11話 魔人
薄暗い岩盤に覆われた一室。
真琴と結衣は出口を探すために壁や床を手で確かめたが、逃げられるような箇所はなかった。
指先が岩の冷たさを確認するたびに、絶望が少しずつ、しかし確実に積み上がっていく。床に置かれたランプがチカチカと明滅し、そのたびに室内の影が生き物のように形を変えた。
土でできた床に座り、真琴と結衣は互いの体温を分け合うように身を寄せ合っていた。
冷え切った空気の中で、唯一確かなぬくもりは――互いの体だけだった。
首には鈍い銀色の首輪がはめられている。宝石のような装飾が施されているが、その光沢には美しさよりも、道具としての冷酷さが宿っていた。触れるたびに金属の冷たさが指先に伝わり、自分たちが所有物として扱われているという現実を、繰り返し突きつけてくる。
逃げ場はない。助けも来ない。
そう思いかけた、その時だった。
何もなかったはずの壁際の空間が、陽炎のようにゆらりと歪んだ。
空気が波打ち、現実の継ぎ目が裂けるかのように揺らぐ。岩盤の壁が水面のように揺れ、その向こう側から、別の空間が滲み出てくる。
「――っ!?」
真琴が息を呑む。結衣の肩がびくりと跳ねた。
次の瞬間、そこに立っていたのは一人の男だった。
仕立ての良すぎるスーツを、さも当然のように着こなす傲慢な姿。靴音ひとつ立てずに現れたその男は、薄暗い地下室に不釣り合いなほど洗練されていた。
「荒蒔、さま」
真琴たちから少し離れて座っていた彩は、慌てて立ち上がると、荒蒔と呼ばれた男の近くへ歩み寄り、深々と土下座をした。
荒蒔強。
ミナミを拠点とする半グレグループの一つを仕切っている男だ。年齢は三十代半ばか。整った顔立ちだが、その瞳が全てを台無しにしている。濁っている。人間を、人間として見ていない目だ。
荒蒔は彩を無視して、真琴と結衣へゆっくりと視線を滑らせた。
まるで市場で売り物を品定めするように、二人の顔立ち、体つき、怯えた表情を値踏みしていく
「……ウチらを、どうするつもりや!」
恐怖に呑まれまいと、真琴は声を張り上げた。震えを押し殺した叫びだった。
荒蒔は、唇の端だけを持ち上げた。
「お前たちは、これから見世物になってもらう」
「見世物やて」
「ああ。魔物と戦って、負けて、凌辱される様を撮って流させてもらう」
淡々と事務的に告げる声。
その無感情さが、かえって残酷だった。怒りをぶつける余地さえ与えない、徹底した無関心。真琴たちは最初から、人間として認識されていない。
「な、なにを……いうてんのや……」
真琴の声は掠れた。隣で結衣が小さく悲鳴を漏らし、肩を震わせる。
荒蒔は、楽しげに肩をすくめた。
「刺激が足りないんだよ。普通の、ただ人間に凌辱されるだけじゃあ満足できない顧客が多いんだ。人の欲に限りがないようにな」
その理屈の冷酷さに、真琴の胸の奥で何かが弾けた。
恐怖が、怒りに焼かれていく。
「ジブン……最低やっ! ウチらがただ言うことを聞くとは思わんことや!」
真琴は体内に残るわずかな魔力をかき集め、右拳へと集中させた。
脈打つ鼓動とともに熱が宿る。このまま終わるとしても、この男に一撃を叩き込まなければ気が済まない。
床を蹴った。爆発的な踏み込み。拳が一直線に荒蒔の顔面へと迫る。
――だが。
「――くっ、あああああぁぁっ!?」
首輪の宝石が、禍々しい紫光を放った。
雷に撃ち抜かれたような衝撃が全身を貫く。筋肉が意志を裏切り、神経が焼き切れそうな痛みに全身が悲鳴を上げる。
真琴の体は空中で硬直し、次の瞬間には力を失って崩れ落ちた。額が冷たい床に押し付けられる。土下座の姿勢。
「身体が……勝手に……動かへん……っ」
歯を食いしばる真琴を見下ろし、荒蒔は静かに言った。
「その首輪は絶対服従の魔道具だ。俺に逆らう意思を持った瞬間、罰を与える。お前たちは俺の所有物だ。許可なく指一本動かせない」
「そ、そんな……」
結衣の呟きが、地下室に吸い込まれる。
首輪。逆らう意思を持つだけで罰が与えられる。抵抗すること自体が、罰の引き金になる。
真琴は床に伏したまま、その理不尽な構造を理解した。体が動かない。いや、動こうとする意思そのものが、封じられている。
荒蒔は愉悦を隠そうともしない。
「安心しろ。すぐに壊してやるつもりはない。まずは定番のゴブリンやオークからだ。必死で抵抗しろ。その方が負けた時の様が視聴者に映える」
その言葉に、真琴の胃がひっくり返りそうになる。怒りも悔しさも、首輪の力の前では無力だった。
荒蒔が勝利を確信したかのように、低く笑った――その刹那。
ドォォォォォォォンッ!!
轟音。地面が跳ね上がるような衝撃。
地下室の茶色い岩盤が、内側から破裂した。破片が飛び散り、土煙が視界を覆い、世界が灰色に染まる。
「警察です!」
鋭い声が、煙を切り裂いた。
土煙の向こうに立っていたのは澪だった。左手に警察手帳。右手には警棒を構えている。
その姿は凛としている。だが何より異様なのは、その瞳だ。右目は灼熱の赤、左目は神々しい金。左右で異なる色を宿す魔眼が、強を射抜いていた。
「荒蒔強。監禁および傷害の容疑で逮捕します!」
一瞬、荒蒔の目が揺れる。だがすぐに鼻で笑った。
「警察か。国家の飼い犬が、この魔人である俺を捕らえるのか?」
「人間だろうと、魔人だろうと関係ありません」
澪は一歩も退かない。声は静かで、揺るがない。
「罪を犯せば裁かれる。それが法です」
「はっ! 法だと?」
荒蒔の体から、どす黒い魔力が噴き上がった。骨が軋み、スーツが裂け、次の瞬間そこにいたのは人の形をした別種だった。
体躯は倍近くに肥大し、顔の輪郭が歪み、牙が覗く。地下室を圧迫するほどの異形の巨体へと変貌していく。
「これが……魔人……なんか……?」
床に伏したまま、真琴が呟いた。
だが、その疑問を否定する声が、崩れた壁の向こうから響いた。
「違うよ」
退屈そうな表情で現れたのは、七罪だった。細身の体に似合わぬ冷ややかな気配をまとい、変貌した荒蒔を見上げる。
その目には、恐怖の欠片もない。ただ、観察するような静けさだけがある。
「それは、貸された力に溺れただけの、魔人を気取ったただの人間」
七罪の視線が、荒蒔の足元で土下座している彩へと向いた。
「魔人っていうのは――」
彼女の声が、氷の刃のように鋭くなる。
「そこで土下座して顔を見せず、この状況を愉しんでいる女のことをいう」
その一言で、地下室の空気が凍りついた。
この場にいる全員の視線が、ゆっくりと土下座している一色彩へと集まった。
※※※※※※※※※※※※※
「――こんな雑魚が魔人だと? 笑わせるな」
低く、地鳴りのような声。
荒蒔は床に這いつくばっていた彩の細い首を、まるでぬいぐるみを拾い上げるように無造作に掴み上げた。
「あ……が、ぁ……っ。……ぁ……」
彩の喉から、押し潰されたような声が漏れる。酸素を求めてパクパクと動く口元は、絶望に染まっているように見えた。
「その手を放しなさいっ!」
澪が叫び、警棒を振りかぶった。
魔力を纏わせた今の警棒は、鉄すらも砕く威力を持つ。それが荒蒔の右腕に叩きつけられる。
――ガギィィィン!
響いたのは、肉を打つ音ではなく、鉄塊同士が激突したような硬質な音だった。
「……嘘」
澪の目が見開かれる。荒蒔の腕は微動だにせず、傷一つついていない。
荒蒔は、羽虫を払うような視線を一瞬だけ澪に向けた。
「無駄だと言っている」
荒蒔の手首に、さらに凶悪な力が籠められる。
――ゴキリ。
嫌な音が、静まり返った地下空間に木霊した。
先ほどまでバタつかせていた彩の手足が、糸の切れた人形のように垂れた。苦悶の声すら、もう聞こえない。
「ふん。脆い。こんなのが魔人なもんかよ」
荒蒔は、もはや物言わぬ肉塊となった彩を、真琴たちの足元へとゴミのように放り捨てた。
地下室に、音が消えた。
彩の体は、不自然な角度で床に転がっている。首が、あってはならない方向に折れていた。
それを見た瞬間、真琴の頭が現実の処理を拒否した。助けを求めていた少女が、目の前で。たった今。
「お前たちもこうなりたくなかったら、俺の指示に忠実であることだ」
「……っ、ああああああぁぁぁあああ!」
澪の理性が弾け飛んだ。
守るべき少女を目の前で殺された怒りが、彼女を別の何かへと変える。
澪の全身から溢れ出した魔力が岩盤を震わせ、彼女は弾丸のごとき速さで荒蒔へと肉薄した。
警棒の連撃が荒蒔を打ち据える。一撃、二撃、三撃。鋼鉄のシャフトが空気を裂くたびに衝撃波が散り、周囲の壁に無数の亀裂が刻まれていく。だが荒蒔はその巨体を微動だにさせず、澪の連撃を岩盤のように受け流し続けた。
それでも澪は止まらなかった。止まれなかった。
怒りが、判断を焼き尽くしていた。
その狂乱の戦いから少し離れた場所で、七罪は冷徹な観察を続けていた。
腕を組み、戦闘を眺める目には、感情の揺らぎが一切ない。やがて小さく鼻を鳴らす。
「……まるで一昔前のバトル漫画。迅に勧められて読んだやつみたい。あれも、面白さが分からなかったけど。実際に見ても分からないなぁ。まあ、それはともかく」
七罪は歩き出した。澪と荒蒔の戦いを横目に、死体となった彩の近くまでゆっくりと近づき、冷ややかな目で見下ろす。
首が不自然な方向に折れ、完全に事切れているはずの少女。
「……ねえ、いつまで死んだふりして遊んでるわけ?」
その言葉が落ちた瞬間。
ドクン――死体の指先が、脈打った。
折れていたはずの首が、まるで巻き戻されるビデオテープのように、スローモーションで元の位置へと戻っていく。不自然な角度が、音もなく修正されていく。その光景を、真琴は目を剥いて見つめた。
ゆっくりと起き上がった彩は、何事もなかったかのようにスカートの土を払った。
そして、小馬鹿にしたような笑みを浮かべて七罪を振り返る。
「あはは! やっぱり同族相手だと、こんなベタな死んだふりじゃ騙せなかったかなぁ? ざんねーん!」
先ほどまでの儚げな少女の面影は、微塵もない。
そこにいたのは、獲物を嘲り笑うような、底意地の悪い笑みを浮かべた、少女の形をした怪物だった。
「魔人が、首の骨を折られた程度で死ぬわけないじゃん。人間とは違うんだから」
あまりの異様さに、荒蒔と澪の戦闘は中断していた。
七罪は、その一連の動作を無言で見ていた。感情のない目で。まるで、予測通りの結果を確認するかのように。
彩は荒蒔の傍に近づき、首元に手を当てると、先ほど荒巻が自分にしたと同じように首の骨を折った。
鈍い音が響き、荒蒔の首はあり得ない方向に曲がっていた。
変異したままの巨体が、そのまま地面へ崩れ落ちた。
「はい! 首を折られて死にました。イキってただけの人間で確定だね」
彩はケタケタと、喉の奥で転がすような笑い声を上げた。
その瞳は、呆然と立ち尽くす澪を、まるで泥遊びをする幼児でも見るかのような冷徹な優越感に満ちている。
真琴は、その光景を床に伏したまま見ていた。
あの子が。あの、怖がっていた子が。ずっと一緒にいてくれると言った子が。
風花お姉ちゃんが「動かなくなった」と、まるで天気の話をするように語っていたあの子が。
少女は、歪な可愛らしさを湛えたまま、暗闇の中で邪悪に微笑んだ。
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