第11話 まる仕事トラブル
帰ってきた瞬間に分かることがある。
今日は疲れてるな、とか。
機嫌は悪くないけど空っぽだな、とか。
逆に、やけにテンションが高い日はたぶん外で何かうまくやってきたんだろうな、とか。
まるさんは、玄関を開けた一秒でだいたいそのへんが分かる。
その日の「ただいま」は、きれいすぎた。
「ただいまー」
声の高さも、語尾の抜け方も、笑い方も、全部ちょうどいい。
ちょうどよくて、だから逆に家の声じゃなかった。
俺はソファの上でノートPCを閉じかけたまま、そっちを見る。
「おかえり」
「起きてたんだ」
「まだ一時前だぞ」
「えらい」
「基準どうなってんだよ」
玄関から入ってきたまるさんは、いつも通り仕事帰りの格好だった。
髪も服もきれいに整ってるし、ヒールの音もそんなに乱れてない。
見た目だけなら、普段と何も変わらない。
ただ、笑い方だけが少しだけ違った。
外で使うやつだ、と思う。
前に洗面所で見た、あの営業スマイルの延長線上にある顔。
家に帰ってきたのに、まだしまえてない。
「なんか飲む?」
と、俺は言った。
「え、やさし」
「ただの確認だよ」
「やさし」
まるさんはそう言いながら、靴を脱いだ。
でも、そこで少し手が止まる。
ヒールを脱いで、バッグを肩から外して、玄関に一歩入る。
それだけの動作が、いつもより一拍ずつ遅い。
「今日、遅かったな」
「うん、ちょっと」
「団体?」
「団体もあった」
「“も”」
「……まあ、いろいろ」
そう言って笑う。
やっぱり、きれいすぎる。
俺はそれ以上その場では聞かなかった。
聞いたところで、玄関で立ったまま話すことじゃないし、たぶん今のまるさんは、話すとしてもまだ外向けの言葉しか出してこない。
まるさんはそのままリビングまで来て、ソファの横にバッグを置いた。
正確には、置こうとした。
でも置けなかった。
どこから現れたのか、エルちゃんがすでにそこにいたからだ。
「うわ」
「早いな」
「いたの?」
「さっきまでソファの裏にいた」
エルちゃんは、床に下ろしかけたバッグの上に、当然のように前足をかけていた。
興味があるのか、気に入らないのか、ただ高い位置を取りたいだけなのか、そのへんは分からない。
でも、まるさんがそのまま何気なく動くのは止められた。
「ちょっと、どいて」
「……」
「重いんだけど」
「にゃ」
言うだけ言って、エルちゃんはどかない。
そのままバッグの端をくんくん嗅いで、それから堂々と上に座り込んだ。
「なんで」
「検品」
「厳しいなあ」
そこで、まるさんがようやく少しだけ笑った。
さっきまでの、つくったみたいにきれいな笑い方じゃない。
家の中の、気の抜けたやつだった。
「お、戻った」
「なにが」
「顔」
「失礼だな」
「いや、さっきまで店だったぞ」
「……うそ」
まるさんは一瞬だけ止まった。
それから、少しだけ視線を落とす。
「そんな分かる?」
「分かる」
「やだなあ」
「なんかあった?」
「……ちょっと、めんどい客」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
大きい事件じゃなくても、嫌な感じの客に当たった日は、家までうっすら空気を引きずることがある。たぶん、今夜はその日だ。
「距離近いやつ?」
「うん」
「最悪」
「でもまあ、いつもの範囲」
「その“いつも”が嫌だな」
俺がそう言うと、まるさんはまた少しだけ笑った。
でも今度の笑い方は、さっきより疲れていた。
エルちゃんは依然としてバッグの上から動かない。
完全に検閲担当の顔をしている。
「おまえ、今日やたら仕事熱心だな」
「にゃ」
「中に変なもん入ってないか見てるんじゃない?」
「そんな税関みたいな猫いるかよ」
「いるよ。うちに」
まるさんは立ったまま、バッグを取るのを諦めたらしかった。
そのままソファの背に少し体重を預ける。
俺はキッチンへ立って、冷蔵庫から麦茶を出した。
氷は入れない。そのへんの好みは、だいたい分かっている。
「はい」
「ありがと」
グラスを受け取る手つきは普通だったけど、飲み終わるまでが少し長い。
喉が渇いてたというより、そこでやっと一息ついた感じだった。
「今日はさ」
と、まるさんが言う。
「なんか、ずっと笑ってた気がする」
「仕事だからな」
「うん。でも、家帰ってからも抜けてないの、やだ」
グラスの縁を見ながら言う。
「別に、笑うのが嫌っていうより」
「うん」
「まだ仕事してる感じがする」
その言い方は、分かる気がした。
俺だって、会議が変に長引いた日なんか、通話が終わっても頭の中だけしばらく仕事用のままだ。返事が妙に硬かったり、無駄に箇条書きで考えたりする。
たぶん、まるさんにとってのそれが、笑顔なんだろう。
「じゃあ、エルの検品はちょうどいいな」
「なにが」
「強制ログアウト」
「雑すぎる」
「でも、座れないだろ」
「座れないねえ」
まるさんはそう言って、エルちゃんを見下ろした。
エルちゃんはまったく悪びれず、バッグの上で前足をそろえている。
「どいてくれない?」
「……」
「お願い」
「にゃ」
「だめかあ」
しょうがないので、俺はエルちゃんごとバッグを少し引き寄せた。
すると王様は不満そうに一度だけこっちを見たけど、結局どかないままだった。
「譲歩はした」
「してないに等しいだろ」
「猫基準ではしてる」
まるさんが吹き出す。
今度はちゃんと、家の笑い方だった。
「今日さ」
「ん?」
「なんか、肩とか腕とか、近い人で」
「……」
「別に触られたとかじゃないんだけど、ずっと距離感おかしくて」
「うん」
「そういうのって、こっちが笑ってると、向こうはもっと来るじゃん」
そこまで言って、まるさんは麦茶をもう一口飲んだ。
「面倒だな」
「面倒」
「店の人は?」
「見てはいたけど、まあ、今すぐどうこうってほどでもなくて」
「一番対処しづらいやつだな」
「そうなの」
そこで俺は、言いたいことをいくつか飲み込んだ。
やめろとか、気をつけろとか、そういう正しすぎることはたぶんもう散々浴びてる。
今必要なのは、それじゃない気がした。
「風呂入る?」
「うーん、ちょっとしてから」
「メイクしんどいなら、先に落とせば」
「それはそうなんだけど」
まるさんは曖昧に笑って、空いた手で自分の頬を軽く触った。
「なんか、今落とすと、ほんとに今日終わった感じがして」
「いいことじゃないのか」
「そのはずなんだけどねえ」
分かるような、分からないような。
でも、たぶんそれも、仕事の顔から降りるための段差みたいなものなんだろう。
そのとき、エルちゃんが急に身を起こした。
「お」
「なに」
王様はバッグの上でくるりと方向を変えると、そのまま前足でストラップを押さえた。
さらに、まるさんの方を見て、短く鳴く。
「にゃ」
「なにそれ」
「開けろって言ってる?」
「税関が厳しいなあ」
まるさんがしゃがみ込んでバッグの留め具を外す。
するとエルちゃんは待ってましたとばかりに顔を突っ込んだ。
「こら」
「チェック入った」
「やめて、リップとか出る」
でもエルちゃんの狙いは化粧品じゃなかったらしい。
バッグの中をひとしきり嗅いだあと、すぐに顔を引っ込めて、今度はそのまままるさんの手首に額を押しつけた。
ぐい、と。
「……あ」
「それは珍しいな」
エルちゃんは普段、甘えるときは甘えるけど、何も言わずにこうやって押しつけてくるのは、どちらかといえば相手の様子を見ているときだ。
まるさんは手を止めたまま、少しだけ目を細めた。
「今日、噛まないんだ」
「ほんとだな」
「珍しい」
「本気で検品してるのかもな」
「王様えらい」
「役職が多いんだよ」
まるさんはそのまま、エルちゃんの頭をゆっくり撫でた。
さっきまで残っていた、きれいすぎる笑い方はもう消えていた。
目元の力も、肩の上がり方も、ちゃんと家に戻ってきている。
「たつくん」
「ん?」
「麦茶ありがと」
「ただ注いだだけだろ」
「それでも」
「どういたしまして」
まるさんはバッグの中からポーチを出して、それをテーブルの上に置いた。
ようやく荷物を下ろした人の動きだった。
「ちょっと風呂行ってくる」
「おう」
「その間、王様見張っといて」
「おまえのバッグを?」
「荒らすから」
「もう半分荒らしてるだろ」
立ち上がるとき、まるさんはエルちゃんの頭をもう一回撫でた。
エルちゃんは気分よさそうに喉を鳴らす。
そのまま洗面所の方へ消える背中は、もう店の人じゃなかった。
家の中のまるさんだった。
俺はソファに座り直して、バッグの上に乗ったままのエルちゃんを見る。
「今日、おまえちょっと仕事したな」
「……にゃ」
「偶然でも、まあ、したことにしとく」
エルちゃんは知らん顔で前足をなめ始めた。
たぶん本人的には、ただ気になる匂いの袋を検査しただけなんだろう。
でも結果として、あのバッグはまるさんをその場に留めた。
靴を脱いで、そのまま何事もなかったみたいに部屋に溶け込むことを、少しだけ止めた。
そのおかげで、外の顔が残ってることにも気づけた。
こういうのを、たぶんこの家では、エルちゃんが勝手にやる。
洗面所の方から水の音がした。
やっと今日が終わり始めたんだなと思う。
エルちゃんはまたバッグの上で丸くなる。
部屋の真ん中に、いつものぬくい気配が戻ってくる。
仕事の空気は少しだけ入ってきた。
でも、全部は持ち込ませない。
この家はたぶん、そういう役目も少しだけ持っている。




