四話 Rub for luv
「すみません、仰っている意味がいまひとつ飲み込めないのですが……」
「なにもおかしな事はありませんよ、イッシキ様。姫を、抱いてほしいのです」
「話が全部おかしい方向に突っ切っていますが?」
ティーゼ姫を抱いてみては? とホレ婆さんからいきなり持ちかけられたのは僕だ。動揺で声が裏返っているのもまあ僕だ。普通に考えて、「抱け」って字義通りに「抱きしめる」ではないことは分かる。サキュバスが相手なんだぞ。そんな生ぬるい提案をするわけがない。これがおかしくないわけがあるか。僕は不能なんだぞ。
「なるほど、誤解を招いてしまいましたか。私はね、イッシキ様に姫様を慰めてほしかっただけなのですよ」
「な、慰めるって……」
「あなたから精力を奪う試みはすべて徒労に終わっています。僅かであれ、この世界に正の影響を与えているあなたを、いっときの欲求をたよりに奪ってしまえば、得たもの以上に失うのは間違いありません。それに、イッシキ様。あなたに芽生えかけている《技能》は性愛に関わるそれではありません。料理の才能? それも違います。あれはニンゲンであるあなたが、献立の本質を捉えて再現したに過ぎない。私はここ暫く、あなたを観察させてもらいました。あなたの能力、その本質は『情』にある」
……おや?
これは割とマジで、姫様を夜這いしたり『どうにか』するのを求められていないと?
そしてホレ婆様には他人の技能を見通す力があって、僕のそれはまだ目覚めきっていないと。それで所望されているのは、本当に姫様を抱きしめて慰めてほしい……それだけ?
「ところで、ティーゼ姫は僕なんかに慰められるのに同意なさっているので?」
「正直にお伝えしたところで拒否されるでしょうね。姫様には我々サキュバスを生き長らえさせるという義務が重荷としてのしかかっています。今でさえ、お食事を召されることに後ろめたさを覚えている手前、加えてイッシキ様からお慈悲を与ると言われれば、拒否なさるでしょう」
「えぇ……?」
「イッシキ様は、姫様があのままでよいと思われますか? ご無理を強いるつもりはございませんが、何もしなければ恐らくあなたも、遠からず……」
ホレ婆様の目には、「嫌なら無理強いはしない」という意思がありありと込められている。
嫌ならやめてもいい、逃げてもいい、姫様にも姫様なりの生き方を選ばせていい、それなりのあり方を認めさせていい、そう言っているように思えた。
――満世、あなたはどちらについていくつもりなの?
――お前の判断に任せる。私は最初から、お前の親ではないのだからな。
――嫌だ。僕はふたりともきらいだ。
――何をしてるの、おかあさん?
「あ゛、?」
激痛。
◆
一識 満世は保護児童である。
彼の■■は■■によって彼を成し、■■を経て■■。彼を■■した。
そのため五年前に■■してもおかしくない状態で保護され、義務教育を受けた後に学費を補助等で捻出し今に至る。彼が■■を目指した理由と性愛と情愛を喪失した理由はその過去に由来するが、前後する記憶は彼の脳にこびりついた『安全装置』によって深く封じられている。
「無理をするな」
「逃げてもいい」
そして「選ばずに終わらせてもいい」、それらの選択肢とそれを想起させるあらゆる語彙と選択権を彼に与える行為は、その『安全装置』に触れる行為に他ならない。
一識 満世は逃げられない。
一識 満世に無理を避ける選択肢は許されない。
一識 満世が選択を放棄させることは、畢竟、彼が再び自らのアイデンティティを喪失することとイコールである。
だから、サキュバス界において魂をすり減らした今の彼と、
サキュバスの未来を背負い潰れかけたティーゼ・ヴルムと、
彼が■■を志したきっかけとなった■の■■は、
その全てが似ていた。
○
「……イッシキ様?」
口元に酸っぱい匂いを覚え、おもわずそれを手の甲で拭う。足下に染みた『それ』を見て、ああ吐いたんだなあと笑ってしまった。
弱いなあ、僕は。
「ホレ婆様。姫様は今、お部屋に?」
「行ってくださるのですか?」
「ええ」
弱いから分かる。あの日道ばたに転がっていた■■■■に、彼女は似ていた。
違うのは、今なら救えるってことだ。そして彼女を救えば、僕もちょっとは『マシ』になるって気付いてしまった。
料理だとかレシピだとか、そんな小手先で救えないなら、義務に縛り付けられて誰も労ってあげない彼女に、差し伸べる手を伸ばそう。
「僕がよく知ってますからね、ああなった子は面倒だって」
「承知しました。ご調子が優れないなら、一度湯浴みをお勧めしますが」
「ありがとうございます。失礼します」
「それと、今の不敬発言は聞かなかったことにして差し上げます。……姫を、お頼み申し上げます」
●
「おなかへった……」
ごろんと横になった状態でベッドの天蓋を見つめ、私はぽつりと呟いた。月明かりが一筋差す以外、なにもない暗闇。かすかな輪郭だけを残した天蓋は、じっとりとこちらを見下ろす誰かの、糾弾するような視線を思わせた。
空腹は大した問題じゃない。この世界において、サキュバスなんて四六時中飢え渇いているのと変わりない。多少満たされたように感じても、世界と各個体の魔力密度に大きな『ズレ』が生まれた途端、すぐに周囲へと流出して一定に保とうとする。こと、この世界の魔力に関しては生物恒常性が機能しないのだ。それはニンゲンにも変わりなく、魔力を出力できないあいつらは自分が何を奪われているのかわからないまま消耗して死んでいく。数世代前に、そういう召喚者がいたと記録が残っているが、こちらが精力を搾り取ってポイした時よりもずっと少ない量で死んでしまった、らしい。
そうした意味では、母様が搾り取った男ときたらとんでもなかった。
欲に溺れていたのではなく、私たちの事情を汲んだ上で《《自分の全てを捧げるかのように》》愛をささやき、交わり、死んでいったというのだから。ホレ婆からは『精力絶倫』というスキルだと聞いていたが、きっと彼はそんな言葉では言い表せないなにかを秘めていたのだろう。
ノックの音がきっちり三度、響く。
「失礼します、姫。入ってもよろしいでしょうか」
「嫌よ。でも、だめっていっても入るんでしょう?」
「ええ、義務のようなものなので」
『のようなもの』って何よ、と体を上げて抗議しようとしたときには、声の主はすでに扉を後ろ手に閉めたあとだった。
相変わらず精気は見えないくらいにうっすらと感じられるが、今、私が見るべき本質はそこではない気がした。
「……どうしたのよアンタ、それ」
「なにか?」
「なにか、ってアンタには見えてないワケ? 私にはアンタが光ってるように見えるんだけど。ヒカリゴケでも食べたわけ?」
イッシキの全身が、ほのかに光ってみえる。本人は気付いていないが、確かな質感をともなって光があふれだしていた。
魔力でもなく、精力でもなく、だからこそ本人にも見えていないのかもしれない。レニとアニ、タルホから聞いた「光」の正体がこれだというなら、私が献立を城下に広めたことに意味はあったのか? と疑問に思ってしまう。
「僕には、あなたの全身がほんのり暗く見えていますよ。最初に会ったときからそうだ。義務感や強迫観念のたぐいでしょうけど、とても、感情が安定していない――ように見えています。不安だったんでしょう、僕みたいなのを引き込んでしまって。皆が弱っていくのを見ていくだけになる未来が見えた、とか……ま、分かるつもりですけどね、僕もそういうの」
「何が……何が分かるっていうのよ! ニンゲンの世界なんて平和に飽き飽きして同族の殺し合いに耽ってる異常種族じゃない! それも世界が滅びない程度の、ささやかな殺し合い! そんなとこから来たアンタが知ったふうに」
「似てるんですよ、姫は。道路の脇で轢かれて死んでた、捨て猫みたいだ」
わけのわからないことをのたまいながら、イッシキが近付いてくる。枕でも投げればよかったか、拒否でもすればよかったか、何か、なにか拒絶でもしてやればよかったか? 何も思いつかなかったから、
「嫌よ……私の惨めなとこなんて、見るなぁ……」
そんなことしか言えない私の頭に、この男の手が触れた。
「だからね、ティーゼ姫。僕はあなたを救えるなら救いたい。あの日の罪滅ぼしを、一生かかって続けなきゃいけないから、これは僕の代償行為なんですよ」
そんな馬鹿げた自分勝手で触れた。
◆
満世の指先が、ティーゼの栗色の髪を梳いていく。
闇に包まれた部位に光を送り込むような『撫でる』という行為が引き起こした反応は、劇的といってよいものだった。
満世本人はその現象を視認していない。そして彼自身の肉体にも、疲労などの感覚はない。
だが、ティーゼは違う。
自らの体に流れ込む光の奔流が、そのまま魔力となり活力となり、心に生まれた空白を幸福感で塗りつぶしていく。それはオスと交わったり、精力を奪ったことのない彼女ですらも知覚するほどの幸福感であった。知らず声が漏れた彼女の口もとを自らの胸板に抱え込み、しかし欲情の気配を僅かにも見せぬまま、満世は彼女の髪をゆっくりと撫でつけ、頭を抱きかかえた。
なんて細い肩なのだろう。こんな双肩に世界全ての命運を押しつけていたのか、この世界は。
なんて空っぽな体なのだろう。こちらの世界で最初に食事をしたとき、食器に触れ感じた、食材の虚無感に似ている。そんなとりとめのない感情を覚えつつ、満世は彼女に対して慈愛の情を流し込むように撫で、知らず泣き始めた彼女をあやすように体を揺すった。
慈愛を持って、触れ、撫でて、満たす。
身も蓋もなく言ってしまえば、《愛撫》。
それが、一識 満世がサキュバス界で開花し得たスキルであった。




