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第14話 まる失踪未遂

 帰ってくる時間には、だいたい輪郭がある。


 まるさんの仕事は日によって前後するし、きっちり決まっているわけじゃない。

 でも、長く一緒にいると、なんとなく分かるようになる。


 今日はこのへんなら帰ってくるな、とか。

 団体が入ってる日は少し遅いな、とか。

 逆に、嫌な客がいた日はコンビニに寄って間を置いてから戻ることがあるな、とか。


 そういう曖昧な輪郭の中で、家の夜は回っている。


 その日は、その輪郭がどこにもなかった。


 最初に気づいたのは、時計を見たときだった。


 午前一時十七分。


「……遅いな」


 声に出してから、まあ、まだ遅いだけかと思い直す。

 遅い日なんてある。

 別に珍しくない。


 俺はソファの上でスマホを見た。

 最後に来ていたメッセージは、夜の九時前だった。


 今日はちょっと長くなるかも


 それだけ。


 返信には、了解。無理すんな と返してある。

 既読はついていた。


 そこまでは普通だ。

 普通の範囲だ。


 エルちゃんがソファの背から降りてきて、俺の足元を一周した。

 それから、いつもならまるさんが帰ってきてから落ち着く玄関の方を見た。


「まだだよ」


 言っても、もちろん分かってはいない。

 でも、エルちゃんもどこか落ち着かないらしかった。


 玄関前に行って座る。

 少し待つ。

 戻ってくる。

 また玄関を見る。


 たぶん、普段の生活の音がひとつ足りないことだけは分かるんだろう。


 俺は立ち上がって、キッチンで麦茶を注いだ。

 飲みたかったわけじゃない。

 何かしていないと、時計ばかり見そうだったからだ。


 一時二十五分。

 一時三十二分。


 メッセージを送る。


 まだ仕事?


 送信。

 既読はつかない。


 それ自体はおかしくない。

 接客中なら見られない。

 仕事中に即レスしないことなんて普通にある。


 分かってる。

 分かってるけど、さっきまで普通だった輪郭が、少しずつ薄くなっていく感じがした。


 テレビをつける気にはならなかった。

 音があると余計に落ち着かない気がした。


 部屋は静かで、冷蔵庫の低い音と、外をたまに通る車の気配だけがやけに目立つ。

 ソファの端には、さっき畳んだ洗濯物がまだ置きっぱなしだ。

 いつもなら「それ片づけなよ」とか言われそうな時間だった。


「遅いなあ」


 今度は、独り言としてちゃんと出た。


 エルちゃんは玄関のたたきのぎりぎり手前まで来て、座り込んでいた。

 ドアの向こうを見ているようで、実際にはただ閉じた扉を眺めているだけだ。


「おまえもそう思うか」


 返事はない。


 ないけど、その無言が妙に不安を増やした。


 二時ちょうど。


 もう一回メッセージを送るか迷って、やめた。

 しつこいと思われるのも違う。

 でも、放っておくのも違う気がする。


 結局、通話ボタンを押した。


 呼び出し音。

 一回、二回、三回。


 そのあと、機械音声が流れる。


 おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため……


「……は?」


 俺はスマホの画面を見た。

 見たところで、表示が変わるわけじゃない。


 切れてる。


 充電切れか、圏外か。

 どっちにしても、今つながらないことだけは確かだった。


 さっきまで「遅いな」で済んでいたものが、そこで少しだけ違うものになる。


「いや、でも」


 声に出して整理する。


 充電が切れただけかもしれない。

 よくある、とまでは言わないけど、ゼロではない。

 帰りが遅くて、コンビニ寄って、ぼんやりして、そのまま気づかなかったとか。

 全然あり得る。


 あり得る、はずだ。


 でも、心臓はそういう論理にあまり従ってくれない。


 もう一度かける。

 同じ音声。


 スマホをテーブルに置いて、すぐまた持ち直す。

 意味のない動きだと思う。

 でも落ち着かなかった。


 エルちゃんが、小さく鳴いた。


「にゃ」


 見下ろすと、玄関の前から動いていない。

 その姿が、嫌なくらい目につく。


「おまえ、寝とけよ」

 と、言ってみる。

「どうせ帰ってきたら起きるんだから」


 でもエルちゃんは動かない。

 しっぽだけが一回、床を打つ。


 部屋の中の時間が、急に進まなくなる。


 二時九分。

 二時十四分。

 二時十九分。


 何かあったんだろうか、と考える。

 嫌な客。

 店のトラブル。

 終電後の酔っ払い。

 この前の、距離感がおかしい常連。


 考え始めると、ろくな可能性が出てこない。


 俺は頭を振った。


「よくないな」


 思考が勝手に悪い方へ行く。

 そういうときは、少し身体を動かした方がいい。


 俺はキッチンへ行って、湯を沸かした。

 インスタントのスープを作る。

 別に腹が減っているわけじゃない。

 でも何か温かいものを口に入れれば、少しは落ち着くかもしれないと思った。


 マグカップを持って戻ってきても、部屋の空気は何も変わっていなかった。


 玄関前に座る猫。

 静かなリビング。

 帰ってこない気配。


 スープをひと口飲んで、まずいなと思った。

 味じゃなくて、喉がうまく通らない感じがした。


 そこで、ふと気づく。


 俺、待ってるんだな、と思う。


 当たり前のことみたいだけど、少し違った。


 遅い帰宅を待つこと自体は、今までもあった。

 でもそれは、「そのうち帰ってくる」が前提だった。

 今はそこが少し揺らいでいて、その揺らぎが思ったより深いところに入ってきている。


 まるさんが帰ってくる。

 玄関が開く。

 ヒールを脱ぐ音がする。

 「ただいま」が聞こえる。

 エルちゃんが反応する。


 その流れが、もう生活の一部として決まりきっていたんだと、そのとき初めて分かった。


 なくなる想像を、ちゃんとしていなかった。


「……最悪だな」


 また、声に出る。


 何が最悪かと言えば、たぶん、自分の不安の中身だった。


 何か事故があったらどうしよう、とか。

 嫌なやつに絡まれてたらどうしよう、とか。

 そういう心配ももちろんある。


 でもそれと同じくらい、もっと手前のところで、

 このまま帰ってこなかったらどうしよう、という考えが、家の形ごと壊していく感じがしていた。


 エルちゃんが立ち上がった。


 来たか、と思って一瞬玄関を見たけど、物音はない。

 エルちゃんは俺のところまで来て、膝に前足をかけた。


「ん?」

「にゃ」


 それから、また玄関を見る。


 完全に催促だった。

 どうにかしろ、と言われている気がする。


「分かってるよ」


 何が分かってるのか、自分でも曖昧なまま答える。


 スマホを手に取る。

 今度はメッセージじゃなく、店に電話しようか迷う。

 でも時間が時間だ。

 営業は終わってるかもしれないし、出たとしても、うまく聞ける気がしない。


 それに、過剰反応かもしれない。

 まだ二時半前だ。

 遅いだけ。

 充電切れただけ。


 そう言い聞かせて、また止まる。


 止まっていること自体が、どんどん嫌になっていく。


 二時二十七分。


 立ち上がる。

 窓の外を見る。

 何もない。

 あたりまえだ。


 二時三十一分。


 もう一度、通話。

 同じ音声。


 そこで、少しだけ腹が立った。

 誰に対してか分からない腹立ちだった。


 充電が切れるなよ、とか。

 遅くなるならもう一言入れろよ、とか。

 でもそんなの、帰ってこない相手にぶつける感情じゃないことも分かる。


 たぶんこれは、ただ怖いだけだ。


 エルちゃんが、今度は俺より先に玄関の方へ行った。

 そしてその場に、ぺたりと伏せる。


「……おい」

 と、思わず言う。

「それはやめろ」


 やめろ、というのは、たぶん自分の気分の方に向けてだった。


 玄関前で待つ猫。

 帰ってこない同居人。

 静かすぎる部屋。


 その絵面が、妙に完成していて嫌だった。


 俺は上着を取った。


 ポケットに財布と鍵を入れる。

 スマホを持つ。

 玄関へ向かうと、エルちゃんがこっちを見上げた。


「ちょっと行ってくる」

「にゃ」

「すぐ戻る。おまえは留守番」


 いつもなら、コンビニに行く程度でここまでちゃんと声をかけたりしない。

 でも今日は、そのひと手間を飛ばしたくなかった。


 ドアノブに手をかける。


 たぶんまだ、大ごとじゃない。

 駅にいるかもしれない。

 コンビニに寄ってるだけかもしれない。

 ただ座り込んで、帰るタイミングをなくしてるだけかもしれない。


 そういう「だけ」が、今は一番ありそうだった。


 それでも、待っているだけではだめな気がした。


 玄関を開ける直前、エルちゃんがもう一度だけ鳴いた。


「にゃ」


「分かってる」

 と、俺は言う。

「見つけてくる」


 口にした瞬間、その言葉が思っていたよりずっと重く聞こえた。


 見つけてくる。


 ただ遅いだけかもしれない相手に対して、そんな言い方をするくらいには、もうこの夜は普通じゃなくなっていた。

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