7話 統一歴1216年 秋 領主屋敷の人々
―――源三郎視点
明日の試験のことを伝えるために、半兵衛様たちのいる松の間を退出したあと、三ノ間で自習している皆のもとへ向かった。三ノ間のふすまの前まで来ると、中で騒いでいる声が聞こえてくる。佐助さまに指摘されたように、やはりたるんでいるようだ。
スッとふすまを開けると、中で騒いでいた3人の声がピタッと止まった。小松と阿波はすでに家に帰ったようだ。まず、源二郎が私に気付いた。
「あ、兄上!あれ?太郎氏はこっちにこないの?」
「うむ。太郎殿はわれらと一緒に学ぶ段階ではなかった。」
「やっぱり、山で生活してたらちゃんと学べる時間がとれなのかな~。」
「逆だ。われらの方の学習内容が太郎殿にとって簡単すぎるのだ。」
その言葉にぎょっとして、小四郎が反応する。
「えっ、じゃあ、太郎は掛け算九の段まで全部できんのか?」
「それどころか、二桁の割り算まで暗算で答えていた。いまは三桁の割り算で躓いているらしい。」
五郎が、信じられないという顔をする。
「三桁!?三桁って、百より大きい数でしょ?足し算でも難しいのに割り算?ズルしてるわけじゃなくて?」
「戦いで敵を出し抜くときのズルは積極的に使うが、自己鍛錬をズルしても意味がないからしないそうだ。」
「ズルは敵を出し抜くときに使う…。へぇ…(なんだそれ!格好いい!)。」
普段手を抜く事ばかり考えてる五郎も、太郎殿にかなり興味を持ったようだ。疑問に思った小四郎から質問が続く。
「それじゃ、山じゃ朝から晩まで勉強ばっかりしてんのか?」
「いや、朝から農作業をしたり、山に入って狩りをしたり、組手や手裏剣に弓の鍛錬もしているらしい。それも佐助さまが驚くほど厳しい鍛錬を受けている。」
三人とも再び、ぎょっとした顔になった。なんだこれ、さっきまでの自分を見るみたいで気分いいな。源二郎が不安気な顔で聞いてきた。
「太郎氏…、寝る時間あるの?」
「毎晩、錬成を神気が尽きるまで行ってからぐっすり寝ているらしい。錬成もすでに二段に上がって、大人の頭ほどの大きさの鋼を毎日つくっていると言っていた。」
「大人の頭の大きさ!太郎氏、すごいんですね…。どうやったらそんなにできるようになるんだろう…。」
「ズルじゃないとすると、山の生活に秘密があるのかな?」
いい感じだ。みんな山の生活に興味を持ち始めた。もうすこし煽ってやろう。
「たしかにご隠居様やその奥方様からの学びも大きいようだが、太郎殿の新しいことを貪欲に吸収して成長しようとする姿勢が大きいのではないかと思う。伝説のような逸話をもつご隠居様とその奥方様しか比べる相手がいないからな。どんなにいろんなことができるようになっても、自分はまだまだと感じているような節がある。」
「たしかに、もし半兵衛様と喜兵衛様と俺だけしかいないところで2人に比べられながら暮らしたら、差がありすぎてズルしてる暇なんかなさそうだね。」
五郎の言う事はもっともだ。そんな状況に置かれるのは考えたくもない。いや、太郎殿はそんな環境で暮らしているのか。不憫な…、いや恵まれているのか?
「後から学び始めた小松や阿波に比べて、自分の方ができるからって手を抜いてるようじゃダメってことか。」
小四郎が前向きな意見を言い始めた。ここらで告げるべきだな。
「その通りだ。それで私も太郎殿のように山で学びを得たいと思い、ご隠居さまが山に戻るときに一緒に連れて行ってくれるように無理を承知で頼んでみた。」
「えっ、兄上だけずるい!私も行きたいです!」
「俺だって行ってみてぇ。」
「俺も太郎くんがどんな風に生活してるのか知りたい。」
まさに狙い通りだ。だが私の会話の誘導がうまいというより、小四郎たちがちょろすぎるだけか。大人たちや、太郎殿のような純粋すぎる相手だとこうはいかないだろう…。
「そう言うだろうと思ってな。明日、われらが山での厳しい環境で生活できる力があるか、ご隠居様が試験をしてくださるそうだ。」
「試験…?どんな試験だ?」
「それは教えてもらってない。これまで学んできたこと、鍛えてきた身体がご隠居様に認められるかどうか、全力で臨むしかないだろう。」
「俺は算術では勝てなくても、体力なら負けない自信がある。絶対、合格して山にいってやる。」
思った通り、まず小四郎がのってきた。
「試験は鍛錬じゃないから、合格するためには何をしてもいいんだよね。それなら俺だって…。」
「私は絶対兄上について山にいきます!太郎氏に兄上の弟の立ち位置は渡せません!」
源二郎が何を言ってるのか若干わからないが、皆をうまく乗せられたな。
「私とて、やってみなければ試験に受かるかどうかはわからんのだがな。では、今日の課題を早々に終わられて明日に備えるぞ。」
「おう!」「うん!」「はい!」
ふふっ!このやる気ならいける!絶対に四人で合格してみせる。
―――半兵衛視点
夕食の後、錬成して眠ってしまった太郎を寝室に運ばせた後、残ったお爺さま、喜兵衛殿、佐助、私の四人で、爺さまの持ってきた干し肉をあてに酒を飲み始めた。
佐助が切り出す。
「ご隠居さま、太郎にどれだけ厳しく教えているのですか?体術だけじゃなく、あれだけ学問も修めさせて、さらには錬成もここまでできるようになってるとは知りませんでした。」
「いや、わしらが教えた子だと、体術の基準は娘の甲斐じゃし、学問の基準は半兵衛じゃからのぅ。太郎は身体も丈夫で、頭もよいから、ついな。」
「いや、甲斐様と半兵衛様のお二人では基準がおかしいです。」
体術の基準が、あろうことか、あの母上とは!
「お爺さま、母上を基準に体術を教えるのは、あまりにも太郎が不憫です。可哀想です。手加減してあげてください。」
爺さまは、酒をくいっと呑んで話をそらしにかかった。
「そういえば、今日は会ってないが、甲斐は元気かの?」
「母上に限って、元気がないことなどありえませぬ。母上は、お爺さまから提案していただいた例の佐々木への報復について知った途端、『こんな面白そうなこと、私以外の者にやらせるわけにはいかんのじゃ!』とおっしゃって、供を一人だけ連れてすぐに近江へ出立してしまいました。」
お爺さまが、口元へ持っていきかけた杯をピタッと止めた。
「止めなんだのか?」
「この町に、母上を止められるものなどおりませぬ。お爺さまは止められるのですか?」
今まで、暴走する母上の後始末をつけるためにどれだけ奔走してきたことか。私が生まれる以前にその役目をしていたお爺さまとも思えない発言だ。
「いや、あやつを止められるのはお江くらいじゃろう。わしが言っても一旦止まった後、こっそり出かけるに決まっておる。」
お爺さまの苦い顔に対して、喜兵衛殿が笑い、佐助が不満顔になる。
「ははっ。ご母堂様は、驚くほどやんちゃですなぁ。」
「やんちゃの一言で片付くならよいです。甲斐姫様が本気で暴れると周りが甚大な被害を受けます。佐々木で暴れてくるだけで、こちらに被害が及ばねば良いのですが…。」
「佐助。お主、わしの娘に対する評価がひどいの。」
「結局、甲斐姫様の後始末を押し付けられるのは私らですから…。」
母上の後始末の段取りを考えるのは私だが、実際に動くのは佐助たちだ。とくに、まとめ役の半蔵には、いつもすまないと思っている。ここで、佐助が話題を変えた。
「話は変わりますが、明日の子供らの試験に何か用意しておくものはありますか。」
「ふむ、そうじゃのう。子供らは山を歩いたことはあるのか?」
「里山として整備されている場所なら歩かせたことがありますが、その他は街道以外ほとんど歩いてないですね。」
「まぁ、ここから山の奥にまで入るのは日帰りでは厳しいからの。ふむ、南の梨木川の堤防あたりを走らせようかの?ただ走らせるだけじゃつまらんから、足を引っかける罠でもつくっておくか。あとは、そうじゃのう…。」
それから、明日の試験の内容と準備について話し合った。まず、お爺さまがご存じない四人の少年の現況について情報を共有した。
源三郎は一番年長の十歳で、真面目で向上心もあるが、同世代に競い合う相手がいないためか、最近は成長が鈍化している。源二郎は、太郎と同じ七歳で、兄を目標として頑張ってはいるが、兄を越えようという気概があるわけでもなく、このままだと劣化した源三郎にしかなれないだろう。
小四郎、五郎の兄弟は九歳と七歳で、三年前に伊豆で親から放逐され苦労した経験から、最初は少々ひねくれたところがあったが、源三郎兄弟と一緒に生活する中で徐々に心が安定してきている。ただ、自分に自信が持てないのか、何事にも本気で取り組もうとしない傾向があり、特に、五郎は、ほとんど記憶にない実親から自分がいらない子として捨てられたという思いからか自分を大事にしない傾向が見られる。
いろいろ問題は抱えつつも、各自それなりに成長している様子は見られる。しかし、ここらで年長組の源三郎、小四郎と、年下の二人を引き離し、お互いの依存から脱却させて大きな刺激を与えるのは、双方にとってよい結果をもたらせるのではないかとの結論に達した。
続いて、お爺さまと佐助から太郎についての情報を聞いた。
「太郎は、わしらのような修羅の世界を生きてきた老人二人に、神が与えてくれた癒しの存在を体現したような子でな。素直すぎて、わしらの言う事は何でも信じてしまうような、真っ新な子じゃ。山に入った賊は悪い奴だから殺してもかまわんと言ったら、虫でも殺すようにあっさり殺した。加えて、ただ指示に従うだけじゃなく、それに自分なりの工夫を加えられる頭の良さもある。育て方によって、凡人にも化け物にもなるじゃろう。」
「確かに善悪の判断については、ご隠居さまやお江さまに全幅の信頼をおいて、判断を委ねているように感じます。あの年齢にして、自分はまだ世間にうといからと、自分の感情を入れずにそれができるのは、『素直』という言葉だけで片付けられない気質です。ただ、そのような非凡なところがありつつも、甘いものを食べるが好きで、同じ歳の子供たちと出会って、仲良くなりたいと願う様子を見ると、ごく普通な子供だとも感じます。」
二人の話を聞き、喜兵衛殿が言葉をつないだ。
「太郎殿が、世間知らずで、善悪の判断を他者に委ねる気質があるというのであれば、まだ信頼のできない者や悪意を抱いて生きているような者には会わせない方がよいでしょうな。先ほど、太郎殿に町に来ないかと誘ったのは不用意でした。町にはいろんな者がおりますからな。」
そういって、喜兵衛殿がお爺さまに頭を下げた。
「いや、そうは言っても、いつまでも他の者に接する機会もないまま育てるわけにもいくまい。太郎に、世の中には様々な者がいることを学ばせる意味もあって、今回、町へ連れきたわけじゃからの。」
「では、やはり太郎にとっても、いきなり町で多数の者と接するより、少数の同世代の子らとともに山で成長させるのが最善でしょうな。」
とりあえず一旦話をまとめ、試験を、年上の二人がギリギリ合格し、年少の二人とっては合格が厳しいものにすることで大枠を決めた。不合格になって町に残される側も、離れて成長する兄に負けまいと、よりいっそう修練に励むだろう。試験の結果が、それぞれの成長のきっかけにもなるとよいが…。
試験の細かい準備は、佐助らに任せることとし、一段落したところで喜兵衛殿とお爺さまが雑談を始めた。
「あやつらがどこまでできるか楽しみですな。この町が安全で過ごしやすいのはいいが、安全が過ぎると、どうしても気は緩みますから。あやつらに信州からここまで移動するときに持っていた緊張感を思い出させるには、丁度いい頃合いです。」
「そうじゃの。半兵衛は、民に優しいのはいいが、守られてることに気づかないような民はいつのまにか甘えん坊になるでの。」
お爺さまの批判に、むっとして返す。
「お爺さま、言葉を返すようですが、私は民らはそれでいいと思っています。領主としては、民がのんびり幸せに生活してくれることが何よりですから。もちろん領地を管理する側がそれでは困りますが。今のところは他国が付け入るような隙は与えていないつもりです。」
「まぁ、そなたなら、抜かりはないんじゃろう。ただ、この世はお主らの優れた頭でも想像もできないようなことが頻繁に起こる。この太郎の錬成がいい例じゃ。」
先程、太郎が錬成した大人の頭ほどの大きさがある鋼の塊をみなでじっと見つめる。人類が錬成の力を神から与えられたのが、およこ二百年ほど前と言われているが、私が手に入れた文献で知る限り、今までで最も多く錬成できるようになった者でもせいぜい握りこぶし一つくらいの大きさだ。この大きさは度が過ぎている。しかも、ありあまる神気を利用して鋼に混ぜる不純物の割合をいろいろ変え、より硬い鋼や、粘りの強い鋼など、様々な鋼を作り出しているという。
多くの民が、このように錬成できるようになれば、軽くて硬い鎧に身を包み、相手の防具をやすやすの貫く鋭い槍を装備した恐ろしい軍隊をつくることも容易になるだろう。こちらができることは相手にもできると考えるのなら、今のままの防衛体制では他国の脅威に対応できないことになる。頭が痛い。
「半兵衛殿がいつもにまして能面になっておれられる。こりゃ、かなり大変な事態みたいだな。」
私が深く考察するほど顔から表情が抜け落ちることを喜兵衛殿に指摘された。表情のことは誰に何と言われても自分では制御できないので、もう気にしないようにしている。いまの問題はそこではない。太郎以外の子らの状況はどうなっているのだろうか。
「佐助、子供らに課している錬成術の様子はどうだ。」
「はい、源三郎ら四人は順調に神気が増えております。また、孤児院の子らにも滋養の良いものを与えたところ、想定通りに神気が増えました。ただ、やはり十五歳以上になると効果は少なくなり、大人の方は食事を変えても神気に変化はありませんでした。やはり神気が増えるには年齢の制限があり、十分な食事が必要ということは間違いないようです。」
喜兵衛殿が、ふむふむと頷く。
「いつ病気で命を落とすかもわからぬ子供らに十分な食事を与えられる領地はあまりないですからな。他国がこのことに気が付くのはまだまだ先となりましょう。」
「はい、それにあまり錬成術を鉄以外のものに用いることがないですから、この領地のように鉄鉱石が豊富な土地でなければ、毎晩、子供に錬成を行わせることもないでしょう。」
二人が言うように他国がこのことに気づかずにいてくれればよいのだが、私は常に最悪の状況に思いを馳せてしまう。
「それは希望的観測だな。鉄鉱石が産出するのはここだけではないし、砂鉄が豊富な土地もある。鉄はなくても金銀が産出される領地では盛んに錬成が行われているはずだ。畿内で宰相をつとめる厩戸殿は、広く貧民にも優しい政をおこなっているとも聞くし、十分な食事を与えられた子供によって錬成術が他国で発展する可能性はいくらでもある。」
「半兵衛が、いつも最悪の状況を想定するのは変わってないの。じゃが、その危機管理能力によって数ある厄介事を乗り越えられてきたのもまた事実じゃ。」
そもそも敵と対峙する場合は常に最悪の状況を想定しろと厳しく教えてくれたのは、お爺さまとお婆さまで、私はその考えを政に広げているだけなのだが…。
「そうですな。この錬成の鍛錬方法をいかに秘すか、西美濃で同盟を結ぶ安藤、稲葉、氏家の3家にこれを伝えるのか、その方針を早急に取り決める必要があります。併せて、他国の錬成術の発展状況、鉄鉱石の輸出入の状況などを商人たちにも協力を要請して調べなければなりますまい。」
喜兵衛殿の言う通りではあるが、秘することが本当に正解なのだろうか。
「錬成術は神が人類に与えてくださった生活を豊かにするための技術なのだし、できれば争いごとに使うのではなく、民の暮らしに役立つものに利用したいものだが、今の時世ではそれも難しいのが歯がゆいな。」
私が、忸怩たる思いを抱えていることを伝えると、佐助が能天気に発言する。
「いや、半兵衛様ならこの地から天下に覇をなし、四島を統一して争いのない地へと導くこともできるのでは。」
そんなことできるわけないだろうが…。
「買いかぶりすぎだ。この地には、喜兵衛殿を信州から追いやった建御名方もいるし、南伊勢の天照、月読、素戔嗚の3姉弟もいる。戦いを仕掛けようとすること自体許されないような者もおるのだ。」
私の意見に、喜兵衛殿、お爺さまが肯く。
「確かにあやつらは戦ってどうにかなる相手ではない。私も若気の至りで武御名方に挑み、結局、故郷を追われる羽目になってしまいましたしな。やつらとは戦うのではなくうまく付かず離れずの距離を保つことが肝要です。」
「ふむ、まぁ、神の御子を名乗るそやつらは領地から出てこんからいいとして、東美濃の長井新九郎、近江の佐々木や浅井、飛騨の駒王丸、尾張の織田三郎あたりにこの情報を漏らすわけにはいかんな。」
「まぁ、まずはこちらをしつこく狙ってくる南近江の佐々木を潰すところからですな。」
わが竹中家は、東西に貫く中山道の東に位置する稲葉家と安藤家、南へ向かう伊勢街道の先に位置する氏家家との四家で強固に婚姻同盟を結んでおり、東、南からの敵襲は当面考えなくてもよい状況になっている。北の北國脇往還道は、険しい山道であり大軍を送れる道ではないため、北の浅井からの襲撃への対処は問題ない。問題は、中山道の西につながる南近江で勢力を伸ばしている佐々木道誉とその親族である京極・六角だ。奴らはさらなる拡大を狙って、北近江の浅井と頻繁に小競り合いを起こし、北伊勢へ侵攻し、さらには、ここ関ケ原をも狙ってきている。
「佐々木か…。母上が、やりすぎなければよいのだが…。」
「「「……。(まぁ、やりすぎるんだろうな…。)」」」
―――半蔵視点
どうしてこうなった。自問をくり返しながら軽快な足取りで先を行く甲斐姫様の後ろを離されないように必死で付いていく。女子の身体で、なんでこんな藪だらけの山をあんな風のような速さで進んでいけるのか、訳が分からない。
「ふふっ、屋敷の生活から解放されて、こうして道なき山の中を歩いていると、母上と過ごした忍びの日々が甦ってくるわね。」
「お方様、お、お待ちください。そんなに急がれるとさすがに付いていけません。」
この速さをなんとか抑えてくれないと、佐々木の城下に着く前に、こっちが潰されてしう。
「別に急いでないわよ。これが普通。半蔵も町の暮らしが続いて身体がなまってるんじゃないの?だらしないわねぇ。」
「いえ、私は町だけで暮らしているわけではないですし、身体は常に万全の状態を維持してます。お方様が異常なのです。」
「そうやって人を化け物みたいに言って!それに、領地をでたら『お方様』は禁止よ。『お嬢』と呼びなさいって言ったでしょ。」
「いや、その年齢で『お嬢』はちょっと…。」
まぁ、四十歳越の年増にして、見た目は二十代にしか見えないし、動かないで黙っていれば深層の令嬢に見えなくもないけど…。と思っていると、甲斐姫様が急に立ち止まってこちらを振り返った。
「あんた、いま私の年齢のこと言った?」
「い、いえ。お、お嬢!そろそろ南近江です。周囲の警戒を高めましょう。」
「もう南近江か。ふふっ、腕が鳴るわね。父上も半兵衛もこんなに楽しそうなことから私を除け者にしようったって、そうはいかないんだから!」
「お嬢…。」
ご隠居様からの手紙を甲斐姫様に見つかったのは、この半蔵一生の不覚。しかし、屋敷に入ったとたんに音もなく背後から締め落とされることまで想定できるはずがない…。
「あっ、熊発見!今日の夜食は熊の肝に決定~!」
「ちょ、ちょっと、お嬢、いまクナイしか持ってないんだから、あんな大きな熊は…、あ~、行っちゃったよ…。ちょ、ちょっと待ってくださいよ~。」
このまま南近江で甲斐姫様の暴走を許した場合、佐々木を混乱させる事は間違いなく成功するだろうが、その後何が起こるか全く想定できなくなる。最終的には半兵衛様がいつものように帳尻を合わせてくれるだろうが、あまり半兵衛様に苦労をかけては、大恩あるご隠居様に申し訳が立たない。だが、私ごときの者にはたしてあの甲斐姫様の暴走を制御できるのか…。やるしかないのはわかってはいるが…。
「できるわけねぇ~!」
「グォ、グォ…ゥゥゥ、グ、グスン…」
俺の叫び声に重なるように、締め落とされる熊の断末魔と『泣き声』が聞こえた。せっかく持ってるんだからクナイ使えよ!熊、泣かすなよ!何やってんだ、あの姫は!
半蔵の苦難はまだ始まったばかり…。