13話 結末
地下室に、奇妙な静寂が満ちていた。
荒蒔の死体が床に転がり、真琴が首輪のせいで動けないまま伏している。
結衣は壁際に立ち、彩は七罪の前に立っていた。澪だけが、足の位置を微かにずらし、いつでも踏み込める姿勢を崩さない。
彩は七罪を見ていた。
先ほどまでの余裕は、まだある。だがその目の奥に、純粋な好奇心とは別の何かが混じり始めていた。
「ねえ、お姉さん」
彩は言った。声は軽い。だが、問いの中身は軽くなかった。
「男爵以上はダンジョンから長時間離れられないのに、貴女ってば全国ふらふらしてるじゃん。なんで~?」
澪は、その問いの意味をすぐには理解できなかった。
魔人の階級と、ダンジョンという領地の関係。男爵以上の魔人はダンジョンを持ち、そこを守るために長時間離れることができない。
他の魔人や探索者が侵攻してくる可能性があるからだ。騎士にはその制約はないが、騎士の実力は魔素を取り込んだ探索者と同程度に過ぎない。
その論理を踏まえれば、彩の問いの意味は明確だった。
七罪は、どちらにも当てはまらない。
七罪は表情を変えず、ただ彩を見ている。
「騎士じゃないのは分かってるよ? でもさでもさ」
彩は続けた。その声に、初めて真剣な色が混じった。
「最低でも侯爵以上のはずなのに、どの大罪の匂いもしないんだよね~。おっかしいなぁ。貴女って何者?」
地下室の空気が、微かに変わった。
七罪は彩を見たまま、何も言わなかった。
「私がどの大罪持ちで、どの爵位に属しているか」
七罪がゆっくりと口を開いた。
「本気で知りたがってないでしょう。本題に入りなよ」
彩の口元が、ゆっくりと弧を描いた。
「興味はあるよ~? でもまあ、本題はそこじゃなくってさ」
彩は人差し指を一本立てた。
「お姉さん、皇帝の居場所、知ってるんじゃない?」
その瞬間だった。
七罪の表情が、ピクリと動いた。
ほんのわずかな変化だった。眉の角度が、数ミリ動いただけかもしれない。だが彩はその微細な揺らぎを、逃さなかった。
澪は七罪の横顔を見た。普段は何があっても動じない、あの表情が、確かに動いた。
「あー、やっぱり知ってる顔してる。隠せてないよ?」
彩はくすくすと笑った。
「全国ふらふらしてたら、ダンジョンに縛られてる私たちよりずーっと情報入るもんね。皇帝って行方不明って聞いてたけど……ふぅん。なるほどねぇ」
澪には、その「なるほど」の意味が分からなかった。
「私が皇帝を知っていると仮定して」
七罪は言った。声は穏やかだが、その言葉には明確な境界線が引かれている。
「皇帝の居場所を知って、どうするつもり?」
「軛の解除鍵が欲しいんだよね~」
彩は迷わず答えた。
「……軛?」
澪が思わず声を出した。
七罪は澪を一瞥してから、静かに説明した。
「魔人はダンジョンから出て地球上に現れる際、自由を縛るための枷が嵌められている。それが軛」
「そうそう、それそれ」
彩は、まるで他人事のように言った。
「そのせいでさ~、私って伯爵なのに、外に出ると異能持ちの上澄み探索者程度しか力出せないんだよね。不公平じゃない? ぐすん。かわいそうでしょ私」
わざとらしく唇を尖らせ、目元をこすってみせる。明らかな、嘘泣きだった。
澪は無言でそれを見た。
彩の視線が、すっと澪へと向いた。
「あ、そっちのお姉さんもさ」
彩の声が変わった。先ほどまでの軽さの奥に、底意地の悪い色が滲む。
「灰色だからって軛ないと思ってた? あるよ? ま、貴女の場合は人間であることが軛だから、どうやっても外せないんだけどね~。ざんね~ん」
澪の息が止まった。
外すことができない軛。
その言葉が、澪の胸の奥に刺さった。魔人でもない。人間でもない。
その境界線上に立つことが、澪にとっての「軛」だと、彩は言っている。そしてそれは、生まれ持ったものだから、永遠に外れない。
「つーか魔人と人間の混ざりもんって初めて見たんだけど。めずらし~」
彩は澪をじろじろと眺め回した。まるで珍しい標本でも観察するかのように。
「魔力の質からして魔人の親は憤怒かな? 色欲の私たちですら子供なんて欲しいと思わないのに、よりによって憤怒がねぇ。しかも人間と。バッカじゃないの?」
澪の中で、何かが弾けた。
気づいた時には、澪は踏み込んでいた。怒りが判断を焼き飛ばし、体が先に動いていた。右の拳が彩の顔面へと一直線に向かう。
その刹那。
結衣が動いた。
人間には知覚できない速さで、結衣が澪の横に出現する。細い指が、澪の首を狙って伸びる。触れれば、骨を折るだろう距離だった。
だが、その指が澪の首に届くことはなかった。
七罪が動いていた。
いつの間にか七罪は結衣の隣に立ち、結衣の腕を片手で掴んでいた。力を込めた様子はない。だが結衣の腕は、まるで岩盤に嵌まり込んだかのように、一ミリも動かなかった。
「結衣ー」
彩が声をかけた。その声には、珍しく、かすかな緊張が混じっていた。
「そのお姉さんの方はかなり強いから、引いた方がいいよ」
「かしこまりました」
結衣は即座に腕の力を抜いた。七罪が手を離す。
澪は息を整えながら、七罪を見た。
七罪は何も言わなかった。ただ、元の位置に戻りながら、彩を見ている。
その目には、澪を助けたことへの感慨も、結衣を制したことへの誇りも、何もない。ただ、静かな観察だけがある。
「はい寸劇終わり~。で、お姉さん?」
彩は何事もなかったかのように七罪に向き直り、にっこりと笑った。
「皇帝の居場所、教えてくれない? お願いしてあげてるんだけど」
「皇帝の場所が知りたいのなら、傲慢の王にでも聞けば?」
七罪は気だるげに言った。
「あの方ね~、東京で政治家やってるから大阪になかなか来ないんだよ」
澪の思考が、一瞬止まった。
傲慢の王が、政治家。
人間社会の政治の中枢に、魔人の王が入り込んでいる。軛により能力は制限されていても、その知性と影響力は変わらない。
選挙という制度の中に、魔人が潜り込んでいる。その事実が、澪の中で静かに、しかし確実に根を張った。
「わざわざ来ていただくのも面倒くさいし?」
彩は七罪を見て、楽しそうに首を傾けた。
「この場にいるお姉さんに聞いた方が、ぜーんぜん早いよね」
「……ただで教えてもらえるとでも?」
七罪の声が、わずかに変わった。気だるげな色は消えず、しかしその奥に、何かを測るような鋭さが加わった。
「もちろんタダじゃないよ~? ちゃんとお土産持ってきたもん」
彩は上着の内側に手を入れた。
取り出したのは、小さなUSBメモリーだった。黒い、何の変哲もない形状。だが彩がそれを差し出す仕草には、これが相当な価値を持つものであるという確信があった。
「これ、荒蒔たちがしてきた悪いことの証拠が全部入ってるんだよね~。警察官さんならほしいでしょ? ねえ、ほしいよね?」
澪は、そのUSBメモリーを見た。
荒蒔のグループが行ってきた犯罪の証拠。未成年の売春。動画の販売。監禁。傷害。それらを立証できる証拠が、あの小さな媒体の中に入っている可能性がある。
「本物?」
七罪が問うた。
「魔人は契約を反故にしないよ。そのくらい知ってるよね、お姉さん?」
彩は七罪の目を真っすぐに見た。笑みは消えていない。だがその目だけは、真剣だった。
沈黙。
七罪と彩の視線が、空中で交差した。
澪には、その沈黙の中で何かが決定されていくのが分かった。七罪が何かを考えている。彩が何かを待っている。
七罪が口を開いた。
「分かった。皇帝の居場所は――」
その瞬間だった。
轟音。
地下室の入口の方向から、複数の足音と金属音が響き渡った。
「突入!」
鋭い声。続いて、重い扉が破られる音。光が差し込み、装備を纏った複数の人影が地下室に雪崩れ込んでくる。
大阪府警の機動隊だった。
澪は反射的に身構えた。だが攻撃の対象は澪ではない。機動隊は迷わず、彩と結衣へと向かった。
騒音の中で、澪は七罪を見た。
七罪は口を動かしていた。
声は聞こえない。機動隊の突入音と怒号が全てを掻き消していた。だが七罪の唇は、確かに何かを伝えていた。彩へ向けて。
澪には読み取れなかった。
しかし彩には、届いた。
その証拠に、彩の顔から、全ての色が消えた。
先ほどまでの余裕が。楽しそうに首を傾けていた仕草が。全てが、一瞬で剥がれ落ちた。
青ざめた顔で、彩は七罪を見た。その目に、これまで一切なかったものが宿っている。
それは、彩がこれまで誰にも向けたことのない感情だった。
結衣もまた、動きを止めていた。機動隊が詰め寄っても、抵抗する様子がない。
その身体から、戦意が完全に抜け落ちていた。騎士が、本能的に感じ取ったものがあるのかもしれない。目の前にいる存在の、本当の格を。
「……そんな」
彩の口から、掠れた声が漏れた。
それだけだった。
機動隊に両腕を掴まれた彩は、もはや抵抗しなかった。結衣も同様だ。茫然自失とした表情のまま、二人は確保されていく。
真琴が保護された。首輪が解除され、床から起き上がった真琴は、結衣の方を一度だけ見た。何も言わなかった。言葉が出てこないのか、言葉を持っていないのか、澪には判断できなかった。
騒然とした地下室の中で、澪は七罪の傍に立った。
「……逢魔警部補」
澪は低い声で言った。
「あの子に、何を伝えたんですか」
七罪は澪を見なかった。確保されていく彩の背中を、静かに、ただ静かに見つめていた。
「さあ」
七罪は言った。
「何のこと?」
その返答が嘘であることを、澪は知っていた。だが証明する術がない。七罪は澪の方を向かず、彩が連行されていく様子を最後まで見届けた。
地下室に、静寂が戻っていく。
機動隊の足音が遠ざかる。騒音が引いていく。残されたのは、澪と七罪と、そして荒蒔の死体と、何も語らない岩盤の壁だけだった。
澪は七罪の横顔を見た。
何かが変わった気がした。この数時間で、この地下室で、何かが変わった。だがそれが何なのかを、澪はまだ言葉にできない。
七罪は相変わらず、気だるげな表情でそこに立っていた。
ただ七罪のその手の中には、まるで最初からそこにあったかのように自然にUSBメモリーを握っていた。
いつの間に受け取ったのか、澪には分からなかった。
「さ、やることも終わったし、帰ろうか」
「……はい」
七罪の背を追うように、澪はこの場を後にした。
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