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第12話 エルちゃん病院

 異変というのは、だいたい静かな方が怖い。


 朝、目が覚めたとき、最初におかしいと思ったのは音だった。


 いつもなら、エルちゃんは俺が起きるより少し早く動き出す。

 ベッドの上で伸びをしたり、胸の上に乗ってきたり、先にキッチンへ行って無言の圧をかけてきたり。とにかく「朝です」「飯です」という主張がある。


 でもその日は、なかった。


「……エル?」


 薄い布団の中で体を起こす。

 ベッドのど真ん中には、たしかにいた。

 いたけど、丸くなったまま、こっちを見ただけだった。


 それだけで、少し嫌な感じがした。


「どうした」


 声をかけても、鳴かない。


 俺はベッドを降りて、まず床を見た。

 そこでさらに、嫌なものを見つける。


「うわ」


 ベッドの脇のラグに、小さく吐いた跡があった。


 量は多くない。

 色もそこまで変じゃない。

 でも、そんな冷静な確認をする前に、頭の中が一瞬だけ真っ白になった。


「まるさん」

 と、俺は寝室の反対側を振り向いた。

「まるさん、起きて」


 いつもの朝なら、この時間に起こしたらまず文句を言われる。

 でも、声の調子がたぶん普段と違ったんだろう。


「……なに」

「エルが吐いた」

「え」


 まるさんは一発で起きた。


 それだけで、ちょっとすごいと思う。

 あの人が朝に一発で起きるの、かなりの緊急事態だけだ。


「どこ」

「ここ」

「うわ、ほんとだ」


 毛布を跳ねのけて起き上がり、まるさんはベッドの上のエルちゃんを見る。

 エルちゃんはまだ丸くなったままで、でも意識はあるし、呼吸も普通に見える。見えるけど、元気がない。


「エルちゃん」

「……」


 まるさんがそっと額に触れる。

 俺はその間にラグの汚れをティッシュで押さえつつ、頭の中で情報を並べていく。


 吐いた。

 元気がない。

 朝の飯コールがない。


 いや、だいぶ嫌だな。


「ごはん」

 と、まるさんが言った。

「出してみる」

「うん」


 俺はキッチンへ行って、いつものフードを皿に入れる。

 袋の音だけで飛んでくるのが通常の王様なのに、その日はベッドの上から視線を向けるだけだった。


 そこでもう、だいぶだめだった。


「来ない」

「うん」

「来ないな」

「来ないね」


 同じことを二回言ってしまうくらいには、二人とも落ち着いていなかった。


 まるさんはベッドの端に座って、エルちゃんの背中を撫でている。

 俺はフードの皿を持ったまま、寝室の入口で立ち尽くしていた。


「病院」

「うん」

「行くか」

「行こう」


 判断は早かった。


 というか、迷ってる余裕がなかった。


 俺がスマホでかかりつけの動物病院の時間を確認している間に、まるさんはキャリーケースを出してきた。

 普段なら、あれを見た瞬間にエルちゃんは全力で逃げる。

 でも今日は、逃げる元気もあまりないみたいだった。


「それもやだな」

「うん」

「普通に入れられるの、やだ」

「分かる」


 まるさんが小さく言う。


 キャリーの扉を開ける。

 俺がエルちゃんを抱える。

 軽い。

 いや、いつも軽いんだけど、今日の軽さはなんか違って感じた。


「ごめんな」

 と、思わず言う。

「すぐ終わるから」


 エルちゃんは抵抗しなかった。

 ただ、キャリーの中で少しだけ丸くなる。


 それが、いつもよりよっぽど怖かった。


 病院までの道は、妙に短かった。


 俺が運転して、まるさんが助手席でキャリーを抱えている。

 信号待ちのたびに中を覗き込んで、呼吸してるよね、とか、目はちゃんと開いてる、とか、分かりきった確認を何回もした。


「たつくん」

「ん?」

「大丈夫かな」

「……大丈夫だろ」


 言いながら、自分でもあんまり信用していなかった。


「吐いたの、初めてじゃないよね」

「初めてじゃない」

「食欲ないのも、たまにはある」

「……うん」


 そうやって情報を並べるのは、たぶん自分たちを落ち着かせるためだ。

 でも、今日は二人とも、並べた情報の隙間にある不安の方を見ていた。


 病院の待合室は、思ったより空いていた。

 犬が一匹と、ハードキャリーに入った猫が一匹。消毒液の匂いと、低い話し声。


 受付を済ませて座る。

 キャリーの中のエルちゃんは静かだった。


「静かだね」

「今日はそれがやなんだよ」

「うん」


 まるさんは膝の上のキャリーに手を置いたまま、じっと中を見ている。

 俺も隣から覗き込む。


 呼吸は普通。

 目もちゃんと開いてる。

 でも、いつもなら知らない場所に来た時点で、もっと不満そうな顔をするのに、今日はその元気もない。


「これ」

 と、まるさんが小さく言った。

「私たち、ほぼ親じゃない?」

「いきなりどうした」

「顔」

「顔?」

「たつくん、今すごい保護者の顔してる」

「おまえもな」


 まるさんは一瞬だけこっちを見て、ほんの少しだけ笑った。

 でも、その笑い方もすぐ消える。


「エルちゃんのことになると、だめだね」

「なにが」

「だいぶ、無理」

「分かる」


 それは即答だった。


 猫のために同居してる、というのは、もともと半分ほんとで半分建前みたいなものだった。

 でも今は、たぶんもう、その比率が変わってる。


 この家にエルちゃんがいるから一緒にいる、じゃなくて、エルちゃんがいるこの生活ごと、自分たちの真ん中にある。


 診察室に呼ばれたのは、その少しあとだった。


 診察台の上で、エルちゃんは案外ちゃんとしていた。

 先生に触られても暴れないし、口の中やお腹を見られても、嫌そうな顔はするけど大騒ぎはしない。


「軽い胃腸の乱れですね」

 と、先生は言った。

「お腹の張りもそこまで強くないですし、熱もないです。吐いたのが一回で、このあと水が飲めて、食欲が少し戻るなら、まず大きく心配する感じではないですよ」


 そこでようやく、俺はちゃんと息を吐いた気がした。


「よかった……」

 と、まるさんが言う。

 たぶん、同じくらい息を止めていたんだろう。


「何か変わったもの食べましたか?」

「いや、たぶん……」

「コードとか袋とか噛んではいました」

 と、俺が言うと、

「ああ、そのあたりでも軽く荒れることはありますね」

と先生が苦笑した。


 心当たりがありすぎた。


「今日は消化にやさしいものを少しだけ。元気が戻らないとか、何度も吐くとか、水も取れないようならまたすぐ連れてきてください」

「はい」

「ありがとうございます」


 二人そろって返事したのが、ちょっと面白かった。


 病院を出るころには、外の空気が少しぬるくなっていた。

 さっきまであんなに怖かった道が、今はただの帰り道に戻っている。


「よかった」

 と、俺が言う。

「よかったね」

 と、まるさんも言う。


 それしか出てこない。


 車に乗って、家に戻る。


 玄関を開けてキャリーを下ろし、扉を開けた瞬間だった。


 エルちゃんは、するりと出てきて、まっすぐキッチンへ向かった。


「……え」

「うそ」


 俺たちは顔を見合わせる。


 エルちゃんはキッチンの前で振り返り、さっきまで病院でしおらしくしていた猫とは思えない声量で鳴いた。


「にゃー!」


「飯だ」

「飯だね」

「おまえ、急だな」


 ついさっきまで、朝のフードにも反応しなかったくせに。

 病院でいったん安心したせいか、急にいつもの王様が戻ってきたらしい。


「先生、食欲戻ったら大丈夫って言ってたよね」

「言ってた」

「戻りすぎじゃない?」

「それはそれで、ありがたいけど」


 まるさんが笑いながら、病院でもらった指示を確認する。

 少量ずつ、消化にやさしいものから。

 俺は言われた通りの量を皿に出した。


 エルちゃんは、いつもより少し慎重だったけど、ちゃんと食べた。


 その様子を、俺たちは二人そろってキッチンの前にしゃがんで見ていた。

 だいぶ邪魔な保護者である。


「食べてる」

「食べてるな」

「えらい」

「食うだけで褒められるの、今日だけだからな」

「にゃ」


 食べ終わったエルちゃんは、満足したように一度だけ喉を鳴らした。

 それから当然のように、俺たちの間を抜けて、リビングの真ん中へ向かう。


 すっかりいつもの歩き方だった。


「なんか」

 と、まるさんが言う。

「さっきまで寿命縮んだのに」

「分かる」

「本人だけ通常営業に戻るの早すぎ」

「王様だからな」


 まるさんはそこで、ふっと力が抜けたように床へ座り込んだ。

 壁にもたれて、息を吐く。


「つかれた……」

「それはそう」

「たつくん」

「ん?」

「今日、いてよかった」

「おまえもな」

「うん」


 その返事が、妙に素直だった。


 もし俺一人だったら、きっと必要以上に焦っていた。

 もしまるさん一人だったら、たぶんもっと感情で動いていた。


 二人いたから、病院にすぐ行けた。

 不安な間の確認も、待合室の沈黙も、少しだけ分けられた。


 エルちゃんはソファに飛び乗って、そのままいつものように真ん中あたりで丸くなった。

 さっきまで病院でしおらしかったのが嘘みたいだ。


「朝ごはん食べなかったの、許さないからね」

 と、まるさんが言う。

「こっちは本気で心配したんだから」

「にゃ」

「伝わってないな」

「全然な」


 でも、伝わってなくていい気もした。


 病院帰りの猫が、妙に元気にフードをねだって、家の真ん中でふんぞり返ってる。

 そのくらいの理不尽さの方が、たぶん今はありがたい。


 俺は立ち上がって、さっき開けっぱなしだったキャリーを片づける。

 もう今日は使わなくていい。それだけで、ちょっと嬉しかった。


「今夜、ベッドどうする?」

 と、まるさんが言う。

「様子見る?」

「見るか」

「でもたぶん、ど真ん中取るよね」

「取るだろうな」


 視線の先で、エルちゃんはすでにそのつもりの顔をしていた。


 この家の真ん中にいるのは、やっぱりこいつだ。


 そしてたぶん、猫のために一緒にいる、っていう言い方は、もう少しだけ古い。


 今はもう、この猫がいる生活ごと、二人で守ってるんだと思う。

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