10話 後方支援
大阪府警の廊下は、普段とは明らかに異なる空気を帯びていた。
足早に行き交う制服姿の警官たち。廊下の端で小声で打ち合わせをする幹部らしき面々。誰もが険しい顔をし、焦燥を隠そうともしていない。
蓮見迅は、その喧騒の中を歩きながら「覚」を閉じていた。
この場で無防備に他人の思考に触れれば、混乱と打算が濁流のように流れ込んでくる。それは迅にとって、肉体的な苦痛に近い。
会議室の扉を開けると、臥龍岡孔明が窓際に立ち、大阪市内を見下ろしていた。
周囲の喧騒とは切り離された、静かな佇まい。だがその目だけは、窓の外の何かを鋭く射抜いている。
「戻りました」
迅が声をかけると、孔明は振り返り、柔らかく頷いた。
「お疲れさま。逢魔警部たちはあいりん地区の封印ダンジョンに転移したよ」
「途中ラプラスから聞きました。ダンジョン内となると俺にできることはないので、道頓堀へ行かず帰ってきました」
迅は会議室を見回した。
ホワイトボードには《封印ダンジョン不法占拠》《魔人関与の可能性》と走り書きされていた。
複数の地図が壁に貼られ、赤いマーカーで大阪市内の数箇所に印が付けられている。
「これは大変そうですね」
「魔人のことはともかく」
孔明がゆったりと言った。
「大阪府が売却したという事実は、すぐにマスコミに流れるだろうねえ」
「……「流す」の間違いでしょう」
迅は訝しげに言った。
「そちらを大きく報じさせて、魔人の情報を隠す腹積もりだ。「大阪府の失策」という煙幕を張って、その裏で魔人の存在を都市伝説の域に留める。政治的に見れば合理的な判断ですが」
孔明は答えなかった。口の端をわずかに動かしただけだ。笑っているのか、苦笑しているのか、判然としない。
「さあ。所詮は私たちは外様……ヘルプでしかないからね」
「……狸親父め」
「聞こえているよ、迅くん」
「聞こえるように言いました」
そのとき、迅のスマートフォンが震えた。画面にラプラスの顔が映る。
『二人に追いついた☆ 今は半グレの案内で荒蒔のところへ向かってる。……ただ、その前に一つ報告したいことがあるんだけど』
「なんだい」
『ダークウェブを漁ってたら、行方不明の少女たちと思われる動画を見つけちゃった。内容は……人間ではなく魔物に犯されている動画が数十本。収益は数億に達してると試算されるよ』
その報告に、会議室の空気が、凍りついたように沈んだ。
迅は奥歯を噛み締めた。職業柄、理不尽な悪意には何度も直面してきた。だが、それでも慣れることはない。いや、慣れてはいけない。慣れた瞬間に、自分の中の何かが壊れる気がした。
沈黙が落ちた。
迅は何も言わなかった。この種の沈黙には、言葉を当てはめない方がいいと知っていた。
『内容、ボクはこれ以上視たくないな。……シチミンに転送しておいたよ☆』
「……あいつなら、眉一つ動かさずに視て、ありのままを報告するだろう」
迅は努めて平坦な声で言った。
「適任だよ。皮肉なことにな」
「――被害者たちのケアを考えるなら」
孔明が静かに言葉を継いだ。その声音には、普段の穏やかさの奥に、抑え込んだ怒りが滲んでいた。
「男の私たちよりは、女性である彼女たちの方がいいだろうね」
再び、短い沈黙。
孔明の視線が、窓の外に向いた。
大阪の夕暮れが、街を橙色に染めている。その光景は穏やかで、日常的で、この会議室で交わされている会話とは、あまりにもかけ離れていた。
『ミオミオが撮った半グレの顔認証も終わったよ。山本修吾と秋田金地。詐欺と暴行の逮捕歴あり。荒蒔強のグループだね☆』
画面に、二人の男の顔写真と経歴が並ぶ。詐欺、暴行、窃盗の補助。いずれも実刑には至らず、不起訴か執行猶予で終わっている。
「荒蒔強……どんな男か分かる?」
孔明が静かに問うた。
『ミナミを中心に未成年の売春と動画販売で稼ぐ半グレのリーダー。警察は何回か逮捕しようとしたようだけど、証拠が固まる前に隠滅されて、ことごとく断念してる。警察の動きを事前に掴める情報源があるか、あるいは魔人と直接繋がっているか……。とにかく用心深い男だよ☆』
「あるいは両方、か」
孔明が呟いた。
証拠が出る前に消える。それは内部情報を持っている可能性を示唆する。だが今この場でそれを掘り下げても意味がない。
迅はその考えを、ひとまず頭の隅に追いやった。
そのとき、廊下のざわめきが一段と大きくなった。
迅は「覚」をわずかに開いた。外の思考が、薄く流れ込んでくる。焦燥。興奮。命令を受けた時の緊張感。そして——行動への強い衝動。
「……機動隊をあいりん地区に向かわせるようです。制圧に動きますね」
「封印ダンジョンを不法占拠されていたんだ。府警としても実績が必要なんだろう」
孔明は淡々と言った。
「私たちだけに任せた形にはしたくないのさ」
「俺たちはどうします」
「ラプラスが送ってくる情報を精査するだけさ。そもそも私たちが向かったところで、戦力の足しにもならないしね」
その声音に自嘲はなかった。
孔明には直接的な戦闘能力がない。迅もダンジョン内での戦闘は専門外だ。封印ダンジョンという閉鎖空間に飛び込んでも、足手まといになるだけだ。
「七罪はどうします。相手は魔人の可能性が高い。七罪と魔人が戦うことになれば……」
「逢魔警部のことは、鈴仙巡査に任せよう」
「……あの新人に七罪を止められるとは思えませんよ」
迅は、しばらく孔明の横顔を見つめた。
澪は「七罪の暴走ストッパー」として配属された。だが今の孔明の言葉には、それ以上の、もっと深い確信が込められている気がした。
この男は何を知っているのか。何を見越しているのか。
迅はそれ以上追及することをやめた。
孔明に「狸親父」と言ったのは、まぐれではない。この男は、常に何かを知っており、常に何かを考えており、常に必要なことだけを語る。
それは信頼できる上司の資質であると同時に、一緒にいると時折無性に腹立たしくなる特質でもあった。
「……ラプラス。七罪の動向を随時報告しろ」
『了解☆ シチミンが暴れすぎたら電子的に嫌がらせするから安心して☆』
「それは止め方とは言わない」
『効果はあるよ☆』
迅は額に手を当て、浅く息を吐いた。
窓の外では、機動隊が装甲車に乗り込み、サイレンを鳴らさぬまま府警の敷地を出ていく。
重い車体がゆっくりと動き出し、やがて視界の端へと消えていった。
『あ☆』
不意にラプラスの声色が変わった。
「どうした」
『シチミンがダークウェブにある動画をミオミオに見せた☆』
迅の眉間に皺が寄る。
「なんで今見せるんだ……あいつは」
『そしたら、ミオミオ、すっごく怒って単騎で荒蒔の元へ向かっちゃった☆』
数秒、言葉が出なかった。
澪は真面目だ。
正義を信じている。
だからこそ、あの類の動画は、理屈より先に怒りを燃やす。
単独行動。それは、七罪以上に危うい。
しかも魔人が関わっている。
迅は自分のスマートフォンを取り出し、七罪に電話をかけた。
『もし』
「お前っ、何をしているんだ。新人の性格からしたら、どうなるかぐらい分かるだろ!」
七罪の声を遮るように、迅は怒鳴った。
『人間ってさ。失敗を積み重ねて成長していくんでしょう。ま、安心して。失敗しても尻拭いぐらいはやってあげるから』
緊急時だというのに、七罪は楽しそうな声色で答えて、通話を切った。
迅は舌打ちをした。スマートフォンを放り投げたい衝動を、かろうじて堪える。
孔明が静かに口を開いた。
「蓮見巡査長。落ち着こう。もう賽は投げられている。あとは出る目が少しでも良い目になるよう待つしかないよ」
穏やかな声音。だが、その奥には冷静な判断がある。
孔明の言葉が終わると同時に、迅のスマートフォンの画面が微かに揺れた
ラプラスが送ってくる映像データ。封印ダンジョン内部の簡易マップ。
ただし、これは封印以前のものだ。再生成が行われていれば、今は全く別の構造になっている可能性が高い。
「ラプラス。映像を全てこちらに回せ。最優先だ」
『了☆』
次の瞬間、画面に映る地下通路の映像が、わずかに揺れた。
壁には大きな穴が空き、その先には大柄の男――荒蒔強。
そして白い布だけを身に着けた真琴と結衣。その傍らで、少女が怯えた表情を作っている。
四者四様の姿が、映し出された。
読んでいただきありがとうございました!
少しでも「いいな」と思ったら、ブックマーク・評価・感想をいただけると嬉しいです。




