第13話 たつ仕事炎上
仕事がやばくなる前には、たいてい前触れがある。
ログが少しおかしいとか。
通知が妙に静かだとか。
逆に、静かすぎるのが不自然だとか。
でも、その日のやつは、前触れもなく来た。
昼の一時三十七分。
昼飯にしようと思って、ノートPCの画面をいったん閉じかけたタイミングだった。
ぴろん。
チャットの通知が鳴る。
どうせ軽い確認だろうと思って開いた俺は、そのまま数秒止まった。
本番環境、接続エラー増えてます
監視アラート飛びました
至急確認お願いします
「……あー」
声に出た時点で、もうだいたい終わっていた。
昼飯は消えた。
平穏も消えた。
今日の午後、全部これだ。
俺はすぐにイヤホンをつけて、VPNを確認して、ログ画面を開き直す。
通知はその間にも増える。
別チーム、上長、運用担当。連鎖みたいに一気にくる。
「まじかよ」
画面の向こうでは、数字がきれいじゃなかった。
エラー率が跳ねてる。
接続先の負荷もおかしい。
しかも一箇所じゃなくて、複数が同時に崩れかけている。
最悪、とまではまだ言いたくない。
でも、かなり悪い。
俺は会議用のリンクを開いた。
「すみません、入ります」
『状況見えてますか?』
「見えてます。いま切り分け入ります」
『暫定でもいいので、十五分で一次見解ください』
「了解です」
了解、と言った時点で、もう昼飯は完全に消えた。
そのまま二十分。
三十分。
一時間。
水も飲まずに画面を追いかけて、ログを見て、設定を確認して、別チームと話して、またログを見る。
頭の中のリソースが、仕事以外の全部から引き剥がされていく感じがした。
途中で何度か、寝室の方から物音がした。
たぶんまるさんが起きたんだろう。
でも、今はそっちに意識を割けない。
ぴこん、ぴこん、と通知が鳴るたび、体のどこかが少しずつ固くなる。
午後三時を過ぎたころ、視界の端にマグカップが置かれた。
「……ん」
気づいて顔を上げると、まるさんが立っていた。
完全な寝起きではないけど、まだ家の顔だった。
髪はざっくりまとめただけ。大きめのTシャツのまま。けど、こっちの画面を見た瞬間に、状況は察したらしい。
「やばい?」
「そこそこ」
「そこそこって顔じゃない」
「だいぶ」
「だよね」
マグカップからはコーヒーの匂いがした。
しかもちゃんと、ブラックじゃない。俺がこういう時だけ少し砂糖を入れるのを、まるさんは知っている。
「ありがと」
「ん」
まるさんはそれ以上何も聞かなかった。
画面の中身も覗かない。
ただ、机の端にあった充電ケーブルを手元へ寄せて、スマホもついでに繋いでおいてくれる。
それだけで、少しだけ助かった。
「エルちゃんは?」
と、俺が聞くと、
「いま窓辺」
と、まるさんが言った。
「しばらくは大丈夫そう」
「ならいい」
「でも完全には信用してない」
「正しいな」
そこまで言ったところで、また通話の向こうから声が飛ぶ。
『田中さん、今の値どうですか』
「あ、すみません。いま見ます」
俺はまた画面に戻る。
まるさんはそのまま、静かにリビングを離れた。
派手に励ましたり、「大丈夫?」を連打したりしない。
でも必要なものだけ置いていく。
それがありがたかった。
午後四時。
五時。
六時。
状況は少しずつ見えてきた。
接続先の一部設定が、切り替えタイミングで妙な噛み方をしていたらしい。
原因が見えると、次は手順になる。
これを直して、これを確認して、ここに連絡して、戻りを待つ。
そのはずなのに、画面の数字がきれいに戻りきるまでは、気は抜けない。
俺は気づけば、ずっと同じ姿勢でキーボードに向かっていた。
肩が痛い。
目も乾く。
でも立つ理由がない。
そこで、視界の端にまた影が入った。
今度は小さかった。
ぬっと机の下から現れたのは、エルちゃんだった。
「……来たな」
俺が小声で言うと、エルちゃんは何のためらいもなく足元に座った。
それだけならいい。
それだけなら。
だが王様は、そのまま俺の膝に前足をかけ、机の上を見上げる。
「だめ」
「……にゃ」
「今日はほんとにだめ」
「にゃー」
抗議の声が、いつもより少し大きい。
まずい、と思った瞬間、寝室の方からまるさんの声が飛んだ。
「エルちゃーん、おやついる?」
「にゃ!」
即座だった。
こっちへの執着を一秒で捨てて、エルちゃんは振り向く。
そして俺の足から降りると、そのまま滑るみたいにキッチンの方へ消えた。
「助かった……」
ほんとに助かった。
数秒後、まるさんがまたリビングの入口に顔だけ出した。
「救出成功」
「ありがとう」
「おやつじゃなくて、ただのごはん前借りだけど」
「それでも神」
「珍しく素直だね」
「今はなんでも拝む」
まるさんはちょっと笑った。
それから、部屋の中を見回す。
「たつくん」
「ん?」
「昼食べた?」
「……」
「食べてないね」
「時間が」
「言い訳」
「いや実際」
「五分で食べられるやつにするから」
俺が止める前に、まるさんはもうキッチンへ行っていた。
数分後、戻ってきたのは、小さいおにぎり二個だった。
ラップに包まれていて、片手で食べられるサイズ。
「はい」
「え」
「噛むだけ」
「雑な説明だな」
「いま必要なの、情報じゃなくて炭水化物でしょ」
「……そうだけど」
そうだけど、たぶんその通りすぎて反論できない。
俺は通話の合間を見て、一個だけ口に入れた。
塩が効いていて、異様にうまかった。
「うま」
「でしょ」
「なんで分かった」
「顔色」
「雑な診断だな」
「当たってるからいいの」
また通知が鳴る。
俺はおにぎりを机の端に置いて、画面に戻る。
その後も、まるさんは必要以上に話しかけなかった。
水がなくなれば替える。
コードが引っかかりそうならどける。
エルちゃんが近づけば、別の方へ注意を逸らす。
自分の出勤準備もしながら、でも部屋の空気が仕事の邪魔をしないように整えていく。
それが、妙に自然だった。
七時すぎ。
ようやく数字が落ち着き始める。
通話の向こうでも、声のトーンが少し変わった。
『ひとまず暫定復旧で見てよさそうですね』
「はい。監視だけ継続します」
『じゃあ田中さん、一次報告だけまとめて共有お願いします』
「了解です」
その「了解」は、昼に言ったのとは少し違った。
まだ終わってはいないけど、出口が見えた声だった。
通話が一段落して、俺はようやく椅子の背にもたれた。
肩が、ばきっと鳴りそうだった。
「……終わった?」
と、まるさんが言う。
いつの間にか、出勤前の格好に変わっていた。
でも今日は、いつもの営業スマイルを作る前の、家の顔のままだった。
「まだ報告書ある」
「仕事人だねえ」
「でも山は越えた」
「そっか」
まるさんはそれだけ言って、少しだけ安心した顔をした。
俺は机の上の空になったマグと、なくなったおにぎりのラップを見る。
自分で用意した覚えのないものが、ちゃんと消費されて並んでいる。
「……ありがと」
と、俺は言った。
まるさんが目を瞬く。
「ん?」
「いろいろ」
「いろいろって」
「コーヒーとか。おにぎりとか。猫回収とか」
「細かいな」
「細かいのが助かった」
「ふうん」
まるさんは、少しだけ口元をゆるめた。
「たつくんってさ」
「なに」
「こういう時、自分で全部やろうとするよね」
「仕事だから」
「仕事でも」
「……」
言い返しかけて、やめた。
たしかにそうかもしれない。
自分で何とかした方が早い、とか。
説明する方が手間だ、とか。
そういう理屈で、いつも抱え込む癖があるのは、自分でも知っている。
「でも今日は、ちょっとだけ役に立った?」
と、まるさんが言う。
「……かなり」
「おお」
「だいぶ」
「それはよかった」
そこでようやく、まるさんはちゃんと笑った。
仕事の顔じゃない、家の中の笑い方で。
そのとき、キッチンの方から、短く鳴き声がした。
「にゃー」
「王様が不満です」
「なんで」
「さっきの前借りが正式な晩ごはんだと思ってない」
「図々しいなあ」
まるさんは肩をすくめて、フードの袋を持ち上げた。
その動きで、もう外へ行く人の輪郭に少しずつ戻っていく。
「じゃあ私、準備する」
「おう」
「報告書、寝落ちしない程度にね」
「しない」
「ほんと?」
「たぶん」
「信用度が低いな」
笑いながら、まるさんはキッチンへ向かった。
エルちゃんの鳴き声がまた聞こえる。
さっきまで世界が崩れるみたいな顔をしていた画面の数字も、いまはだいぶ静かだ。
俺はもう一度、椅子に座り直す。
報告書はまだある。
監視も続く。
仕事は終わっていない。
でも、昼のあの張りつめ方とはもう違っていた。
ひとりで何とかしたわけじゃない、という事実が、意外なくらい体を軽くしていた。
支える側でいる方が楽だと思っていたけど、支えられても案外、壊れはしないらしい。
画面の端で、エラー率が安定しているのを確認する。
リビングの向こうでは、まるさんが猫に文句を言いながらフードを出していて、エルちゃんは当然みたいな顔でそれを待っている。
世界はあんまり大丈夫じゃない日もある。
でも、この部屋の中は、たぶん思っていたよりちゃんと持ちこたえる。
俺は報告書の一行目を打ちながら、少しだけ息を吐いた。




