01話 壊れる日常
大阪・ミナミ。
この街では昼と夜の境目が曖昧だ。正午を過ぎても酔客の怒声が響き、深夜になっても観光客の嬌声が途切れない。
季節を問わず、人いきれと看板の光熱が路地を満たしている。
道頓堀川の水面には、対岸の派手な看板が歪んで映り込んでいた。グリコの看板。かに道楽の巨大な蟹。そして――百年前から変わらず、この街の片隅に口を開けたままの、異界への入口。
道頓堀橋のたもと、雑居ビルの地下にある更衣室で、木之下真琴は私服を脱いでいた。
壁際のロッカーには、大阪女学院の校章が入った制服バッグが掛けてある。中には今朝まで着ていたブレザーと、三限目まで受けた経済学の講義ノート。四限は休講だった。だから、こうして昼間からダンジョンに潜れる。
「結衣、マジで今日串カツ行こな。二度漬け禁止のあそこ」
「真琴、あんたそればっかり」
結衣が苦笑する。同じ大学で知り合い友人となった。同じようにダンジョンに興味を持ち、気づけば探索仲間になっていた。
真琴にとって、結衣は姉妹のような存在だった。
真琴は軽量化された革製プロテクターを身につけながら、頬を指でつついた。
「最近魔素不足で肌荒れやばいねん。サクッと狩って帰ろ?」
更衣室の料金は一回五百円。ロッカー使用料込みだ。
道頓堀ダンジョンは初心者向けとして知られ、大学生の小遣い稼ぎや、探索者を目指す高校生の訓練場として機能している。
もっとも、得られる魔石の価値も知れたものだが。
ダンジョンに潜ると、体内に魔素が取り込まれる。
どういう原理かは解明されていないが、効果は実証済みだ。身体能力が上がり、反射神経が研ぎ澄まされ、魔術の行使が可能になる。
アスリートが高地トレーニングで赤血球を増やすように、探索者はダンジョンで魔素を満たす。
だが恩恵は一時的なものだ。地上に戻れば魔素は霧散していく。
「あんた、三日も潜らんかったら一気に来るもんな」
「せやろ? ほんま、嫌な身体やで」
真琴の体質は魔素の抜けが早い。週に二度は潜らないと、明らかに調子が落ちる。
探索者としては致命的な欠点だが、逆に言えばそれだけダンジョンに依存している証拠でもあった。
着替えが終わった二人は、ロッカーを閉めて外に出た。
川沿いの遊歩道を歩く。観光客が自撮りをしている横を通り過ぎ、土産物屋の呼び込みを軽く受け流す。
目的地は、道頓堀橋の下。川面に近い場所に、ダンジョンの入口がある。
コンクリートで固められた壁面に、鋼鉄製の扉が埋め込まれていた。
扉の脇には小さな端末がある。
真琴がスマートフォンを翳すと、画面に「チェックイン完了」の文字が表示され、カチリとロックが解除される音がした。
扉を開ける。
内側は、石と闇だった。
一歩、足を踏み入れる。
湿った冷気が頬を撫でた。街の雑踏は薄い膜一枚を隔てて切り離され、音を吸い込むような静寂が耳を圧迫する。
百年前、人類の生活圏に食い込んできた異界の空気。それが、ここには満ちている。
通称・道頓堀ダンジョン。上層・中層合わせて七階層しかない、初心者向けのダンジョンだ。
「……やっぱ、何回来ても慣れへんな」
真琴が呟きながら、腰のホルダーから魔導杖を抜いた。キーホルダーがちゃらりと音を立てる。
「地下水混じりのこの臭い、服につくから嫌やねん」
「浅層って分かっててもな」
結衣がショートソードの柄を確認する。
「あ、そういえば聞いた? 経済学部の佐藤さん、ダンジョンでレア魔石拾って、最新スマホに買い替えたらしいで」
「マジで? ええなあ……うちらも今日、ワンチャン『銀の首飾り』とかドロップせえへんかな」
他愛もない会話。
それが、通路の奥から響いた硬質な音によって断ち切られた。
――ガサッ。
骨が擦れる、不快な音。
二人の表情が引き締まった。女子大生の顔が消え、探索者のそれへと切り替わる。
「……シッ、来た」
結衣が重心を落とし、ショートソードを抜く。
闇の中から現れたのは、腐敗したヘドロのスライム――ヘドイムと、全身が骨だけの犬――スカルドッグ。
このダンジョンでは、どの階層にも出現する魔物だ。
「真琴、右! 泥は私がやる!」
「了解。魔弾、いくで!」
杖から放たれた青白い火花が骨を砕き、結衣の剣がヘドロの核を正確に貫く。
戦闘は十秒とかからなかった。魔物は魔素の霧となり、虚空に溶けて消える。
あまりにあっけない、作業のような勝利。
「よし、回収……って、ちっさ。これじゃ串カツ一本分にもならんわ」
「欲張りすぎやって。ほら、次――」
結衣の言葉が、途中で止まった。
崩れた石柱の陰。
そこに、白い何かが見える。
結衣の視線の先を、真琴も追った。
石柱の影。崩れた瓦礫の向こう。
「……人、やんな?」
声が、自分のものとは思えないほど震えていた。
魔物なら、こんな風に怖くはない。
スライムだろうが骨犬だろうが、倒せばいい。だが、人間がダンジョンの奥に倒れているという状況は、まったく別の恐怖を伴う。
事故か。病気か。
それとも――
近づくにつれ、それが若い女性だと分かった。
全裸で、地面に横たわっている。肌には痣があり、乾いた血が付着していた。目は開いているが、焦点が合っていない。
結衣は息を呑んだ。真琴は後ずさった。
これは、魔物の仕業ではない。
人間が、人間に対してした何かだ。
「……生きてる? 大丈夫!?」
結衣は膝をつき、女性の肩を抱き起こした。
ぐにゃりと力の抜けた体。だが、指先には体温が伝わってくる。確かな脈動。
瞬きはない。瞳は虚空を見つめたまま、何も映していなかった。
「聞こえる? 私、探索者や! 今すぐ助けるから!」
叫んでも反応は返らない。
唇がかすかに震え、音にならない喘ぎが漏れるだけだった。
「結衣、上着! 早く!」
「あ、うん……待って、今……」
先ほどまで串カツの話をしていた真琴の手は、今やガタガタと震え、リュックのチャックすらまともに開けられない。
「……何これ。魔物ちゃう。これ……人間が、やったん……?」
女性の虚ろな瞳には、この世のものとは思えない何かが焼き付いているようだった。
真琴は必死に彼女を抱き寄せた。その温もりが、かえって恐ろしい。
この、光と熱気に満ちた街の地下で。
何かが、決定的に壊されている。
「……通報して。早く、通報……!」
真琴の声は悲鳴に近く、ダンジョンの冷たい壁に虚しく反響した。
出口へ向かう途中、再び道頓堀の喧騒が視界に戻り始めた時、真琴はふと呟いた。
「……戻ってきた、はずやのに」
光あふれる現実へ戻ったはずなのに。
心のどこかが、まだあの冷たい闇の底に取り残されている。
その感覚は、どうしても拭い去れなかった。
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