心身二元論
一般的に短命もしくは体の構造が極めて単純な生物には自我(心と言い換えてもよい)はなく、ある程長命もしくは複雑な構造をもつ生物には自我があると考えられている
→自我が無いと考えられる生物は、一生における行動原理が種の保存という生物としての本能でほぼ占められており、 一生においてどのような行動をするかという自由(選択)の機会がなく、自我があると考えられる生物にはそれがある。
→上記の内容を踏まえると基本的に自我というのは、自分がどのような行動をするかという選択を無数に行う過程において形成される。 詳しく説明すると、 長命化体の構造が複雑な生物は、 一生における行動の理由をすべて本能にゆだねることはできない。 よって親、 もしくは保護者、 同種の行動を模倣する。 それは、 どの場合においてどの行動(反応)をするかを模倣するということである。 しかし、 模倣対象全てが同じ行動をとるわけではない以上模倣を繰り返すうちに、 誰のどのパターンを模倣するのかという選択を迫られる。 そして、 これを繰り返すうちに、 ほぼすべての状況下において、 その選択を意識的もしくは無意識的に行えるようになり、それが何にどのような反応を示すかという自我の形成につながる(もちろん販社などの本能にも、多少左右される)。
これを踏まえると、 心身問題、 心と身体という区別自体が誤りであると言わざるを得ない。先天的に存在する身体と、 後天的に生まれる心(自我)を同列に語ること自体がおかしな話であるし、 後天的に心が生まれるまでの間体を動かしていたのは本能であり、 心が生まれてからも、 身体の動きにかかわり続けるのは本能である。 議論すべきは心と身体ではなく、 心と本能である。
そもそも我々は、 自身の身体を完璧に制御できない。 それは本能からどのような行動をするかと大まかな行動の決定をゆだねられているだけ実際に身体を動かしているのは本能だからだ。 手を挙げる動作でも何でもいいがわれわれは、 大まかな動きの結果しか認識できず、そこに至るまでにどの筋肉がどれくらい伸縮したかなどは認識できない。たとえるなら我々は、 オープンワールドの選択分岐型の RPG をプレイしているようなものなのだ。 ストーリーの根幹はプログラムという名の本能によって決められ、 与えられた自由の中で自分というキャラの操作方法を学びながらストーリーを進めているのだ。キャラをできる限り自分の思い通りにしたいなら、 操作技術を挙げるか、 プログラムに精通するしかないが、 プログラム自体の書き換えはできない。 しかし、 プログラムの欠陥や隙をついてバグを引き起こすことはできる。 つまり、あえて心と身体の関係について述べるとすると本能が心に身体をどう動かすかを開き、 それを踏まえて本能が身体を動かすという、 この関係であるといえる。
感情に関しては本題からそれるため大分カットさせてもらうが、 こういうことである。 まず前提として本能に基づく快不快がある(別の言葉に置き換えてもよい)。 基本的にその状態から大きな変化をすることはないが、 心がそれに干渉(という選択による変更)を行うことができる。 所詮刺激、 出来事は出来事である。 そこにどのような感情を伴わせるかに、 本能、 無意識的な選択の積み重ねが影響するが、 ある程度であれば、 意識的な選択が影響を及ぼせる。極端な話だが、痛みを快楽に、などがその典型である。




