第1話 ベッドの王様
うちのベッドは、だいたい毎晩、王に占領されている。
シングルでもセミダブルでもなく、ちゃんと二人で寝ることを想定して買ったサイズのはずなのに、なぜか使える面積は毎回ひどく狭い。理由は単純だ。ど真ん中に、エルちゃんがいるからである。
「……おい、そこ、おまえの領土広すぎないか」
文句を言っても、エルちゃんは薄く目を開けるだけだった。
ぬくい。やたらぬくい。
あの小さい体のどこにそんな熱量があるのか知らないけど、ベッドの中央で悠々と伸びているスフィンクス猫は、毛がないぶん体温の主張だけは強い。しかも今日は、前足まで投げ出して、完全に「ここからここまで俺のもの」と言わんばかりの寝相だった。
俺は壁際に寄れるだけ寄っている。
それでもエルちゃんの腹のあたりがじわじわ脇に当たってくる。
「絶対わざとやってるだろ……」
返事の代わりに、しっぽの先が一回だけ揺れた。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
がちゃ、と控えめな音のあと、ドアが開く。続いてヒールを脱ぐ気配。時計を見ると、午前一時を少し回っていた。
「ただいまー……」
間延びした声が廊下の向こうから聞こえる。
俺はベッドに転がったまま、少しだけ声を張った。
「おかえり。遅かったな」
「団体。あと、なんか妙に喋る人いた」
「最悪の二連コンボじゃん」
洗面所の明かりがつく。
しばらくして、水の音。化粧を落としてるんだろう。
俺は天井を見上げたまま息を吐く。
この家は一LDKで、寝る場所はベッドとソファしかない。ソファは昼のエルちゃんの城だし、夜は夜で、なんだかんだベッドに全員集まる。最初は「狭くない?」とか「いや別に昔からだし」とか、それっぽい会話もした気がするけど、今となっては誰も深く気にしていない。
正確には、一匹だけまったく気にしていない。
「たつくん、ちょっと」
「なに」
「私の寝る場所、残ってる?」
「残ってない」
「即答すんな」
洗面所から出てきたまるさんは、さっきまで仕事してた人と同一人物とは思えないくらい、ゆるい格好になっていた。大きめのTシャツに短パン。髪も適当にまとめただけ。外で会えばたぶんちゃんとして見えるんだろうけど、家の中のまるさんはだいたいこうだ。
ベッドの横まで来て、彼女は状況を見下ろした。
「うわ」
「な」
「今日ひどいね、王政」
「ひどいとかいうレベルじゃない。独裁」
「しかもたつくん、ほぼ落ちかけてるじゃん」
「これ以上寄れない」
「あと三センチはいけるでしょ」
「壁に埋まれって?」
まるさんは笑って、ベッドの反対側から膝を乗せた。
その瞬間、エルちゃんがゆっくり顔を上げる。
「すみませーん、失礼しまーす」
「その敬語に意味ある?」
「王様への礼儀」
まるさんがそっと布団をめくって入ろうとすると、エルちゃんは当然のように前足を伸ばして進路を塞いだ。
「おい」
「いやおいじゃないのよ。おまえがどけなさいよ」
まるさんが指先でエルちゃんの額をつつく。
するとエルちゃんは、ものすごく不本意そうな顔で一センチだけ移動した。
「一センチ」
「譲歩の仕方がしょぼい」
「でも譲歩はした」
「裁判だったら負けるやつだよ、これ」
なんとかできたわずかな隙間に、まるさんが体を滑り込ませる。
結果、俺とまるさんはそれぞれベッドの端に寄せられ、真ん中にエルちゃんが堂々と収まる、いつもの形が完成した。
「……狭」
「だから言っただろ」
「たつくん、もうちょい向こう行けない?」
「行けるなら最初から行ってる」
「だよねえ」
まるさんは諦めたように笑って、布団の中でもぞもぞ位置を整えた。
その肘が少しだけエルちゃんの背中に触れる。俺の手の甲にも、エルちゃんの後ろ足がちょっと当たっていた。
結局、間に一匹いる。
それだけで、近いようで近くない。
妙な距離が、毎晩きれいに保たれる。
「今日、会議どうだったの」
「まあ普通。エルが途中でキーボード踏んだけど」
「また?」
「また」
「仕事してる人のPCを遊び場だと思ってるよね」
「実際そう思ってるだろ、あいつ」
話しながら、俺は隣を見る。
まるさんはもう半分眠そうだった。さっきまで外向けの顔で働いてた人間が、帰ってきて一時間もしないうちに、こうやって気の抜けた声になる。
「そっちは」
「んー?」
「団体、めんどかったんだろ」
「めんどかった。でももう忘れる」
「早いな」
「家帰ったし」
その言い方が、妙にあっさりしていて、少しだけ安心する。
まるさんはたまに、外であったことを家の中に持ち込まない。
持ち込まないっていうか、玄関のところで上着と一緒に脱いでくるみたいに、部屋に入る頃には薄くなってる。全部じゃないんだろうけど、少なくとも今は、そういう顔だった。
「エル、今日も偉そうだねえ」
「毎日偉いからな」
「自分が真ん中だと思ってる」
「思ってるじゃなくて、真ん中だよ」
まるさんが小さく笑う。
「昔から変わんないね」
「なにが」
「こういうの。たつくんが文句言って、私が横から入って、真ん中にいるやつがいちばん偉いみたいなやつ」
「昔は猫いなかっただろ」
「今はいるじゃん」
「増えたな、真ん中が」
「ちょうどよかったのかもね」
その言葉の意味を、少しだけ考える。
でも考えたところで、エルちゃんが急に身じろぎして、俺の腹に後ろ足を押しつけてきた。
「ぐっ」
「なに?」
「蹴られた」
「不敬罪じゃない?」
「王政きつ」
まるさんが声を殺して笑う。
その振動が布団越しにかすかに伝わった。
エルちゃんはそんなことには構わず、満足そうに喉を鳴らし始める。
こっちは両端で身動きが取りづらいのに、本人だけはたぶんこの世でいちばん快適な顔をしていた。
部屋の明かりを消すと、暗闇の中でエルちゃんの体温だけがやけにはっきり分かる。
右に俺。左にまるさん。真ん中に猫。
それがうちの夜の完成形だった。
「おやすみ」
「ん。おやすみ」
「エルちゃんも、おやすみ」
「返事は?」
「ないね」
「王様だから」
目を閉じる直前、エルちゃんがもう一度だけぐっと体を伸ばした。
そのせいで俺もまるさんも、さらに端へ寄せられる。
理不尽だ。
でも、たぶん、これでいい。
この家のど真ん中には、いつも猫がいる。
だから俺たちは、近づきすぎずに済むし、離れすぎもしない。
たぶん、しばらくは。




