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警察庁特定未開領域犯罪捜査課  作者: 華洛
道頓堀ダンジョン連続暴行事件

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09話 沈黙


 男たちの背中は、迷宮の奥底へと広がる闇に吸い込まれるようにして遠ざかっていった。

 七罪と澪は、つかず離れずの距離を保ちながらその影を追う。

 極限まで足音を殺し、肺に送り込む空気の音さえも惜しむように呼吸を浅くする。

 湿った石床は薄氷を踏むように滑りやすく、注意深く踏みしめるたびに、靴底が吸い付くような小さな音を立てた。

 前方を行く男の一人が、強迫観念に駆られたように何度も後ろを振り返る。

 そのたびにヘッドライトの光が激しく揺れ、迷宮の壁面を乱暴に、かつ無様に撫で回した。


「……警戒していますね」


 澪が、唇をほとんど動かさずに囁く。


「まあね。自分たちが何を落としたか、その重大さを一番理解しているのは彼ら自身だろうから」


 七罪は淡々と応じた。

 その声音には焦りの欠片もない。むしろ、追い詰められた獲物がどのような軌跡を描くのかを、冷徹に観察すること自体を愉しんでいるような静けさがあった。

 ポケットの中で、七罪のスマートフォンが微かに、だが規則的に震える。

 ラプラスが男たちの端末へと潜り込んだ合図だ。あとは蜘蛛の巣にかかった蝶を眺めるように、位置情報を追うだけでいい。


 だが、その振動は唐突に途切れた。

 画面を確認した七罪の眉が、ほんのわずかに鋭く動いた。


「……ラプラス?」


 返事はない。

 もう一度、意識を向けて呼びかける。無機質な電子音すら返ってこない。

 画面上に表示されていた追跡マーカーは、まるで実体のない幻影であったかのように、唐突に消失していた。


 同時に、前方を走っていたはずのヘッドライトの光も、掻き消えるように消失する。

 まるで、最初からそこに誰も存在しなかったかのように。

 通路にはただ、粘りつくような湿った静寂だけが取り残された。


「――消えました」


 澪の声が、弦を限界まで引き絞ったかのように張り詰める。

 七罪は足を止め、細めた目で周囲を射抜くように見回した。曲がり角は一つ。分岐はない。壁面も床も、数秒前と変わらぬ堅牢な岩盤だ。

 隠し通路の機構が作動したような摩擦音はなかった。


「物理的に隠れられる場所はないね」

「そんな……馬鹿な」


 澪は弾かれたように駆け出し、角を曲がった。だが、その先は無慈悲な行き止まりだった。

 袋小路。壁は継ぎ目のない一枚岩のように垂直に立ち尽くしている。

 七罪もゆっくりと歩み寄り、冷えた指先で岩肌に触れた。わずかな魔素のゆらぎはあるが、それはダンジョンが自然に発する拍動に過ぎない。


 そのとき、死んでいたはずのスマートフォンが再び、狂ったように震えた。

 画面には、ひどく乱れたノイズの隙間から、顔を歪ませたラプラスの姿が浮かび上がる。いつもの不敵な余裕は霧散し、その表情は険しい。


『……通信がロストした。ダンジョン内部から、対象の座標が完全にロストした☆』

「消えた? 通信障害じゃなくて?」

『うん。位置情報が切断されたっていうより、空間ごと別の座標に跳ばされた。今、広域スキャンを回してる☆』


 ラプラスの背後で、天文学的な数字と地図データが流星群のように高速で流れていく。

 澪が息を呑み、七罪の横顔を凝視した。


『……あった』


 数秒の沈黙ののち、ラプラスが顔を上げた。


『反応が出たのは――大阪市西成区、あいりん地区』


 その地名が発せられた瞬間、迷宮の冷気とは別種の、じっとりとした緊張が場を支配した。


「あいりん……?」


 澪の声に、隠しきれない動揺が混じる。

 そこは、この道頓堀ダンジョンの出入口からは直線距離でも数キロメートルは離れた、大阪でも独特な場所であった。


「空間転移……?」


 澪は自分の言葉に困惑するように繰り返す。


「いえ! そんな大規模な空間干渉魔術、まだ開発されていません。実行するには大量の魔力と膨大な計算が必要だと聞きました」

「そうだね」


 七罪はあっさりと、他人事のように頷いた。


「でも、ダンジョンという特異点に限って、それを使用できる種族モノたちはいる」


 澪が鋭く振り向いた。その瞳に、拭い去れない警戒と疑念が宿る。


「……まさか、魔人ですか」

「そう」


 七罪は迷いなく、断定した。


「まあ、好き勝手にどこへでも行けるわけじゃないけどね。制約はそれなりにあって、行使できるレベルも爵位によって異なるし」


 澪は七罪を見つめたまま、一歩も動かずに口を開く。


「……どうして、そんなに詳しいんですか。国や専門家でも、魔人の生態についてはほとんど把握できていないと聞いてます」


 問いは静かだったが、鋭い刃のように七罪の喉元に突きつけられた。


 魔人について、国も専門家もほとんど把握できていない――それが現実だ。

 目撃例は数えるほど。存在そのものが都市伝説の域を出ない。

 そして、その情報は意図的に伏せられている。

 人間と同じ姿形をした非友好的な存在が自分の横にいるかもしれないと知り渡れば、疑心暗鬼に陥り、下手すると恐慌を起こしかねないからだ。


 迷宮の空気が、さらに密度を増し、物理的な圧力となって二人を押し包む。

 七罪はわずかに首を傾け、困ったような、それでいてすべてを見透かしたような笑みを浮かべた。


「――私が魔人について詳しかったとして、澪に何か不都合でもあるの?」


 視線が交差した。

 澪の喉が小さく、緊張に鳴った。


「それ、は……」


 言葉が続かない。この奔放なパートナーへの、根源的な恐怖からくる疑念が、胸の内で激しくせめぎ合っている。

 その一触即発の緊張を切り裂くように、ラプラスが割り込んだ。


『今はあの二人を追うのが最優先じゃないかな☆ 内輪揉めはあとでゆっくり、お茶でも飲みながらしてよ!』


 やや強引な明るさだったが、それこそが今の二人に必要な引き金だった。


「ま、そうだね」


 七罪は肩をすくめ、張り詰めた糸を自ら解いた。


「魔人が関わっているなんて、興ざめもいいところ。さっさと片付けようか」


 その声音には、明確な、そして冷酷な失望が滲んでいた。

 人間の欲望から起こる罪。保身のために泥を啜るような醜い足掻き。

 それこそが七罪にとっての最上の観測対象であり楽しみだった。だが魔人という外部要因の介入は、その純粋な悪意を濁らせる。

 それは、極上の推理小説の結末を、無粋な超常現象で汚されたようなものだった。


「出口へ向かいます。地上に出てから、ラプラスの誘導で追跡を――」


 澪が踵を返しかける。


「待ちなよ」


 七罪がその細い腕を、羽毛に触れるような軽やかさで掴んだ。


「こっちの方が早い」


 そう言って、七罪は行き止まりの岩壁へと歩み寄る。

 ただの壁だ。澪が先ほど確かめた、冷たく硬いだけの岩盤。

 七罪は白磁のような素手で岩盤に触れた。


 掌が触れた瞬間、凪いでいた空気が一変し、岩肌の一部が、水面を叩いたかのように波打つ。

 黒い亀裂が走り、そこから網膜を焼くような紫の光が滲み出した。やがてそれは、周囲の光を呑み込みながら、渦を巻く円形の歪みへと変貌していく。


「向こうがJOKERを使うなら、こっちもJOKERで対抗するしかないよね」


 七罪はつまらなそうに淡々と言った。


「……」


 声が出ない。

 さっき七罪は、魔人なら制約はあれど空間転移が可能だと言った。

 なら、同じようなことができる七罪は魔人ということになる。


 七罪は、空間の歪みを背に振り返った。


「どうしたの。さっさと行くよ」


 こともなげに、散歩にでも誘うような気軽さで七罪は言う。

 澪の心臓が、警告音のように激しく脈打つ。


「……は、い」


 掠れた声で応じるのが精一杯だった。

 一歩、その孔へ近づく。冷気とも熱ともつかない、この世ならぬ風が頬を撫でた。


 七罪は迷いなく、闇の中へと身を投じる。彼女の身体が歪みに溶け、輪郭が水彩画のように揺らぎ、次の瞬間にはその存在そのものが消失した。

 澪は覚悟を決め、七罪の後を追うように昏い闇へと身を投じた。


 世界が反転する。

 視界が濃縮された黒紫に染まり、すべての音が遠のいていく。

 そして、迷宮の冷たく湿った空気は、完全に断絶された。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 黒と紫の渦が視界を呑み込み、次の瞬間、足裏に硬い地面の感触が戻った。

 澪は反射的に膝を軽く曲げ、衝撃を殺す。肺に流れ込んだ空気は、先程までいたダンジョンとはまた違ったものだった。

 埃と錆、そして何かが焦げついたような、生活の残滓を煮詰めたような臭い。


「……ここは」

『現在地確認。そこは……あいりん地区にある封印ダンジョンだね☆』


 澪の疑問に、七罪のスマホからラプラスの声が響く。


 あいりん地区――日雇い労働者や路上生活者が多く集まる、再開発の波から取り残された街区。

 そこに存在した小規模ダンジョンは、かつて雨風を凌げる場所として浮浪者などが流れ込んだ歴史を持つ。

 夏の豪雨、冬の凍える夜。地上よりも温度変化の少ない地下空間は、持たざる者たちが寝泊まりするにはあまりに都合がよかった。

 だが、そこはあくまでダンジョンだ。

 魔物は定期的に湧く。十分な装備も知識も持たない者たちがそこを寝床とし、魔物に襲われ、無残に命を落とした

 そうした事故が相次いだ結果。行政は決断を下した。


『出入り口をコンクリートで固め、更にその上にビルを建てて物理的に完全封鎖した――はずだったんだけどね☆』

「……全然封鎖できていないじゃない」

『数年前に大阪府が財政の足しにするために土地を売り払ったんだ。それが巡り巡って、今や犯罪組織の格好の巣窟として利用されているようだね☆』


 公式記録上は消滅したはずの場所が、最悪の形で息を吹き返している。

 七罪と澪が物音のする方向へ足を進めると、すぐに先ほどの二人組に追いついた。

 足元には無造作に投げ捨てられたスマホケースと、無残に踏み潰されたスマートフォン本体が転がっている。


「お、お前らは……っ!」


 短髪の男が目を剥く。

 若さゆえの威勢はあるが、声は上ずり、隠しきれない動揺が漏れていた。


「はあ!? なんでここにおんねん! どこから湧いてきたんや!」


 もう一人が後ずさり、壁を背負う。


「荒蒔さんの許可なきゃ、このトンネル通られへんはずやろ! 何しとんねん、お前ら!」


 七罪は口元にわずかな、そして残酷な笑みを浮かべた。


「何事にも例外は存在するんだよ。お前たちが魔人という存在でイカサマをしていたようにね」


 一歩、七罪が踏み出した。男たちの表情が凍りついた。


「な、何のことや……」

「知らんこと言うなや!」


 強がりの声音。しかし、視線は泳ぎ、逃げ場を探して彷徨っている。

 澪は腰のホルスターに手をかけ、警察手帳を鋭く突き出した。


「警察です! 大人しく投降しなさい!」


 刹那、男の一人が舌打ちした。


「警察が何ぼのもんじゃい! ここは俺らのシマやぞ!」


 上着の内側から、黒光りする小型自動拳銃を引き抜く。躊躇はなかった。

 引き金が引かれ、乾いた破裂音がダンジョン内に響き渡る。


 銃口から吐き出された弾丸が、一直線に七罪へと肉薄する。

 だが、七罪は動かない。道頓堀橋で見せたあの時と同じく、ただ観察するように軌道を眺めていた。

 その無防備の前に、影が割り込む。


 澪が踏み込んだ。

 腰の後方から伸縮式警棒を引き抜き、手首の返しと同時に最大まで展開。鋼鉄のシャフトが、目にも留まらぬ速さで空気を裂く。


 甲高い金属音。

 澪は弾道を完璧に読み切り、横殴りに弾丸を叩き落とした。鉛の塊は軌道を逸らされ、岩壁に当たって火花を散らす。

 火薬の匂いと、破片が床を転がる音だけが残った。


 七罪の口から、感嘆を込めた軽い口笛が漏れた。


「~~♪ へえ。撃った弾丸を警棒で叩き落とすなんて。ちょっとは鍛えてるんだね」

「うるさいです。集中を乱さないでください」


澪は視線を男たちに固定したまま、冷たく言い放つ。


「拳銃では、私たちをどうこうできませんよ」


 足を一歩、踏み出す。空気が重く沈んだ。

 訓練と実戦を重ねた者だけが纏う、殺意に似た圧倒的な制圧の気配。

 澪の怒りが、黒い瞳を揺らがせた。

 右目は灼熱の赤へ、左目は神々しいまでの金へと変貌した。

 同時に噴き上がる、暴力的なまでの魔力。


「投降しなさい。そして、あなたたちのリーダー……荒蒔のところに案内してもらいます」


 男たちの喉が鳴る。


「な、なんやねんコイツ……化物かよ……」

「弾、弾いたやと……?」


 拳銃を持つ手が、目に見えて震えている。

 澪がさらに半歩詰めると、それだけで二人は糸が切れたように武器を放り出した。


「わ、わかった! 撃たへん! 撃たへんから!」

「案内する! 荒蒔さんとこ連れてったるから、その目、やめてくれや……!」


 情けないほどに首を振る男たちを見て、澪は目元を押さえ、深く呼吸した。

 瞳の色は元の黒へと戻り、荒々しかった魔力が霧散していく。


「じゃあ、案内してもらおうか」


 七罪の言葉に従い、男たちは這いずるようにして歩き出した。

 先頭を男たちに歩かせ、その後ろを七罪と澪が続く。

 沈黙の中、澪がぼそりと呟く。


「……あの。さっきの私について、聞かないんですか」

「なに。聞いてほしいの?」

「――いえ。まだ、その必要はありません」

「そ」


 短い会話が途切れる。

 この先に、この惨劇の元凶である荒蒔が、そして心を壊されかけている少女たちがいる。

 澪は今一度、手の中の警棒を強く握りしめた。




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