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第10話 プリン事件

 冷蔵庫の前で揉めるとき、人間はだいたい小さくなる。


 物理的に、という意味だ。


 深夜の一時前。

 夕飯の片づけも終わって、エルちゃんも一通り騒いで、ようやく「今日はもう終わりでいいだろ」という空気になった頃だった。


 俺はなんとなく甘いものが食べたくなって、キッチンへ向かった。

 仕事が長引いた日とか、何もしてなくても妙に疲れた日とか、そういう夜に限って冷たい甘いものがほしくなる。


 冷蔵庫を開ける。


 上段。

 作り置きの容器。

 豆腐。

 卵。

 ペットボトルのお茶。

 その奥に、ひとつだけ。


 プリンがあった。


「勝ち」


 思わず小さくつぶやいた。


 しかも、よくある安いやつじゃない。

 コンビニでたまに売ってる、ちょっとだけ高いやつだ。サイズは普通なのに、妙に「ごほうびです」みたいな顔をしている類いのプリン。


 スプーンを出すか、と思って手を伸ばした、その瞬間だった。


「それ、私の」


 背後から声がして、俺はそのまま止まった。


 振り返ると、まるさんがキッチンの入口に立っていた。

 風呂上がりらしく、髪はまだ少し湿っている。部屋着のまま、眠そうな顔で、でも視線だけはしっかりプリンに向いていた。


「は?」

「それ、私の」

「いや、俺のだろ」

「なんで」

「なんでって、冷蔵庫にあったから」

「意味わかんない」

「そっちもだろ」


 まるさんはそのままこっちへ歩いてきて、冷蔵庫の中を覗き込んだ。

 たしかにプリンはひとつしか見えない。


「うん。やっぱり私のだ」

「どこで確信した」

「顔」

「プリンの?」

「そう」

「会話として最悪だな」


 俺は冷蔵庫の扉を押さえたまま、プリンとまるさんを交互に見た。


「いや、これ今日、俺が買ったやつだし」

「え」

「帰りにコンビニ寄った」

「うそ。私も買った」

「じゃあなんで一個しかないんだよ」

「知らないよ」


 そこから数秒、変な沈黙が落ちた。


 冷蔵庫の灯りだけがやけに明るい。


「……おまえ、もう一個食った?」

「食べてない」

「ほんとに?」

「ほんとに。そっちは?」

「食ってない」

「じゃあなんで一個しかないの」

「だから知らんって」


 まるさんは冷蔵庫の段を少ししゃがんで覗き込んだ。

 俺もそのまま中を見下ろす。


 ひとつしかない。

 どう見てもひとつしかない。


「エルちゃん?」

「食うわけないだろ」

「でも、こないだ袋噛んでたじゃん」

「プリンの蓋を開ける技術はまだ持ってない」


 言いながらも、俺は一応周囲を見回した。

 シンクの上に食べた痕跡もないし、ゴミ箱にもそれらしい容器は見えていない。


「たつくん」

「ん?」

「ほんとに買った?」

「なんで疑う」

「いやだって、私も買ったし」

「俺もだよ」

「レシートある?」

「今この場で法廷始めるの?」


 まるさんは真顔だった。

 本気で争うほどのものじゃないのに、こういうときだけ妙に本気になるのがよくない。


「だいたい、なんで今日プリン買うんだよ」

「そっちこそ」

「俺は……まあ、なんとなく」

「雑」

「おまえは」

「なんとなく」

「同レベルじゃん」


 言い返しながらも、俺は少しだけ考える。


 今日、帰りに寄ったコンビニで、レジ横の棚にこのプリンがあった。

 そのとき、ふっと思い出したのは、昨日の夜、まるさんが妙にだるそうにしていた顔だった。仕事のことを深く話したわけじゃない。でも、少し疲れてるのは見て分かった。


 だから、ついでに買った。

 ついで、ということにして。


 別に大したことじゃない。

 アイスを一個足すのと同じくらいの軽さで。

 そのくらいのつもりだった。


「……いや、なんとなくじゃないな」

 と、俺は言ってしまった。


「ん?」

「昨日ちょっと、しんどそうだったから」

「誰が」

「おまえが」


 まるさんが、ぱちっと瞬いた。


 言ってから、ちょっと失敗したなと思う。

 こういうのは、説明しない方が軽く済む。


「だから、まあ、ついでに」

「……」

「なんだよ」

「いや」


 まるさんは一度視線を逸らして、それから小さく口を尖らせた。


「私も、そう」

「は?」

「今日、会議のあと、たつくん機嫌悪かったから」

「機嫌悪くはない」

「悪かったよ」

「そう見えただけだろ」

「そう見えるくらいには悪かった」


 その言い方で、反論が止まる。


「だから、まあ」

 と、まるさんは続けた。

「帰りに見つけて、一個だけ買った」

「……」

「ついでに」

「雑に後づけするなよ」

「そっちもやったじゃん」


 また変な沈黙が落ちた。


 冷蔵庫の前で、二人してしゃがみかけの姿勢のまま止まっている。

 すごく間抜けだと思う。

 でも、その間抜けさの中に、なんかもう少し気まずいものが混ざっていた。


「じゃあ何?」

 と、まるさんが言う。

「これ、どっちの?」

「知らん」

「困る」

「こっちが言いたい」


 そこで、足元に気配がした。


 見れば、エルちゃんが来ていた。


 いつの間にかキッチンまで歩いてきて、俺たちの足の間にするりと入り込んでいる。冷蔵庫が開きっぱなしだから、気になったんだろう。


「おまえじゃない」

「にゃ」

「今、裁判中だから」

「議長かな」

「最悪だな、その議会」


 エルちゃんは何も気にせず、冷蔵庫の一番下の段を覗き込んだ。

 そしてそのまま、前足でペットボトルを軽く押す。


 ごと。


 奥に置いてあったお茶のボトルが少しずれて、その後ろから、もうひとつ、同じプリンが顔を出した。


「……あ」

「……あるじゃん」


 二人の声が、きれいに重なった。


 あった。

 普通に、あった。


 ペットボトルの陰に半分隠れていただけで、同じプリンがもう一個、ちゃんといた。


「え」

「え?」

「じゃあ」

「二個あったってこと?」

「最初から?」

「最初からだろうな……」


 しばらくその事実を飲み込めないまま、俺たちは冷蔵庫を見つめた。


 エルちゃんだけが誇らしげだった。

 たぶん偶然だけど。


「おまえ、発見者か」

「王様えらい」

「いや、でも偶然だろ」

「結果がすべてです」

「便利な言葉覚えたな」


 まるさんがふっと笑う。

 つられて、俺も笑ってしまった。


 なんだそれ。


 疲れて甘いものがほしくなって、冷蔵庫を開けて、一個しかないと思って、小競り合いして、互いに買った理由まで白状して、結局ただ奥にもう一個あっただけ。


 しょうもない。

 しょうもないのに、変に心臓に悪い。


「じゃあ、これは私の?」

「いや、待て」

「なに」

「どっちがどっちのだ」

「……分からない」

「だよな」


 同じ商品、同じサイズ、同じ店のシールまでついている。

 見分けなんかつくわけがない。


「ややこしすぎるだろ」

「お互い同じの選ぶのもどうなの」

「そっちが先に真似したんだろ」

「逆」

「証拠は」

「ない」


 まるさんはそう言って、冷蔵庫から二つとも取り出した。

 ひんやりしたカップを両手に持って、少しだけ困った顔をする。


「どうする?」

「どうするって」

「これ、ほんとはたつくん用に買ったやつだし」

「こっちだって、おまえ用だよ」

「じゃあ交換する?」

「どっちも同じだろ」

「雰囲気の問題」

「それは分かるけど」


 俺は一個受け取った。

 冷たい。


 ほんの少し前まで、これ一個のために揉めてたのかと思うと、ちょっと笑えてくる。


「じゃあ」

 と、まるさんが言う。

「これは、たつくんが私に買ったやつ」

「どっちか分からんだろ」

「いいの」

「雑だな」

「雰囲気担当なんで」


 前に聞いたようなことを言いながら、まるさんは満足そうにうなずいた。

 その顔が妙に素直で、俺はそれ以上言えなくなる。


「じゃあ、そっちは」

「私がたつくんに買ったやつ」

「だから分からんって」

「気持ちの話」


 ずるい言い方だなと思う。


 でも、そう言われると、こっちも受け取るしかない。


 俺たちはプリンを持ったまま、ソファへ戻った。

 エルちゃんも当然ついてくる。

 というか、真ん中を取る気満々の歩き方だった。


 ソファに座る。

 左右に俺たち。

 真ん中にエルちゃん。

 そして手元に、それぞれひとつずつのプリン。


「なんか、平和に着地したね」

 と、まるさんが言う。

「発端はかなりくだらなかったけど」

「毎回そうだろ」

「たしかに」


 ふたを開ける。

 甘い匂いが少しだけ広がる。


 ひと口すくって食べると、ちゃんとおいしかった。

 少しだけ高いやつは、ちゃんと少しだけおいしい。


「うま」

「でしょ」

「おまえが作ったみたいに言うな」

「選んだのは私だから」

「俺も選んだんだけどな」

「じゃあ二人ともえらい」

「そこは王様じゃないのか」

「王様は発見担当」


 その発見担当は、俺たちのプリンを交互に見上げている。

 当然もらえると思っている顔だ。


「だめ」

「にゃ」

「その顔してもだめ」

「猫用おやつならあとであげる」

「にゃー」


 不満そうに鳴いてから、エルちゃんは諦めたように真ん中で丸くなった。

 ほんとに、こいつはいつも真ん中だ。


 まるさんがプリンをひと口食べて、少し笑う。


「たつくん」

「ん?」

「ありがと」

「……どういたしまして」

「会議、そんなに大変だった?」

「そこまででもない」

「でも買ってくれたじゃん」

「おまえもしんどそうだったし」

「うん」


 それだけ言って、まるさんはまたプリンをすくった。


 俺もそれ以上は言わない。


 こういうのをいちいち言葉にすると、たぶん変に重くなる。

 でも、言わなかったからって無かったことにはならない。


 冷蔵庫にプリンを一個ずつ入れる程度には、互いの顔色を見ている。

 しかも、わざわざ自分用じゃなく相手用を選んでおいて、あとから冷蔵庫の前で言い合うくらいには、面倒くさい。


「私たち、ちょっと変だね」

 と、まるさんが言った。


「なにが」

「プリン一個でここまで揉めるの」

「そこかよ」

「そこも」

「“も”ってなんだよ」

「別に」


 また、それで終わる。


 エルちゃんの喉が小さく鳴る。

 部屋はあたたかくて、夜は静かで、ソファは少し狭い。


 この二人はたぶん、付き合ってはいない。

 でも、付き合ってないからって何もないわけでもない。


 そういう中途半端で、でも妙に完成している感じが、この家にはいつもある。


 プリンを食べ終わる頃には、さっきの小競り合いもすっかりどうでもよくなっていた。


 ただ、冷蔵庫の前で互いの理由を白状した数分だけは、たぶん少しだけ、今日の中で特別だった。

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