七話 救済のヴルム
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サキュバス達に《愛撫》を授け(というと大袈裟で、単に撫でているだけだ)し、ティーゼ姫を適宜撫でることで満たし、料理をして1日を終える。ある種の食客のような扱いとなってから……一ヶ月は経つだろうか? 時間経過が曖昧だが、おおむねサキュバス界への転移から三ヶ月は経っていそうだ。
ホレ婆様含む他のサキュバスたちは、姫が毎日のように『補給』されることには一切口を挟むつもりはなさそうだった。周りが見る間に元気になっていくのと比較すれば、前と同じくらい、もしくはそれ以上に疲弊があらわな姫の姿に何か文句を付ける者はおるまい。
《愛撫》の覚醒に合わせて現れた、サキュバス達の魔力や体調を感知できる能力でも、明らかに姫が他のサキュバスより消耗が激しいことがわかる。
ホレ婆様は、姫が『ヴルム』の血筋としてニンゲン(『人間』とは似て非なる意味らしい)を召喚し、子を成したら全ての魔力を捧げて力尽きる、という生き様を続けてきたせいではないか、それが血筋に刷り込まれ、反動として《暴食妃》の魂が漂う世界からより多く奪われるのではないか…‥そう言っていた。
「半分当たってて、半分間違い。ってところなのかな……」
僕の普段着は、ずっと着込んでいた学ランからすっかり肌に馴染んだ(馴染んでしまった)サキュバス製の洋服に。仮の居室としてあてがわれた部屋のベッドは、その枕に至るまでがすっかり頭の形を覚えてしまっていた。
下手したらすぐにでも寝てしまいそうだ。
そのくらい、ここしばらくの疲れは激しいものだった。ただスキルをノーリスクで使い、軽作業とも言えない労働を経て泥のように眠るだけ。その時ですら、頭の隅でティーゼ姫の無事を心配しながらだ。これが、16歳の1日として健全なわけがない。
理由は明白だ。
僕の中に宿っている魔力というものが尽きつつある。姫様の言葉通りなら、この世界において魔力と精力、そのいずれもが尽きた者は死を迎えるのだという。そして、なぜか僕は《愛撫》をサキュバスたちから受けても効果がない。
だからこそ、死のカウントダウンが迫っている。
召喚直後の話通りなら、僕の精力は限りなく希薄らしい。生き延びてきたのは、多少なり備わっていた魔力と、食事で繋いでいたわずかな余裕くらい。世界に少しずつ魔力が戻っているからこそこ、消耗の鈍化。魂の表面をなぞるような不快感も無視していたが、それも限界に来ている……の、か……。
(だから夢を見るのか)
現状を何とかせねば、と考えていたら、いつの間にか意識が途絶えていたらしい。
《《布団の上で》》目が覚めた僕は、伸ばした手がざらりとした植物の感触に触れたことで、今いるここが和室だと理解した。
体を起こした視界が低い。
常夜灯すらなく真っ暗になった部屋の隅で、わずかに開いた襖から光が漏れている。
(だめだ)
引き寄せられた視線を無意識に切ろうとして、その瞬間、僕の意識が体から離れた、と直感した。
これは僕の記憶だ。
すっかり今の僕からは抜け落ちてしまっていた、施設に入り、必死の思いで高校進学を勝ち取ろうとしたその前の。空っぽになる前の記憶だ。
(その襖を開いちゃいけない)
それは明らかだった。
何が起きたのか忘れているが、ダメなものはダメだ。幼い自分の手を掴もうとしてすり抜けて、「おかあさん」と呟いたその目に浮かんだ表情。今ではすっかり感じなくなったその感情の名前をはっきり知っている。
寂しい、と。
襖の向こうから漏れ聞こえるものの正体をとっくにわかっていた僕は、その後に起きた出来事が早回しのように背景を流れていったことも忘れ、頭を抱えてうずくまる。
父の僕を見る目は、憐れみを感じさせつつも、得体の知れない化け物を見るそれになった。
母は目すら合わせず、だが手に持った棒だけはしっかりと僕を狙って振り下ろされた。
よくわからない顔をした男は、裸のまま僕を足蹴にした。こんなのが俺の──なはずがないと言われたが、よくわからなかった。
それまで、贔屓目に見ても「愛情たっぷり与えられて育った」とは言えなかった僕は、彼らが破綻するまでのわずか数週間のうちにめちゃくちゃにされ、引き剥がされ、誰かと横のつながりを持つという行為を全否定された。
何年前かも覚えていないが。
小学校も出ていないような子供が受けていい仕打ちではない。憐れみを向けられこそすれ、両親いずれの実家の祖父母も、その破綻から自らを遠ざけ、ぼろぼろになった僕の心を見殺しにした。
恨んではいない。
恨むとはどうするのか、わからないからだ。
怒ることもなかった。
幼い身代で「寂しい」と嘆いても、泣き喚くことすら忘れた子供が怒りなど発散できるわけもない。ぶつける先がないのだから。
果たして、一識 満世という人間の身には誰かを憐れむという機能こそあれど、「愛情」という情動を理解する機能がすっぽりと抜け落ちた欠陥が生まれるに至る。
(……だからか)
そして気づく。
『だから僕は、ここに呼び寄せられたんですね。《暴食妃》様』
◆
愛されたいという欲求がありつつも、その意味を知らぬまま本能に突き動かされて欲を貪り、心が枯れたまま魔力を求めるだけのシステムとなってしまった、寄生虫のような魂と。
欲求そのものを喪い、与えられなかった代償行為を憐れみという形で消費し続け。小さい命を救えなかった傲慢を、生きる指針としつつあった未成熟の魂。
この二つが引き合い、斯様なスキルを発現したのは、この世界の必然だったのだ。
求められ、与えた満世の能力は、そもそもサキュバス界の救済のためでもなく、《暴食妃》とその宿主たるティーゼの救済への巡礼でもなかった。
全ては彼の欠落を埋める為の行為。
元の世界から切り離されつつあったその魂の絆は、いま静かに脈動を始めた。
◯
確かに僕は、今この時は命が惜しくない。ティーゼ姫が助かるなら、それでいいと思ってる。
でも、それは哀れみではない。
《愛撫》は、憐れみによって扱う力ではなかった。《暴食妃》様の魂を強く感じ取り、不安を露わにした姫の体を抱きしめる。
満たすのは魔力ではなく、精力でもなく、単純な言葉と感情。そうすまいと押さえつけてきたそれが、『憐れみ』と言い換えてきたものの正体。
「ティーゼ姫、受け取ってくれますか」
「何を、よ。魔力ならもう散々貰っちゃってるじゃない。今更……」
「僕の精力を」
愛とは言うまい。
今から僕が死ぬまでのいっときに、彼女が僕を顧みてくれるならそれでいい。
僕を憐憫してくれるなら。それでいい。
僕は自分の中から溢れてきた愛情を、ティーゼ姫の髪を梳きながら与えていく。少しずつ自分が欠けていくような錯覚を無視して、分け与える。崩れていく自我を無視して、自分を騙しながら。
◆
一識 満世には性欲というものが存在しない。正確には、心的外傷によって性欲という概念に重すぎる蓋をされた状態、といっていい。世に数多いる思春期の青少年達を見れば、その異常さたるや尋常でないことはあきらかだ。大抵の「その世代」が持ちうる精力の絶大さたるや言わずもがな。その蓋を外すには、性欲、それに連なる愛情が汚いものではない、と彼の心理を書き換える必要があった。誰でもない、彼の手によって。
(今までは、無償の愛ってやつだったんだろうな)
満世は静かに述懐した。
与えるだけの、リソースを要さない無償の愛。それが、スキル《愛撫》の正体である。
心底、情欲に浴さない満世だから発現し得た、サキュバス界においておおよそ生まれそうにないその概念は、確かにサキュバス界の救済を推し進める原動力となった。だが、それでは救済の半分だ。
《暴食妃》は、与えられるだけ、奪うだけの自らの特性に飽いていた。奪って奪って奪い尽くして、言うに事欠いて飽いていたのだ。彼女という魂に引き込まれた、愛というには爛れすぎた精力と魔力の混合物は、しかし《愛撫》による無償の愛でバランスを崩しつつある。ティーゼ・ヴルムという当代の姫巫女をして『馬鹿げている』と唾棄する満世のそれで、箍が外れつつあったのだ。
(だから僕は、今まで貰えなかった愛が欲しいんだ。母でも妻でもなく女だった母さんや、誰の種かも分からない僕を畏れた父さんや、父かもわからないあの間男。誰もくれなかったものが欲しかった。なのにずっと蓋をしていた)
(だから死んだ猫を抱え上げて泣いたんだろう。保護児童が一丁前に獣医なぞという大望を抱いたんだろう)
愛されたかった、という本意を認識できぬまま、与えることを覚えてしまった彼のそれが歪んだ無償の愛となったのは必然だった。
その情愛を理解した今、満世に芽生えたのは情愛であり。
彼の「与える」だけの不確かな愛の形は、「求める」ことを思い出すことで再構築されつつある。
そのスキルの名は、《悦楽》。
無償にして性を抑した性愛の天使が人の子の間に成した子の名前である。
その効果は、今まさに賦活した満世の精力を注ぎ込むことで収支を無視した魔力に変換し、相手に与える能力。相手に与える魔力は、快楽として変換され、常識外の充足に浴することを可能とする。
(――でも、コイツの本質はそんなんじゃない。寂しいのはアンタも一緒でしょ、イッシキ)
抱きしめられ撫でられ、流れ込む魔力に気をやりそうになりながら、しかしティーゼは薄れつつある『もう一つの魂』とともに彼を、否、彼の魂を見た。彼にもまた、闇を纏う穴があったのだ。
それを塞がなければ、恐らくはより大きな欠落をこの世界に与えるだろうと理解する。
(愛してほしい? 馬鹿ね。私たちサキュバスは求める種族、求めずにはいられない歪み。でも与えないワケないじゃない。与える前に死んじゃうのよ、普通はね)
死ありて性愛が輝く。彼女等の性質は、その二律背反を何者よりも明確に魂に刻んだ種族であった。
輝きを得る瞬間に死んでいった人間たちは見ることがなかった、その愛の形を。
およそ欲求を前面に、魂に刻まれた知性体では到達し得なかった――そして無欲なだけでは与えたいという欲求もなく、辿り着けなかった――彼女等の返礼。
与えることを由とする。
サキュバスという種族の頂点にある者がそれを行う。
その意味は、精力を失い指の動きが鈍っていた満世の体に激烈な成果として表れた。
体から失せつつあった光がより輝きを増し、尽きかけた精力が賦活する。
受けた愛を自ら精力に転換し、より大きな力として注ぎ込む。さながら感情のみで生み出される永久機関。
「馬鹿ね、アンタ」
「姫様ほどじゃないですよ」
「言うじゃない」
闇が祓われ、欲し続けたもの、その到達点を見た《暴食妃》の魂は静かに絶頂を迎えた。それは彼女が奪ってきたもの、喰らってきたものを放出することを意味する。
ティーゼの体から放出された莫大な魔力、その閃光は居室を白く塗りつぶし、あたり一帯に世界の変質を告げる喇叭となった。
――そしてその光が消えた頃、一識 満世はその世界から姿を消していた。
彼の姿は何処にもなく、しかしティーゼと彼の間には確かな縁が生まれている。
「追いかけてこいって言いたいの? 生意気ね」
「……姫様?」
何事かと駆け込んできたホレに、ティーゼは心のつかえがとれたように笑って見せた。
「今度は私たちがあの男に『お呼ばれ』してやるのよ。あいつったら――」
〇ったんだから。




