サキュバスさんと世界間摩擦
無音。
というか、耳が音を受け入れていない、が正確だろうか? トンネルをくぐった時のようなキンキンする感覚がしばらくつづいたあと、耳が徐々に音を拾いはじめた。
一定間隔で響く電子音、空気が漏れる音、遠くから聞こえる、静かだが確実な人の営み。だが、そのどれもが静けさを補強する役割しかないことが明らかだ。そして、そこで僕は目をつぶっていることを思い出し、瞼を開いた。
『あ……?』
そこは一面が白い部屋。
一部の調度品だろうか、黒い輪郭が見え隠れする。ぼんやりした視界がはっきりと輪郭を認識し始めたあたりで、スッと引き戸が開く音を耳が拾う。
「……」
『……』
「…………せ、先生! 折原先生! 一識さんが目を覚ましました! はい、間違いありません!」
回っていない頭で必死に考える。
考えて考えて、そこが病院であることに遅まきながら気付いた。その時はもう、耳元のナースコールを押した看護師が部屋から出て行くところで。体の節々の痛みが遅れて襲ってきたが、どうやら体になにかの欠損やら、大怪我やらの跡はないことが救いだろうか。
いや、問題はそこじゃない。
僕の最後の記憶は、ティーゼ姫にとんでもなく恥ずかしいことを伝えて、その頭を撫でた時に、彼女の手が僕に伸びたところ――だった気が――。
『あれ』
もしかしなくても口のこれは酸素マスクか?
今の反応からして僕は意識不明だった?
つまりこれは、さっきまでのあれは。
――すべて夢オチってやつなのか?!
「一識さんっ!」
『…………』
そこまで考えたところで現れた白衣の男性に、取り敢えず外してくれ、と僕は酸素マスクを指差す。こっぱずかしさとか色々なものが湧き上がったあたりで、やっと能動的に病室の空気を吸い込んだ僕は、頭部に貼り付けられた大量の電極に今更気付いた。彼はどうやら僕の担当医らしい。
「どれだけ眠ってたんです、僕は?」
「今さっき意識が回復したとは思えないくらい、受け応えがはっきりしてて驚いていますが……そうですね、まず時系列を整理しましょう」
はて。
時系列……とは?
というか、こころなしかカーテン越しですら日差しがだいぶ強いな?
「現在は2027年の8月24日。一識さんの失踪から三週間後、16日にこちらに搬入されてからずっとあなたは意識不明だったことになります」
「つまり、まる一ヶ月ほど僕はこっち側にいなかったってワケですか」
「こっち側……? どうやらまだ、意識がはっきりしていないご様子ですが……」
「いえ、いいです。続けてください」
大丈夫、思い出してきた。
確か僕は、高一の夏休みが始まった直後に……別に猫を助けてトラックの前に飛び出したり変な転び方をしたり川で溺れている猫目掛けて橋桁から飛び込んだり、そういうことを一切してないのに姿を消していたワケだ。それから……それから?
「発見時は、失踪時の学生服姿ではなく、しかし学生服はあなたの横に丁寧に畳まれて置いてありました。栄養失調や筋萎縮なども見られず……ただ、だいぶ消耗していたように感じられました。意識がないあいだも、脳波と心拍は安定せず……まるで寝ている間に全力疾走を繰り返しているような、そんな印象を受けました。正直ヒヤヒヤものでしたよ。体を動かしていないのに不整脈かなにかで死んでしまうんじゃないかってね」
「それはまた、ご迷惑を……」
「まあそれはいいんです」
いいんだ、それで。
「あなたが見つかってから一週間。むしろそっちの方が大変でして。外、ご覧になります?」
「外……?」
そこで僕は、体の電極を無視してカーテンに腕を伸ばした。うん、動くな。
そして露わになった外の景色を見て、唖然とする。
「……、…………!」
「まあ驚きますよね。私どもも正直言って信じられません」
そこには、宙を飛び交う人影があった。
それらは全て女性で、明らかに布面積の少ない着衣で……その他特徴が人間離れしていた。
それらはあきらかにサキュバスであった。
「あ、ミッチーいた」
「探したぞミッチー。いきなり姫様の前からいなくなって」
「アニ、レニ……?!」
『お知り合いですか?』と窓の外を指差してゴミを見るような目で見てきた医師に、『まあはい』、と気まずい表情で僕は応じる。そこからは早かった。何が早かったって一時間も経たないうちに、病室の扉――静音スライドドアをたたき壊す勢いで引き開けたその姿が、似合わないビジネススーツを着たティーゼ姫だったからだ。なんか横にめちゃくちゃ厳つい黒服がいますけどどなたで? あとその脇で凄くカジュアルな服をお召しの老婆はもしかしてホレ婆で?
「探したわよイッシキ! こっちの世界ってばバカみたいに広い上に言葉も統一されてないし、アホみたいに溢れかえったニンゲンのせいで場所も分からないし、ニッポン? の政府はアンタの居場所教えてくれないじゃない、プライバシーとかなんとかで!」
「はあ……そりゃそうでしょうよ、いきなり失踪してた人間を探してよく分からない異星人だかUMAみたいなのが現れたらそうなりますって」
「なによUMAって」
「未確認生物ですよ。皆さん、こっちじゃ好事家の本にしか出てこないような存在ですからね?」
「生意気になったわねアンタ」
「それは失敬」
はぁ……と深々とため息をつく姫の姿、その輪郭からは黒い霧のようなものは見えていない。
そしてサキュバス達が大挙して押し寄せ、どころかこちらの世界で隠れることもせず空に浮いたり、こちらの流儀にのっとって服を着ている者もいる。
「イッシキ様、ご説明を差し上げても?」
「お願いします、ホレ婆。こっちとあっちでは時間の流れがだいぶ違うらしいので」
横の黒服の方々を敢えて無視して、僕はホレ婆から話を聞くことにした。だってそこの黒服の懐、明らかに変な盛り上がりあるんだもん。銃刀法はどうしたのよ。
――で、ホレ婆の説明によると。
僕がティーゼ姫に対して感情を自覚したあたりで、姫からは僕の精力が目に見えて膨れ上がって見えた、とのこと。流れ込んできた魔力と精力に応えるように僕を撫でたら、その時色々あって、姫様の中からしていた声(《暴食妃》ではないか)がみるみる薄れていったとか……その時には僕は消えていたらしい。何故か。
その怪現象に泡を食った姫は周辺一帯を探したが見つからず、しかしサキュバス界の魔力枯渇は完全に解消され、どころか500年前(サキュバス時間)以前の、異世界へ渡る魔術が行使できる水準になっており。
さらに言えば、こちらの世界を選んで渡れるのは姫様と僕の間に強力な絆が生まれていたから……なんだそうだ。
だからって大挙して押し寄せて僕を探さなくてもいいじゃないかと思うが。それも最初に渡ってきたのがアメリカだったってそれもどうなのか。
「一識さん、そういうわけであなたの立場は今かなりセンシティブなものとなっています」
「ティーゼ・ヴルム姫殿下とその付き人であるホレ様より、あなたの身柄の確保と重点的な保護、そして定期的な《異界》への訪問を条件として、我が国との条件付き交易を求める書簡を頂いております」
黒服の人はやはり政府関係者。
サングラスでよくわからなかったが、相当な疲弊を押し隠しているのが分かった。
なんか、ほんとうにウチの姫様がすいません……。
「そういうワケだから。行くわよイッシキ……じゃなかったわね、アンタなんて満世でいいわ」
「行くって何処ですか。僕の家っていうか、施設なんですけど」
やたらと先を急ぐ姫の手を止め、僕は首を捻った。保護施設以外に行く場所はないはずなんだけど。助けを求めて政府の人を見たが、諦めムードのように返される。
「それが、もう手続きは済んでおりまして……」
「そちらの方に、一識様の荷物などは運んでありますので」
「そちらってどちらで?」
「私の、っていうかアンタと私のこっちの家に決まってるじゃない。アンタが学校? 出るまでは待ってあげるわよ」
「何を?」
なんだか凄い話が進んでいるような気がするけど大丈夫? 本当にこれ大丈夫?
「アンタの精力を最後までもらう権利」
そう、笑顔で言って鼻先を押してきた彼女を見て、僕は――反応してしまっていた。なくしたはずの感覚で。
というわけで、晴れて完結となります。
ここまで短い間でしたが、ありがとうございました。




