05話 西永風花
パトカーを借り、二人は被害者の少女が入院している病院へと向かった。
車内は静かだった。
同乗する伊月巳奈は、時折サイドミラー越に迅を観察している。その視線に気づかないふりをしながら、迅は窓の外を眺めていた。
大阪市内の交通は相変わらず混雑していた。
信号待ちの列。クラクションの音。どこにでもある日常の風景。だが、その日常の裏側で、少女は心を壊されていた。
「……被害者の、西永風花さんですが」
巳奈が口を開いた。
「意識はあるんですが、反応がほとんどないそうです。医師の話では、自我が深く閉じ込められている状態だと」
「ええ」
迅は短く応じた。
「それでも、会いに行く価値はあります」
彼女の心が、完全に閉ざされているわけではない。
迅の異能――「覚」なら、その奥底に潜む断片を拾い上げることができるかもしれない。
もっとも、それは迅自身にとっても重荷だった。壊れた心の中に潜るということは、その地獄を共有するということでもある。他人の苦痛が、そのまま自分の意識に流れ込んでくる。それは、異能を持つ者の代償だった。
パトカーは市内の総合病院の駐車場に滑り込んだ。
白い壁。消毒液の匂い。規則正しく響く足音。
病院特有の静謐さが、迅を包み込む。
案内された病室は、四階の奥だった。
ドアの前で、巳奈が一度振り返る。
「本当に、大丈夫ですか? 医師からは、刺激を与えないようにと……」
「大丈夫です」
迅は穏やかに答えた。
「私は何もしません。ただ、そばにいるだけです」
それは嘘ではない。迅は彼女に触れることも、声をかけることもしない。ただ、その心の表層に浮かぶものを、静かに拾い上げるだけだ。
ドアを開ける。
病室の中は、静かだった。
点滴の滴る音だけが、規則正しく時を刻んでいる。
生きているはずなのに、この部屋には生命の気配がない。まるで、魂だけが抜け落ちた抜け殻を、機械が生かしているようだった。
西永風花。高校二年生。
一ヶ月前に失踪し、昨日、ダンジョンの奥で発見された。
目は開いていた。
だが、その瞳には何も映っていない。焦点が合わず、ただ虚空を見つめている。呼吸は浅く、顔色は蝋のように白い。
迅はゆっくりと近づいた。
「西永さん」
声をかける。反応はない。
迅は椅子に腰を下ろし、少女の横顔を静かに見つめた。そして――意識を、開いた。
異能「覚」。
相手の心を読む力。表層の思考だけでなく、深層に沈んだ記憶の断片まで拾い上げることができる。
だが。風花の深層は、空だった。
何もない。虚無そのもの。
心の底に沈んでいるはずの感情も、記憶の断片も、何一つ残っていない。まるで、全てが抜き取られたかのように。
迅は意識を戻し、額に手を当てた。こんなことは初めてだった。人間の心が、ここまで完全に空っぽになることなど。
ポケットからスマートフォンを取り出し、七罪へ電話をかけた。
数回のコール音の後、気だるげな声が返ってくる。
『んー。どうかした?』
「俺の異能を持ってしても読み取れない。お前なら視て何か分かるか?」
迅はカメラを風花に向けた。
スマートフォンの小さな画面の中で、七罪が目を細めている。数秒の沈黙。彼女は何かを見定めているようだった
『生気がないね。屍と同じ』
「ミイラになってないぞ」
『迅……漫画とか読みすぎ。生気というのは、人間の生きる意思を指すの。それが搾り取られた状態は、死んでいるのと同じ。ただ心臓と脳が動いているだけの肉塊』
「おい!」
迅の声が、思わず大きくなった。
『――なに。怒鳴らないでほしいんだけど。私は聞かれたから答えただけだよ』
「……言い方があるだろ」
『そういうの私に期待しないでよ』
迅は舌打ちをした。
七罪はこういうやつだった。事実を淡々と述べるだけで、そこに感情を挟まない。それが彼女の本質なのだと、迅は理解している。だが、理解することと、受け入れることは別だ。目の前で心を壊された少女を見ながら、「興味深い」という言葉を聞くのは、どうしても腹立たしい。
「こんな状態は、ダンジョンではよくあることなのか」
『全くないとは言わないけど、稀なケースだね。私も数えるぐらいしか見たことがない』
「……そういう魔物がいるのか」
『違う』
七罪の声が、わずかに低くなった。
『その状態はね……絶望と希望を繰り返された末の状態だよ』
「どういうことだ」
『そのままの意味。たぶん犯人の中にメンタリストがいる。絶望の中で希望を与えて、生気を搾り取る。人間の心を弄ぶのが上手い奴だ。……ああ、今回の犯人は実に興味深い』
迅はスマートフォンを切った。
七罪の最後の言葉が、耳に残る。「興味深い」。彼女にとって、この事件は観察対象に過ぎないのだろう。人間を知るための、材料。
「……蓮見さん?」
巳奈が心配そうに声をかけた。迅は首を横に振った。
「大丈夫です。少し、同僚と意見の相違が出ただけなので」
立ち上がり、少女の顔をもう一度見た。
虚ろな瞳。
失われた心。
そして、どこかに囚われているかもしれない、他の少女たち。
「西永さん」
迅は静かに言った。
「必ず、犯人を捕まえます」
反応はない。
だが、迅はそれでよかった。約束は、伝わっている。きっと。
病室を出た後、廊下で迅は立ち止まった。
「他の被害者たちは、どうなっているんでしょうね」
巳奈が呟いた。
「記憶の断片に、他の少女たちの姿があったそうですが……」
「生きているかもしれない」
迅は答えた。
「西永さんが生きていたということは、犯人は被害者を殺していない。どこかに、監禁している可能性が高い」
「それは……」
「希望です」
迅は振り返った。
「まだ、間に合うかもしれない」
その言葉に、巳奈は小さく頷いた。だが、その表情には不安が滲んでいる。
生きているということが、必ずしも救いを意味しないことを、彼女も理解しているからだ。
パトカーに戻る途中、迅の携帯が鳴った。孔明からだ。
『迅くん、どうだった?』
「……厳しいですね。彼女の心は深く傷ついています。いや、正確には何も残っていない。完全に空っぽです」
『……そんなことが』
「ええ。七罪によれば、絶望と希望を繰り返された末の状態だそうです。犯人は、かなり手慣れています」
『場所の特定はできそうか?』
「難しいです。再生成で構造が変わっていますから。ただ、犯人の手がかりになるものがあるかもしれません。もう一度、現場を精査する必要があります」
『分かった。引き続き頼むよ』
通話が切れた。
迅は空を見上げた。薄曇りの空。太陽の輪郭だけが滲んでいる。
人の心が壊れた瞬間を追う仕事は、いつだって気が重い。
だが、それでも。迅は、前に進むしかなかった。
犯人は、まだそこにいる。
そして、他の少女たちも。
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