08話 檻の中
地下二階。
ラプラスが示した座標に辿り着いた時、そこには誰もいなかった。
道頓堀ダンジョンは初心者向けとはいえ、地下二階ともなると空気が重い。魔素は少し濃くなり、肌にまとわりつくような感覚がある。
澪は素早く周囲を確認した。
人の気配はない。魔物の気配も、今は感じられない。だが、何かがあったのは確かだった。
床には、スマートフォンがあった。
画面が粉々に割れ、フレームも歪んでいる。
強い衝撃を受けたのか、あるいは何かに踏まれたのだろう。
ケースには、小さな花のステッカーとプリクラが貼られていた。持ち主の個性が滲む、日常の痕跡。それが今、冷たい石の床に打ち捨てられている。
七罪はしゃがみ込み、スマートフォンを拾い上げた。
「死体はない。血痕もない。あるのは壊れたスマートフォンだけ、ね」
淡々とした声だった。
澪は周囲をもう一度見回した。確かに、血の痕跡はない。
争った形跡も、それほど見当たらない。スマートフォンが壊れているということは、何らかの衝撃があったのは確かだ。だが、持ち主の姿がない。
「府警に電話します。念の為、出入り口を固めてもらいます」
澪はすでにスマートフォンを取り出していた。
「そうして。私たちはダンジョンを探索しようか」
七罪は立ち上がり、割れたスマートフォンを証拠袋に入れた。どこから取り出したのか、手際だけは妙に良い。
澪は府警への連絡を済ませながら、七罪の背中を見た。
この人は、今何を考えているのか。
表情からは何も読めない。
不安も、焦りも、怒りも見えない。ただ、ゆっくりとした足取りで、次の通路へと向かっていく。だが、その目は違った。
気だるげな外見とは裏腹に、七罪の瞳は周囲の全てを観察していた。
壁の染み、床の傷、空気の流れ。まるで、目に見えない何かを読み取ろうとするかのように。
二人はダンジョン内の一階から七階まで隈なく探索した。
七階の行き止まりまで足を運んだが、あるのは砕けた魔石の欠片と、探索者の落とした空のペットボトルやゴミだけだった。
途中、遭遇した魔物は七罪が片付けた。
特に戦闘らしい戦闘ではなかった。七罪が拳を握り一発殴るだけで、魔物は弾き飛んだ。澪が魔力を構えるまでもなかった。
他の探索者にも声をかけた。
平日の昼下がり、このダンジョンには十数名の探索者がいた。
大学生らしい若者のグループ、中年の男性ソロ探索者、観光ついでに立ち寄ったと思しき外国人のペア。
だが、誰も木之下真琴と南條結衣の姿を見ていなかった。
入口のカメラには二人が入っていく姿が映っていた。出ていく姿はない。だが、ダンジョン内にいるはずの二人を、誰も目撃していない。
「まるで神隠しにあったみたいだね。初心者向けのダンジョンで、探索者が複数いる状況で、二人の女性が忽然と消えるなんてさ」
湿り気を帯びたダンジョンの空気が、七罪の言葉を重く沈ませる。
横を歩く澪の表情は、硬い石像のように強張っていた。
「……ありえません」
「まあね。そもそもダンジョンにいるのは神じゃなくて――」
七罪はそこで言葉を区切った。
先ほどスマートフォンを拾い上げた地点が近づいている。角を曲がればその現場だが、そこにはすでに先客がいた。
暗闇を不自然に切り裂く、二条のヘッドライトの光。
ガサゴソという衣擦れの音と、苛立ったような足音が迷宮の壁に反響している。
七罪は咄嗟に澪の肩を押し、曲がり角の影に身を潜めた。
「クソが。おまえがキッチリ回収せんから、えらいことなっとんねんぞ。ボケが」
荒々しい関西訛りの罵声が響く。
光の先にいたのは、およそ探索者には見えない、薄汚れたストリートファッションに身を包んだ若い男二人組だった。
「スマホ落ちてるとか、マジで気づかんかったんすよ……!」
「おまえがそんなクソしょーもないミスしたせいで、荒蒔さんに詰められることになったんやろが。ケツ持てんのか、あ?」
「……さーせん」
「サツが動いとるらしいわ。まくりで探さんと、俺らガチで魔物のエサにされるぞ」
「うっす……」
「まくり」――一刻も早く、という意味か。
男たちの会話から漂うのは、単なる遺失物捜索の焦りではない。
切羽詰まった犯罪の香りに、澪の眉間の皺が深くなる。彼女の体から、隠しきれない殺気が漏れ出した。
澪が角から飛び出そうとするのを、七罪は無言で制した。その手で彼女の肩を強く抑え込み、耳元で囁く。
「ラプラス。あの二人のスマホに、いつもの『仕掛け』はできる?」
七罪がポケットから、先ほど拾った画面の割れたスマートフォンを取り出し、自らの端末とケーブルで繋ぐ。
すると、暗い画面にラプラスが、生意気そうな笑みを浮かべて現れた。
『可能だよ、シチミン。そのまま繋いでおいて☆』
ラプラスの指先が虚空を舞うと、七罪のスマートフォンの画面が激しく明滅を始めた。
データ転送を示すパーセンテージが、一刻一刻と上昇していく。
『OK、完了☆ その端末にボクの分身を潜り込ませたよ。あとは物理的に近づけば、近距離ネットワークを通じて相手のスマホに自動で乗り移れる☆』
「よし。なら、私が渡してくる」
『えっ、シチミンが行くの?』
「澪じゃダメだ。怒気が漏れすぎてて、一瞬で正体がバレる」
図星を突かれた澪は、ぐっと言葉を詰まらせて拳を握りしめた。
七罪は少しだけ考えて、澪に役割を与えることにした。
「澪はここで、スマホで男たちの顔を撮っておいて。できるだけ鮮明にね」
「……分かりました。お気をつけて」
短く息を吐き、七罪は壁の影から足を踏み出した。
あえて足音を立て、のんびりとした歩調で男たちの背後に近づく。
「……何か探し物?」
「あぁん? 何やねんおまえ。今忙しいんじゃ、邪魔すんなや!」
振り返った男の目は血走っていた。だが、七罪は動じることなく、指先にぶら下げた獲物を軽く振ってみせる。
「いや、実はここでスマホを拾ったんだけど。もしかして、君たちのかなって」
「マジか!?」
男の顔色が瞬時に変わった。
獲物に飛びかかる獣のような勢いで七罪に詰め寄ってくる。
「そう、これなんだけど……。でも、本当にか君たちの? どう見ても持ち主は女性みたいだけど」
七罪が差し出したスマートフォンのカバーには、色鮮やかなプリクラが貼られていた。
そこには、行方不明になった女子大生二人が、何も知らずにピースサインで笑っている。
男は一瞬、言葉に詰まった。視線を泳がせ、隣の仲間と顔を見合わせた後、わざとらしい大声を出す。
「い、妹や! そう、コイツの妹が落としたから探してこいって言われてたねん。なあ!?」
「せ、せやねん! 俺の妹、めっちゃおっちょこちょいやから……。ほんま、かなわんわぁ」
白々しい演技に内心で溜息をつきながらも、七罪は「そうですか」と笑顔を浮かべてスマートフォンを手渡した。
「そうなんだ。じゃあ、次からは気をつけるように伝えてあげてね」
「おう、わかったわ。おい、行くぞ!」
ひったくるように端末を奪い取ると、男たちは逃げるようにダンジョンの奥へと消えていった。
七罪が角まで戻ると、ポケットの中で自分のスマートフォンが短く震えた。
『ひっどいお芝居。幼稚園の劇の方がまだマシだよ☆』
「うるさいな。私に女優の才能を求めないでよ。それより、澪。撮れた?」
影から姿を現した澪は、無言でカメラのプレビュー画面を見せた。男二人の横顔が、鮮明に記録されている。
「上出来。ラプラス、この男たちの素性を洗って」
『顔認証システムで照合中……。わかったら孔明たちとも共有しておくね☆』
「お願い。……さて、それじゃあ追いかけようか。あのトカゲたちの尻尾を」
七罪の言葉に、澪が静かに、だが鋭く頷いた。
二人は光の消えた通路の先へ、音もなく滑り出し
※※※※※※※※※※※※※※
木之下真琴が意識を浮上させたとき、最初に脳を焼いたのは鋭い冷気だった。
背中から伝わるのは、湿った石床の硬さと、骨の髄まで凍てつかせるような冷たさ。
「……っ」
重い鉛を流し込まれたような頭を、無理やり引き剥がすようにして体を起こす。
視界が激しく揺れ、断片的な記憶が泥水の中から泡のように浮かび上がっては消えていった。
道頓堀ダンジョン。地下二階。親友の結衣と二人で、いつも通り探索をしていたはずだった。
それなのに――。何かが、起きた。
決定的な瞬間の記憶だけが、深い霧に覆い隠されたように抜け落ちている。
「……結衣?」
掠れた声で名を呼ぶと、すぐ隣で丸まっていた人影がびくりと身じろぎした。
「……真琴……ここ、どこやの……」
南條結衣もまた、這いずるようにして上体を起こした。
二人は互いの姿を認め、同時に自分たちの異常な状態に凍りついた。
装備品が、何一つとして残っていない。
命を守るためのプロテクターも、使い慣れた武器も、予備のポーションが入ったリュックも、外部と繋がる唯一の希望であるスマートフォンも。
代わりに身に着けさせられていたのは、下着の上に重ねた粗末な白い布と、冷たい首輪だけだった。
薄く粗末な麻のような生地の布と、冷たい首輪はまるで自分たちが所有物として扱われている現実を突きつけてくる。
「なんで……なんで、こんな……っ」
結衣の声が、震える吐息となって漏れる。
真琴は必死に冷静さを保とうと周囲を見回した。
そこは、荒削りの岩壁に囲まれた殺風景な小部屋だった。
天井は圧迫感を感じるほどに低く、床に置かれた安物のオイルランプが、六畳ほどの空間を不気味な橙色に染めている。
どこを眺めても、出口となる扉が見当たらない。どこから運び込まれ、どこから去ったのか。逃げ道のない完全な閉鎖空間。
部屋の隅には、淀んだ水の入った桶と、家畜の餌のような乾燥食料が置かれていた。
まるで、誰かがここで人間を飼育することを前提に誂えたような光景。
その認識が、真琴の背筋に氷の楔を打ち込んだ。
「お姉ちゃん達……大丈夫?」
唐突に、幼い声が暗がりに溶け込んだ。
真琴と結衣は、弾かれたように振り返る。
部屋の隅、ランプの光が届かない影の中に、一人の少女が膝を抱えて座っていた。
年齢は十二、三歳ほどだろうか。艶やかな黒髪を几帳面に二つに結び、黒いメイド服を着ている。
あまりに整った、人形のように美しい顔立ちで、同性である結衣と真琴でさえ、思わず目を奪われた。だが結衣は警戒心を崩さず、鋭く問いかけた
「だ、誰や……あんた」
結衣が剥き出しの警戒心をぶつける。
少女は瞬きもせず、静かな湖面のような声で答えた。
「私、一色彩。もうずっと……監禁されて、来る人達の世話をしてるの」
監禁。その言葉が、空気を変えた。
この部屋に置かれた水と食料の意味が、より鮮明な悪意となって迫ってくる。
誰かが、意図的にここに人を閉じ込めている。そしてこの少女は、ずっとここにいた。
「なんで……どうして、こんな場所に」
真琴の問いに、彩は淡々と、まるで今日の天気を語るような無機質なトーンで返した。
「連れてこられたの。最初は怖くて、毎日泣いて、叫んだけど……もう慣れちゃった」
「慣れた」という言葉が、真琴の心臓を素手で掴まれたように締め付ける。
どれほどの絶望を重ねれば、人はこの地獄を日常として受け入れられるようになるのか。少女の虚ろな瞳が、その凄惨な過程を雄弁に物語っていた。
「少し前まで、風花お姉ちゃんも一緒だったんだけど……動かなくなっちゃったから、捨てられちゃった」
彩がぽつりと零した言葉の後、地下室に死のような沈黙が落ちた。
風花。
その名に、真琴の脳裏に昨日の凄惨な光景がフラッシュバックする。
西永風花。
その名前は記憶にあった。
「……あんたが見つけた、あの子のことやな」
結衣の震える声は、もはや怒りよりも深い恐怖に支配されていた。
数日前に、ダンジョンで発見した少女の名前だ。
警察から連絡を受けた際、名前だけ教えてもらっていた。
全裸で、無数の傷を負い、虚ろな瞳で虚空を見つめていた少女。あの光景は、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
「……うん」
真琴は、自身の震える指先を隠すように強く拳を握り、短く答えた。
動かなくなって捨てられた。
それが意味することを、真琴は理解した。
心が壊れた状態で発見された風花。
彩の言う「動かなくなった」という状態は、おそらくあれを指していた。使い物にならなくなったから、捨てた。そういうことだった。
二人の間に、粘りつくような死の予感が広がっていく。
風花が辿った、地獄のような道。心を粉々に砕かれ、廃人同然にまで追い詰められた少女の結末。
自分たちも今、その入り口に立たされている。装備を奪われ、逃げ場もなく、人としての尊厳を剥ぎ取られるのを待つだけの部屋。
これから、どんな悪意がこの部屋に入ってくるのか。想像しただけで、足元の床が崩れ落ちるような感覚に陥った。
「大丈夫だよ」
彩が、聖母のような穏やかさで微笑んだ。
「ちゃんとご飯ももらえるし、寒くないように毛布もある。私がずっと一緒にいてあげるから」
その声は優しく、慈悲に満ちていた。
だが真琴は、その優しさに吐き気を催すほどの違和感を覚えたが、それを言語化できることはできなかった。
「それにどんなことがあっても、慣れるものだもの。……人間は」
慣れる。ただそれは、人間であることを辞めることと同義なのではないか。
真琴は考え、すぐにその思考を振り払った。受け入れてしまえば、その瞬間に自分も動かないモノへのカウントダウンが始まる。
「警察に、連絡しなあかん……スマホ、スマホは……」
手元にあるのは、冷たい石床と無力な自分たちの体だけ。
「脱出、できへんの?」
縋るような結衣の問いに、彩は静かに首を振った。
「何度も試したよ。でも、出られない。扉がどこにあるのかも、私には教えてもらえなかったから」
真琴はふらつく足で立ち上がり、岩壁に縋り付いた。
壁を叩き、隙間を探して爪を立てる。指先に伝わるのは無機質な岩の拒絶だけだった。
反対側の壁で同じように出口を探す結衣の背中が、小刻みに、そして激しく震えていた。
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