯いて、コーヒーの缶を見ていた。
それから、ほんの少しだけ笑う。
「怒られるかと思った」
「怒ってるよ」
「そんな感じしない」
「ここで長々やる気はない」
「助かる」
「あと、雨降ってるし」
「そこ基準なんだ」
「でかいだろ」
まるさんは今度、ちゃんと笑った。
少しだけ、いつもの顔に近かった。
でもその目の下には、ちゃんと疲れが残っている。
「帰るか」
と、俺は言う。
「うん」
「帰れる?」
「たぶん」
「“たぶん”多いな今日」
「今日は信用度が低いので」
「知ってる」
立ち上がる。
まるさんもゆっくり立った。
駅の外に出ると、雨はさっきより少しだけ増えていた。
大雨ではないけど、傘なしでは地味に困るやつだ。
「コンビニ寄る」
「なんで?」
「傘」
「あー……」
「おまえ、気づいてなかっただろ」
「気づいてたけど、見ないふりしてた」
「正直だな」
駅前のコンビニで、ビニール傘を一本買った。
一本だけ。
店を出てから、まるさんがそれを見て言う。
「一本なんだ」
「二本いる?」
「んー……いらないかも」
「だろ」
傘を開く。
透明なビニール越しに、街灯が少しにじんで見えた。
俺が持って、まるさんが横に入る。
肩が触れるほどではないけど、雨を避けようとするとどうしても少し近くなる。
それでも、触れない程度の距離はちゃんと残る。
そういう距離だった。
「ごめんね」
と、歩き出してしばらくしてから、まるさんが言った。
「心配させた」
「した」
「うん」
「エルも玄関前で待ってたし」
「え」
「落ち着かない感じだった」
「……そっか」
まるさんの声が少し小さくなる。
「最悪だなあ」
「おまえが?」
「私が」
「まあ、ちょっと」
「否定して」
「しない」
そこで、まるさんが肩を揺らして笑った。
その笑い方で、さっきまで駅に残っていた重さが少しだけ軽くなる。
「でも」
と、俺は言う。
「帰れる場所あるなら、使えよ」
「……」
「わざわざ駅で消耗するな」
「それ、説教?」
「いや」
「じゃあなに」
「確認」
まるさんはしばらく黙っていた。
雨の音が、傘の上で小さく鳴る。
「うん」
と、やがて言う。
「使う」
「そうしろ」
「たつくん」
「ん?」
「ありがと」
その声は、さっき駅で言ったのよりずっと小さかった。
でも、その方がちゃんと届いた気がした。
帰り道は、行きより少し長く感じた。
たぶん、急いでいないからだ。
見つけたあとだからでもあるし、隣に人がいる状態で歩幅を合わせているからかもしれない。
会話は多くなかった。
でも、ゼロでもなかった。
「缶コーヒー、なんで買ったの」
「なんとなく」
「雑」
「おまえが寒そうだったから」
「……」
「なんだよ」
「いや、そこまで見てるんだなって」
「見えるだろ普通に」
「たつくん、たまにそういうとこあるよね」
「どういう」
「雑にやさしい」
「褒めてる?」
「たぶん」
「ならいい」
また少し、まるさんが笑う。
そのままアパートの階段を上がる。
玄関の前で傘を閉じたとき、二人とも少しだけ濡れていた。
でも、それを気にするほどではなかった。
鍵を開ける。
ドアを開く。
次の瞬間だった。
「にゃー!!」
すごい声がした。
「うわ」
「わっ」
エルちゃんが、玄関のすぐ向こうで待ち構えていた。
完全に抗議の声量だった。
出迎えというより、遅すぎるぞの糾弾である。
「おまえ、声でか」
「怒ってるねえ」
「そりゃそうだろ」
エルちゃんはまるさんの足元に寄ったかと思うと、すぐに俺の方へ来て、またまるさんへ戻る。
どっちに怒ればいいか迷ってるみたいな動きだった。
「ただいま」
と、まるさんがしゃがんで言う。
「ごめんね」
「にゃー!」
「私が悪いです」
「分かってるっぽいな」
「だねえ」
エルちゃんはなおも文句を言いながら、まるさんのバッグを前足で叩いた。
完全に帰宅審査である。
そのあまりの正しさに、俺は思わず笑ってしまった。
まるさんも、しゃがんだまま笑う。
駅の屋根の下にあった重い沈黙が、そこでようやくきれいにほどけた。
「王様の取り調べが始まった」
「厳しい」
「当然だろ。こっちはだいぶ心配したんだから」
「エルちゃんも?」
「俺も」
「……うん」
まるさんはそこで、少しだけ顔を上げた。
何か言いかけて、でも言わないまま立ち上がる。
「とりあえず、風呂」
「先に着替えろ」
「了解です」
「スマホ充電な」
「了解です……」
返事が妙に素直だった。
エルちゃんは、そのあとも玄関からしばらく離れなかった。
たぶん、自分の中で気が済むまで見張るつもりなんだろう。
俺は買ってきた傘をドア脇に立てかけて、濡れた靴を揃える。
その音が、やけに家の音に聞こえた。
帰ってきた。
ちゃんと。
それだけのことなのに、部屋の空気の戻り方が思ったより大きかった。
リビングの明かり。
洗面所へ向かう足音。
足元でまだ怒っている猫。
こういうの全部込みで、この家なんだなと思う。
エルちゃんが最後に一度だけ、短く鳴いた。
「にゃ」
「分かった分かった」
と、俺は言う。
「今夜はもう、ちゃんと帰ってきたから」
たぶん、それはエルちゃんに言ったんじゃなくて、自分に言った言葉だった。




