憐れみで賭す命(2)
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一識 満世。
ティーゼ姫様が召喚の儀を成功させ、喚び出した『救世主』。能力面はただのニンゲンにすぎないが、過去に召喚された英雄豪傑と遜色ない――否、彼らでも到底為し得なかった、滅びを待つサキュバス界の救済へ駒を進めるに足る逸材だ。表向きは感情をあまり表に見せない、どこか達観した様子の少年であるが、彼に発現した《愛撫》の能力を見た限り、その裡には他者を救うために己を顧みない、という歪みが眠っている。それは、スキルとしての詳細を見れば明らかだ。
《愛撫》
対象に対して強い慈愛や憐れみを抱いた状態で触れることで、対象に枯渇しているものを満たすことがてきる。
満たす対象は受け手側の任意であり、能力行使に伴う消耗を要さない。
なお、一度満たされた者もこのスキルを行使することができる。
初期発現者は、このスキルの影響を受けない。
ホレは、自らの千里眼によって彼の能力を観測し、そして彼に伝えた。最後の一文を除いてだが。
最後の一文、つまり彼は、自らより失われた魔力や、それが枯渇した後に奪われるであろう魂の密度(記憶、性格特性に関わる主要因の数々)を手ずから取り戻す手段を持たないということ。
つまり、彼がこの世界を救わずして滞在できる時間は限られている。
座して死を待つ以外で取れる選択肢は、世界を救って後顧の憂いを断つか、可能な限り魔力を世界に充満させることでよって死期を遅らせるか、はたまた、なんらかの手段で自らの世界とこちらを繋ぎ……自らの世界に《暴食妃》の魂を引き込んでしまうか。
最後の選択肢はおそらくあり得ない。彼は今までこの世界に訪れた異常個体とは違い、純然たる無魔法知性体である。使い方を分かっても、リソース管理のできない魔力をおいそれと振り回す愚物ではないことは証明済みだ。
2番目の選択肢はかなり現実的だ。この世界の在り方を知ったとしても、《暴食妃》の魂、という概念的なものに抗う手段は、この世界にはない。少なくとも、ホレをはじめとするサキュバス達は、彼女の魂が大気に溶け込み、世界の薄皮に貼り付くようにして魔力を奪い続けてる……そう認識していた。
ニンゲンの寿命は短い。
それに加えて、万人並の彼なら消耗も一際早かろう。いくら長引かせても、五年と生きられまい。
その間に《暴食妃》を鎮める手立てが見つかるはずがない。どこにいるのかもわからぬ魂に働きかけるなど、《愛撫》では不可能だ。
だが、ホレは確かに見ていた。
満世が《暴食妃》という単語を耳にした時、確かにその目にはなんらかの、戸惑いに似た光が宿っていたことを。
満世が《暴食妃》について知っているのは当然だろう。あの二人を傍に付けておいて、何も知らないはあり得ない。《暴食妃》の名前を聞いただけで反応するか? 否だ。彼にはすでに、その存在を感じ取る素養があるということ。
彼の《愛撫》は加速度的に伝播していくだろう。他人への慈愛を示すことで効果を発揮し、ノーリスクで魔力を生み出すそれは、例えるならば、開けぬ夜の寒さの中、小枝のみの焚き火を必死に守り続けた者たちの前に、夜明けと陽射しの暖かさを施すようなものだ。
寒さの中寄り添ってきた絆が、そのままお互いを照らし温める陽光となる。誰が拒絶できようものか。
人間界に於いてサキュバスの伝承は、概ね淫蕩に耽る婦女の姿をとる。それに誤りはない。
一部の創作になぞらえれば、純然たる愛を恥ずべきものと捉える姿を記したものもある。これは、彼女らが性欲でもって己を補う特性から転じて、無性の愛や肉欲に沿わないものと相容れないとみなした風潮から来る。
現状のサキュバス界は、自己と種族、そして世界の保全で砕いてきた己の心を顧みる余裕がなかった。平たく言えば、あらゆる刺激に、それも自らを癒す類のそれに飢えていたのだ。
そこに「正しい食事」という看板を掲げて心の余裕を作り、「当座の自己補完手段」として愛をのたまう者が現れれば覿面に効く。
サキュバスたちは純愛を忌避するのではない。
純愛をまっすぐ受け止める器が育っていないだけなのだ。
そしてそれは、最初にその力に相対し、そしてその身に満世のスキルを宿していないティーゼ姫が顕著だ。『満たされれば得られる』という《愛撫》が発現しない理由……魔力よりもなお満たすべきものがあるのでは、とホレは愚考する。
《暴食妃》がその姿を隠し、異世界との繋がりも絶たれ……順当に世界が狭まりつつあった時に現れた『ヴルム』の者。サキュバスたちが代々引き継ぎながら、その身に宿してきたオスの因子を消費して繁殖する特性を持つのに対し、『ヴルム』は世代一回きりの召喚によって精力に優れた傑物と番い、一子を産み落とすと己すべての魔力を世界に捧げて消えていく。
さながら自己犠牲の巡礼にも似たそれは、ティーゼ姫の代にいたり、何を求めているのだろうか?
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一識の腕に身を預けたあの日から、すでにかなりの日が流れた……ような、気がする。
あの日確かに感じた激烈な幸福感と圧倒的な魔力の流入は、私の中にある不安や心のわだかまり、彼に対する不信感などをすべて洗い流すに十分だった。
あのまま満たされてしまえば、流されてしまえば、自分もこの世界も万事解決になるとさえ思った。
『捧げなさい』
だが、それは許されない。
『あなたの手に入れたものを、あなたの身に注がれたものを、あなたに与えられたものを、手放しなさい、施しなさい。巡礼を、巡礼を、巡礼を……』
イッシキを召喚する前からかすかに届いていたその声。
召喚したその日にはっきりし始めたその声。
イッシキのスキルを受け、直後から体を抜け出ていく魔力と共に強まったその声……これは、毎日のように心配そうに現れては私の髪に指をかけ、優しく撫でていく彼の労わる声を掻き消すように響いている。毎日のように満たされようとする体の中から、魔力がずっと漏れていく。
まるで穴の空いた水筒のよう。
レニとアニ、そこからホレ婆やタルホ、そして多くのサキュバスたちが《愛撫》をうけ、そのスキルを身に宿し、互いを満たすようになった。世界からの干渉で魔力が流れ出るとはいえ、それもある程度は踏み倒せる程度に互いで補い合えると聞く。
魔力の少なさにより慢性的に不調だった家畜たちも、農場主の《愛撫》により劇的に体調も、もちろん味も改善した。互いを思いやり、愛を与え合う。サキュバスという種族にあるまじき、しかし望ましき姿。
その中にすらおいていかれる私がいる。
かつての母のように、そして過去の祖先たちのように、私は何かを成せるのか。それともこの声に苛まれ、何も残さず……『ヴルム』の名すらもこの世界から失ってしまうのか。
自分でも、今虚空を見つめる目が焦点を結んでいないのがわかる。ぼやけてブレて、ひどい視界だ。満たされる仲間たちにおいていかれる私。姫などと呼ばれて甘えを許されたのは、ただ一人のニンゲンを呼ぶため。そしてこの『声』に自らを捧げるため……
「ティーゼ姫」
その声に顔を向けた。
「なによイッシキ。酷い顔してるじゃない」
「姫様ほどじゃないてすよ」
その顔に、罪悪感を覚えた。
ああ。
あの日この男が口にした言葉の意味が、少しわかった。
「思い出したんですよ、僕。欲しかったんだなって。だから後悔してたんだって」
「誰かの代わりや誰かのトロフィーとしてじゃない、僕自身への無償の愛ってやつを」
そんなことを恥ずかしげもなく言い放ったイッシキの顔は、自分の大事なものを失った様な、泣き顔の手前のそれをしていた。
恐らく残り2話。
最後まで見守ってくださると幸いです。




