06話 バケモノ
夕暮れの道頓堀橋は、まるで時間がゆっくりと流れているかのように見えた。
西日が川面を橙色に染め、対岸のネオンサインが徐々に輝きを増していく。
観光客の足音、呼び込みの声、車のクラクション。都市の喧騒が、まるで波のように押し寄せては引いていく。
その喧騒の中、逢魔七罪は欄干にもたれ、片手に握った紙舟を見つめていた。
たこ焼き。
六個入りで五百円。道頓堀名物の一つだ。湯気が立ち上り、ソースの甘辛い香りが鼻腔をくすぐる。七罪は爪楊枝でひとつつまみ上げ、口に運んだ。
熱い。
だが、それが良い。舌の上で転がし、ゆっくりと咀嚼する。
小麦粉の生地、タコの歯ごたえ、ソースの濃厚な味わい。人間が作り出した食文化の一つ。彼らは、こうして日々の生活に小さな喜びを見出している。
七罪は咀嚼しながら、橋を行き交う人々を観察した。
笑う人。
怒る人。
楽しげに写真を撮る若者たち。
疲れ切った顔で歩くサラリーマン。
手をつなぎ、互いに言葉をかけ合う恋人たち。
怒鳴り合い、足を止め、指を突き合わせる中年の男女。
人間は、実に表情豊かだ。
感情が、そのまま顔に現れる。喜怒哀楽が、隠しきれずに溢れ出す。まるで、内面を外に曝すことが当然であるかのように。
七罪には、それが不思議だった。
理解はできる。観察もできる。人間の感情の仕組みについて、知識としては把握している。だが、腑に落ちることはない。
なぜ、彼らはそこまで自分の内面を他者に曝すのか。生きるための行動のひとつなのか、単なる本能なのか、あるいは――何かもっと複雑な理由があるのか。
だから、七罪は人間を観察する。
知りたいから。理解したいから。彼らが何を考え、何を感じ、どう生きているのか。それを知ることが、七罪にとっての唯一の趣味だ。
警察官という立場は、その目的にとって都合が良い。公権力があり、人間社会の暗部にまで踏み込める。探偵よりも、遥かに有利だ。
そしてなにより人間が犯す罪を見て感じることができる。
七罪は二つ目のたこ焼きを口に運んだ。
ポケットの中で、スマートフォンが振動した。画面を見ると、蓮見迅からの着信だった。通話ボタンを押す。
「んー。どうかした?」
気だるげな声で応じる。迅の声は、いつもより少し硬かった。
『俺の異能を持ってしても読み取れない。お前なら視て何か分かるか?』
カメラ越しに映し出されたのは、病室のベッドに横たわる少女だった。西永風花。昨日、ダンジョンで発見された被害者だ。
七罪は画面を見つめた。
少女の目は開いている。だが、その瞳には何も映っていない。焦点が合わず、ただ虚空を見つめている。生きているはずなのに、そこには「生」の気配がない。
「生気がないね。屍と同じ」
七罪は淡々と答えた。
『ミイラになってないぞ』
「迅……漫画とか読みすぎ。生気というのは、人間の生きる意思を指すの。それが搾り取られた状態は、死んでいるのと同じ。ただ心臓と脳が動いているだけの肉塊」
『おい!』
迅の声が、思わず大きくなった。七罪は眉をひそめる。
「――なに。怒鳴らないでほしいんだけど。私は聞かれたから答えただけだよ」
『……言い方があるだろ』
「そういうの私に期待しないでよ」
七罪は、たこ焼きを咀嚼しながら答えた。
迅がなぜ怒っているのか、理解はできる。彼は「共感」する人間だ。被害者の苦痛を、自分のことのように感じる。だが、七罪にはそれがない。
事実を述べただけで、なぜ怒られるのか。
『こんな状態は、ダンジョンではよくあることなのか』
「全くないとは言わないけど、稀なケースだね。私も数えるぐらいしか見たことがない」
『……そういう魔物がいるのか』
「違う」
七罪の声が、わずかに低くなった。
「その状態はね……絶望と希望を繰り返された末の状態だよ」
『どういうことだ』
「そのままの意味。たぶん犯人の中にメンタリストがいる。絶望の中で希望を与えて、生気を搾り取る。人間の心を弄ぶのが上手い奴だ」
七罪は画面越しに、少女の顔をもう一度見た。
空っぽの瞳。抜け殻のような身体。
「……ああ、今回の犯人は実に興味深い」
通話が切れた。
七罪はスマートフォンをポケットに戻し、小さく呟いた。
「……なに怒ってるんだか」
聞かれたことに答えただけなのに。
三つ目のたこ焼きを口に運ぼうとしたその瞬間、横の方から声が響いた。
「逢魔……七罪……!」
低く濁った声。怒りと恐怖、威圧と苛立ちが混ざっている。
七罪は、視線を前にあげた。
そこに立っていたのは、いかにも「その筋」の人間らしい男だった。
派手な柄のスーツ、剃り上げた頭、首に巻かれた金のチェーン。そして、右手には――拳銃。
銃口は、正確に七罪の胸元を捉えている。
周囲の通行人たちが、その光景に気づき始めた。悲鳴が上がる。
人波が割れ、距離を取る。だが、逃げ惑うほどの混乱には至っていない。まだ、銃が撃たれていないからだ。
「淡路島での借りを返してもらうぞ!」
男は怒りを滲ませて吠えた。
七罪は紙舟のたこ焼きを爪楊枝で押さえながら、男を観察した。
淡路島。
数日前、そこのダンジョンで強制捜査があった。
内部で危険ドラッグを精製・流通させていたヤクザ組織。ダンジョン内の魔素と魔物を利用し、違法薬物を製造していた。
七罪は思い出したように言った。
「……あの後、組は強制解散されたって孔明が言ってた。その仕返し? ご苦労様」
その言葉が、合図となった。
男は引き金を引いた。
乾いた銃声が、道頓堀橋に響き渡った。
「きゃああああっ!」
「撃ったぞ!」
「警察! 警察呼べ!」
通行人たちが悲鳴を上げ、逃げ惑う。橋の上が、一気に混乱に包まれた。
七罪は、避けなかった。
銃弾は、男が狙った通り、七罪の胸元に命中した。
衝撃。
だが、痛みはない。
七罪は平然と立ったまま、胸元を見下ろした。スーツに小さな穴が開いている。その奥、肉に弾丸が食い込んでいるはずだが血は出ない。
傷口が瞬時に再生を始め、弾丸は体外へ排出されることなく、体内に留まった。
七罪は口元を手で覆い、コホコホと咳き込んだ。
そして――口を開き、弾丸を吐き出した。
唾液に濡れた鉛の塊が、手のひらに転がる。
男の顔から、血の気が引いた。
「あっ……ああ……」
七罪は手のひらの弾丸を見つめた。そして、わずかに魔力を込める。
弾丸が、淡い光を帯びた。
次の瞬間――弾丸が手のひらから飛び出した。
まるで意思を持つかのように、空中を一直線に飛ぶ。その軌道は、男が握る拳銃の銃口へと向かっていた。
弾丸が銃口に吸い込まれる。
そして――暴発した。
ドン、という鈍い音。
銃が火花と破片を撒き散らし、男の手から弾き飛ばされる。男は衝撃で後ろに倒れ、地面に転がった。
「がぁああああ……!」
男の手から、血が流れている。暴発の破片が、手のひらに無数の傷を作っていた。
「大げさ」
七罪は淡々と言った。
「魔素をちょっとは取り込んでいるみたいだから、そのうち治るでしょう」
魔素を取り込んでいる人間は、治癒力も向上する。銃の破片による傷程度なら、数日で治るはずだ。
七罪は、最後のたこ焼きを口に放り込んだ。
もぐもぐと咀嚼する。周囲の混乱など、まるで気にしていないかのように。
「警察です! 通してください!」
人垣を掻き分けて現れたのは、若い女性警官だった。
彼女は目の前の光景を見て、息を飲んだ。
銃を持った男。逃げ惑う通行人。地面に転がる拳銃の残骸。そして――たこ焼きを食べている女性。
七罪は彼女を一瞥したが、特に興味を示さなかった。
新しい相棒が配属されるという話は聞いていたが、資料には目を通していなかった。名前も、顔も知らない。興味がなかったからだ。
「何を平然としているんですか!」
女性警官が声を上げた。
七罪はたこ焼きを飲み込んでから、彼女を見た。
「んー。たこ焼きは熱いうちに食べた方が美味しいでしょう」
七罪は紙舟を丸め、近くのゴミ箱に捨てた。
「美味しいものは、罪だね」
「ふざけないでください!」
「ふざけてないよ。そもそも私は銃に撃たれた被害者なんだから、そっちの加害者を逮捕したら?」
七罪は、震えている男を指差した。
女性警官は大きく深呼吸をした。言いたいことは山ほどある。だが、それを呑み込み、職務を優先する。男へ近づき、両手に手錠をかけた。
遠くから、パトカーのサイレンが近づいてくる。誰かが通報したのだろう。
手錠をされた男は、七罪を見ていた。
その眼には、もはや怒りはなく――ただ、畏怖だけがあった。未知のものを見る時の、原始的な恐怖。
「ァァ……バケ……モノ……」
「そんなの、あの現場にいたら分かっていたでしょう。ああ、そうか。見覚えがないと思ったら、ダンジョンの方にいなかったのか」
七罪は欄干から離れ、一歩一歩、男へと近づいた。
その瞳が、わずかに光を帯びる。
「私を殺したいなら、拳銃なんて玩具じゃなくて、ダンジョンにある聖剣とか魔剣を持ってくること。それなら、万が一にも私を殺せるかもよ」
男の目が、見開かれた。
そして――白目を剥き、震え上がりその場に崩れ落ちた。
男にはきっと七罪が人とは異なる存在に見えたのだろう。
女性警官は、呆然と立ち尽くした。
何が起きたのか。
銃で撃たれた女性が、傷一つなく、平然とたこ焼きを食べている。そして、弾丸を口から吐き出し、魔力で飛ばして銃を暴発させた。
これは、現実なのか。
女性警官は、意を決して口を開いた。
「……本日より機動七班に配属されました、鈴仙澪です」
七罪は、わずかに眉を上げた。
「ああ、新人ね」
淡々とした口調。
「警察庁特定未開領域犯罪捜査課、機動七班所属。警部補、逢魔七罪。今日から、あなたの相棒だよ」
夕日が、七罪の背後に沈んでいく。
その逆光の中で、彼女はまるで人間ではない何かのように見えた。
澪は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
臥龍岡孔明の言葉が、脳裏に蘇る。
『彼女はね。ひとでなし、ですから』
その意味を、澪はようやく理解し始めていた。
これが、自分の相棒。
逢魔七罪。
人間ではない、何か。
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