ドジっ子メイドは王太子妃を回避したい!イケメン眼鏡の王太子にからかわれて困っています。
わたくしグレース・ウォールヒルは16歳のとき王室付きメイドとなりました。
この国の貴族女性の人生は二つのコースをたどります。
一つはデビュタントにて社交界に出たあと、しかるべき貴族の子息に乞われて結婚するコース。もう一つはわたくしのように貴族の館に修行に出たあと、親が選んだそれなりの結婚をするコースです。
我が家で社交界に出たのは長女のバイオレットお姉さまだけです。お金の問題です。
ドレスにも宝石にもお付き合いにもお金がかかるわけですから。しがない男爵家の出では長女が手一杯。お姉さまは首尾良くとある伯爵と結婚できました。お姉さまが家を出た後我が家には何も残っておりませんでした。
わたくしは三女でございます。
王室付きのメイドになれたのは運が良かったという他ありません。箔が付くのです。『修行期間』が明ければ子爵、または同格の男爵からお呼びがかかる見込みでした。メイドに決まったと聞いた両親のホッとした顔が今でも浮かびます。
とにかくこのメイド期間は恙無く過ごさなければならない!
トランクを持った私(持ってくれる使用人はおりませんでした)は持ち手を固く握りました。
◇
わたくしの最初の仕事は朝のベッドメイキングでした。
朝食後、王族の方々が部屋を離れたあと、各部屋に入り手早くシーツを取り替えていきます。
『シーツ替え』といっても重労働です。やんごとなき方々ですのでシーツ替えは毎日のことでした。
3人は寝れるベッドからシーツを引っ剥がし、カゴに押し込むと新しいシーツをマットレス上部に挟む、シーツを撫でてでこぼこを無くす、最後にマットレス下部ににはさむ。枕のシーツも取り替える。これをメイド2人で30人分やるのです。
しかも宮殿の広いこと!
走るようにしてワゴンを動かすと額に汗が滲みました。親の期待。親の期待には応えなければなりません。姉の結婚に全てを持っていかれた我が家ですもの。わたくしの結婚で親の手を煩わせてはいけない。わたくしの狙いは『王室からの推薦状』でした。
その日は運悪く同僚のアンが風邪を引いてしまいました。代わりの者はいませんでした。シーツを替えて替えて替えて替えてようやく27番目にきたとき、わたくしはもうフラフラでした。
ベッドのシーツを1人でなんとか引き剥がすと、フワッと良い匂いがしました。
ラベンダーだわ……。
貴族の方々はお休みになるとき、よく香を焚きました。アロマオイルを垂らす方もいました。これもその一つでしょう。
倒れそうになっていたわたくしは思わずそのシーツを引き寄せて嗅ぎました。
すーーーーーっ。
いい匂い……確かこのお部屋は……。
そのとき。
コンコンコンと木枠を叩く音がしました。振り返ると王太子殿下が戸口に立っていました。
ヒッ。シュティファン殿下!!
『なぜあなたさまがこんなところに!』と言いたくなりましたが、なぜもない、ここは王太子殿下のお部屋なのです。わたくしがモタモタとしていたから、朝のご挨拶からお戻りになってしまったのでしょう。
シュティファン様は子供のイタズラを見つけたように笑いました。
「何をしているの?」
◇
わたくしは慌ててお辞儀をしようとしました。ところが頭を下げると体が下がり、シュティファン様のシーツが床についてしまいます。
わたくしはシーツを引き上げました!
頭が下がる(↓)シーツを上げる(↑)をいっぺんにやろうとしたので混乱し、あろうことかシーツを両手に抱えて高々と持ち上げてしまいました。
お辞儀の格好でシュティファン様の前にシーツを掲げてしまったのです。
どうぞ〜〜〜〜っこれがシーツでございますぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜っ
って感じ。
「ぶっ」
シュティファン様が笑い出しました。
「どうもありがとう? 素敵なプレゼントだね」シーツを受け取られてしまいました。
はわわ〜〜〜〜〜〜〜〜。
はわわわ〜〜〜〜〜〜〜〜(涙目)。
そのままカゴにシーツを入れたシュティファン様にわたくしは全力で謝りました。「申し訳ございませんっ。申し訳ございませんっ。王太子殿下っ。打首はご勘弁を〜〜〜〜〜〜っ」
「打首?」
シュティファン様大爆笑。『打首』というのはそこらの切り株に首を乗せられ斧で『ブンッ』と切られることでございます。すなわち死。
恐る恐るシュティファン様を見ると体を『くの字』にして苦しそうに笑っています。
まあお綺麗な方。
緑がかった黒髪を後ろで束ね、瞳は翡翠のように冷たく輝いていました。筋の通った鼻にしまった唇。
特筆すべきは眼鏡です。銀縁のそれはシュティファン様の怜悧な眼差しに良く似合いました。
申し上げなければなりますまい。わたくしは『眼鏡フェチ』なのです。
先ほどの失態を忘れてわたくしはシュティファン様に見惚れてしまいました。
「大丈夫だよ。シーツ一つで首を切っていたら誰も取り替えてくれなくなってしまう。ところで、君名前は?」
「はいっ。グレース・ウォールヒルでございます!」
「ああ。ウォールヒル男爵の娘さんだね? ご苦労様。もう行っていいよ」
「はいっ。大変失礼致しましたでございますっ」
あ。変な言い方した。
わたくしは深々とお辞儀をするとシーツが入ったカゴをワゴンに乗せ部屋から走りでました。
戸口を過ぎた辺りで「ところでグレース」とシュティファン様に声をかけられました。
「はははいっ」
振り向いたわたくしに向かってシュティファン様がパチン! とウインク。
「そのシーツ。いい匂いだった?」
!!!!!!!!!
「失礼いたしましたでございますぅぅぅ〜〜〜〜〜〜っ(2回目)」
わたくしはそのまま全力で洗濯室に向かいました。はわわ。死にたい。もう『王室の推薦状』どころじゃない。首だ、首。切られないけど首だ。解雇だ。お父様すみません。
不出来な娘ですみません〜〜〜〜〜っ。
◇
昼食を食べ終わると執事のクロフォードさんがやってきました。メイド室はざわめきに包まれました。執事は国王陛下にピッタリと張り付いているものでして、こんなところにはこないのです。
クロフォードさんは白髪をきれいに撫でつけた、初老の紳士です。本来は男爵でした。王室に仕えるために跡を弟に任せて自分は長くこちらに勤めているのでした。
片眼鏡のまさに『イケオジ』でして、わたくしは『眼鏡フェチ』なのでこれはこれで! これはこれで!(力説)
「グレース・ウォールヒルはいますか?」
わたくしどもはそれぞれ出自によって身分が違うわけですが、王室で働いている間は平等です。王室に入った順が早ければ『さん』付け。遅ければ呼び捨てです。
急いで立ち上がりました。
「はいっわたくしですっ」
「ちょっと……」とメイド室から出されました。きたわ。王太子殿下からのクレームだわ。このまま追い出されるんだわ。今夜両親になんと申し開きをしよう。
わたくしは青い顔でクロフォードさんの前に立ちました。
「グレース。明日からシーツは交換しなくていい」
やっぱり!!!
「代わりに王太子殿下の朝のお支度を手伝いなさい」
はい?
◇
つまりこういうことでした。
わたくしは王太子殿下付きメイドに配置換えになります。朝シュティファン様を起こすと、朝食をベッドにお運びし、それから着替えを手伝って朝のご挨拶にお見送りすると……。
朝起こす!?????
えっ。お休みになっているシュティファン様にお声がけを? え? 眼鏡どうなる? あ、当然外してるわノー眼鏡でご尊顔拝するわけだわ無理無理無理!
尊過ぎ無理無理無理無理!!
「殿下から直々のお声がけでね。当然君に拒否権はない」
それはそうですけれども!
◇
翌日わたくしは朝4時に目が覚めました。習った通りのことをメモを見ながら反芻します。
「お声がけ……起きなければ側のオルゴールを鳴らす……それでも起きなければ肩を優しくゆすってって無理だわ。死ぬ死ぬ死ぬ!」
直に触るとか死ぬ!
それから2時間。なんとか正気を保つとシュティファン様のお部屋に向かいました。
◇
シュティファン様はよくお休みでした。小さな寝息まで尊い。カーテンを開けると眩しい光が溢れ、ご尊顔を拝します。
いつもでしたら後ろに束ねている髪が頬にかかっていて白いお顔がさらに白く見えました。肩がかすかに上下している。形の良い唇がかすかに開いておりました。
ノー眼鏡やん。つまりノーガードやん尊過ぎ。
しんどみがありすぎる。死ぬ。
クッッラァとなるのを何とか抑え、わたくしは耳元で「おはようございます」と声をかけました。
「うん……」と言うも起きません。ベッドサイドのオルゴールを手に取ると、ハンドルを手回ししました。
♩♩♩♩♬〜〜〜〜〜〜〜〜
なんか軽快な音が流れましたけど起きません。
え? 触るの? 王太子殿下に? いや無理でしょう。今度こそ気絶するって。
メイドの『バタン』て音で目が覚めるとか悪夢だって。
それでも仕事ですから。
わたくしはなぜだか髪の毛を直すと頬を引っ張り(正気を保てよという意味)そーっと手を差し伸べました。
あと2ミリでシュティファン様の肩……というところでパチリと目を開けられました。
ビュンッ。超速で腕を引っ込めるわたくし。
「……誰?」とシュティファン様。わたくしは両手を前に合わせてお辞儀をしました。「おはようございます。王太子殿下」それから眼鏡をお渡ししました。
眼鏡をかけて初めて目の焦点があったらしく「あ、グレースだ」とおっしゃいました。「さようでございます」
「何で君が……ああ。俺が言ったんだった」
そうですよ〜〜〜〜っ。思い出して〜〜〜〜。
そのまま朝食を運びこみ、着替えをお手伝い、国王陛下に朝のご挨拶をする姿をお見送りしました。
戸口から出たシュティファン様が後ろを振り返りました。「そうだ! グレース」「はい」
左目をパチン!
「今日はシーツにローズを振っておいたよ」
!!!!!!!!!
◇
シュティファン様は快活なお方でした。尊大なところのない、それでいながらピリッとした空気も待ち合わせていました。
わたくしは毎日からかわれました。
「今日はサンダルウッドだよ」
「今日はイランイラン」
「オレンジの香りは好きかな?」
その度
「申し訳ありませんでございました」
「百万の死に値するでございます」
「もういっそ打首にしてくださいませ」
と謝り倒しずっとシュティファン様が笑っていらっしゃるのです。
王太子殿下のお部屋は広く、金縁の大きな鏡が2枚。殿下の幼い頃の肖像画(可愛い)。ベッドは天蓋付き。美しい装飾のテーブルに光沢のある布地の張られた椅子。
室内犬が走り回り、猫も2匹寝そべっていて常に眩い太陽光が差し込んでいました。
その中をトレーに乗せた朝食をお運びします。
紅茶とサラダ。ハム、またはチーズ。バゲット。最初に召し上がるのは決まってフレッシュオレンジジュースでした。
お着替えを手伝うときは緊張しました。
わたくしのやることは上着のホックを順番にはめていくことと、腰にベルトを通すこと、靴を履かせることだけでしたが、お体に触れるわけですから失礼のないように息を詰めました。
シュティファン様にからかわれます。
「グレース。息止まってるよ! はいっ息吸ってー」
「はっはいっ」スーッ。
「はいて!」
ハァ〜ッ
「その調子!」
何がその調子ですか。ベルト穴を一つずらしてしまいました。やり直しです。
シュティファン様両手を腰に当ててにんまり。
「今日のシーツの香りが気になって身が入らないかな?」
もう! この方はほんっっっとお人が悪い!
◇
そんなこんなでドキドキしつつも楽しい日々を送っていたのですが、ある日わたくしを取り巻く景色がいっぺんに変わりました。
執事のクロフォードさんがわたくしのメイド部屋までやって来たのです。同室のアンは外出中でした。
お辞儀をされたので驚いてしまいお辞儀し返しました。メイドに対する扱いではありません。
「グレース・ウォールヒル男爵令嬢」
「あっ。はい」
「園遊会の招待状でございます」
◇
上質の紙に流れるような字で書かれたわたくしの名前を見つめました。
クロフォードさんに許可を取りペーパーナイフで封筒を開けます。確かに園遊会の招待状でした。
「でもわたくしこの日は仕事が……」
「『メイド』は休んで『男爵令嬢』として参加してください」
「お庭で炭酸水を配る役ですわ」
「それは他のものがやります」
意味がわからない。
確かこの園遊会『特別なもの』と言われておりました。選りすぐりの令嬢30名が集められる。現在16歳のシュティファン殿下が主催になります。誰の目から見ても『花嫁を選定する場』でした。
「クロフォードさん。何かの間違いではございませんの? わたくしが入ると31名になって、キリが悪いでしょう。男爵令嬢の、しかも三女が参列したところでお邪魔なだけといいますか……」
「殿下のご希望です」
シュティファン様の?
◇
園遊会は2週間後でした。慌てて両親、お姉様2人に手紙を書きました。2日後に伯爵夫人のバイオレットお姉様、子爵との縁談が纏まりつつあるシシリーお姉様がやってきました。
「「やったじゃないの!グレース!!」」
両側から抱きつかれて訳がわかりません。
そのまま両手を包まれました。
「玉の輿にのるチャンスよ」
「とにかく王太子殿下のお目に止まるようとっておきのドレスにしましょう」
「飾りもありったけ持ってきたわ」
いやいやいや! おおごと! いやいやいや!
さらにバイオレットお姉様(やり手)はクロフォードさんをメイド部屋に呼び、細かく殿下のお好みを聞きました。クロフォードさんも何だか楽しそうでした。わたくしはすっかり蚊帳の外です。派手目にいこうとするお姉様と、「殿下のお好みはもっとシンプルなものですよ」とやんわり注意するクロフォードさんの間で一悶着あったりして。
いや……誰かわたくしの好みも聞いて……。
◇
結局シンプルな真珠のイヤリングになりました。園遊会ですからね。舞踏会ではないんです。お姉様ったら信じられないくらい大きな帽子を被せようとしましたが、断りました。そもそもわたくしは『何でいるのかわからない枠』なのですから。
最後にお姉様はわたくしの肩をガッチリつかむと。
「いい? 途中必ずテストされるからね! うまくやりなさい。王妃様のときは『ダンス』だったそうよ! あなたワルツは得意?」とまくしたてました。
……まあまあです……。
◇
園遊会当日。
お庭で開かれたそれは華やかでした。
巻きつけられたレースが風にたなびき、全ての柱に花が飾られました。昼食会場には杭が打ち付けられ、てっぺんに布屋根が張られていました。
園遊会は前半と後半に分かれていて、最初は花嫁候補と王太子殿下の昼食会。次に市民を招いての立食パーティーが行われます。
5歳くらいの花籠を持った幼女がフラワーアーチの前に立っていました。
亜麻色の髪に青いふんわりしたドレス。頭に白い大きなリボンを巻いていました。
「お花をつけてくださ〜い」
スミレのコサージュを差し出されます。
「ありがとう」
周りをみるとみなさま違う花のコサージュを胸につけていらっしゃる。
『これが参加証というわけね?』わたくしはピンときました。もうテストは始まっているのです。
「お姉様お名前は?」こまっしゃくれた感じの子です。鼻をツンと上に向け得意気に聞いてくるので口がほころんでしまいます。
「グレースよ。あなたは? 可愛いひと」
「あたしはソフィア!」
ソフィアはスミレのコサージュを直してくれました。
わたくしはこれより『スミレの令嬢』と見なされるわけです。どこに審査員がいるかわからない。気が張ります。
その場を去った途端「失礼ね!」とトゲのある言葉が聞こえました。薔薇の茎を間違ってつかんでしまったような声。
ハッとなって振り返ります。
ソフィアが泣きそうになっていました。
ソフィアの前に背の高い女性が立っています。一目で上質とわかるシルクのドレスに金の巻き毛。幾重にも折り込まれた布地が彼女の財力を語っていました。
ミランジェ公爵令嬢だわ……。
この園遊会一の注目候補です。
「お前よりはるかに身分の高いわたくしに名前を聞くとはどういうこと? お前から名乗りなさいな」
わたくしは慌てて駆け寄るとしゃがみ込みソフィアの背中を包みました。手を彼女の肩にかけました。
「失礼致しました。これはソフィアでございます。ミランジェ公爵令嬢様でいらっしゃいますね? 子供とはいえ申し訳ありません」
ああ。かわいそう。ソフィアの体が固まってしまってる。
「フン!」
ミランジェ様はそっぽを向きました。
わたくしはソフィアの耳に「大丈夫よ」と囁きかけると百合のコサージュをソフィアから受け取りました。
「花をおつけしますわ」
「そんな地味な花止めて!」
「あっ。はいっ。」
花籠を睨むミランジェ様。ややあって扇子で薔薇を指しました。
「これがいいわ。一番華やかですもの」
「承知致しました」
ミランジェ様の胸にコサージュを止めました。わたくしの胸のスミレに目を止めると馬鹿にしたように笑いました。
「ま〜あ……お似合いの花をつけていらっしゃること」
◇
庭にしつらえられた席へつきました。長方形のテーブルで座席は2列です。整然と並べられた白磁の食器に曇り一つないワイングラス。令嬢は31名。シュティファン様が現れるとみな立ち上がり一斉にお辞儀をしました。
片手を上げてにこやかに微笑まれます。束ねられた長い髪が風に煽られます。王太子殿下は毛先まで優雅。
真ん中に着席されました。ミランジェ様が隣。わたくしは端っこでした。
『やはりミランジェ様が最有力候補なんだわ』
昼食会はスープから始まりました。
◇
和やかに昼食会は進み、滞りなく全てが終わるかと思われたそのとき、事件は起こりました。
デザートに桃が出てきたのです。
丸々1個。皮付きのものがそのままお皿に乗っております。
「「「!」」」
令嬢たちの間に緊張が走りました。
これがテストだわ。間違いない。『桃を上手に剥けるか』を見定められているのです。
通常桃は剥かれた状態で出てきます。丸くて手から滑りやすいこれをナイフとフォークで上手に剥く? 至難の業です。
シュティファン様の前には剥かれた桃が果実のソースとともに供されました。
令嬢たちに与えられた、31個の桃。
桃はあふれんばかりの蜜を皮のうちに閉じ込め、あくまで表面は乾いておりました。
一面に白い産毛を生やし金の縁取りの皿に泰然と収まっています。
ミランジェ様は『フッ』と笑うとフォークを桃に刺し、サク、サク、サクとナイフで切り目をつけました。
上手にフォークで桃の皮を巻き取っていきます。見事でした。
『さすが公爵令嬢だわ……』みなため息をもらしました。
他のご令嬢も、ミランジェ様ほどではありませんが桃をそつなく剥いていきます。わたくしは見惚れてしまいました。
「そこのスミレのあなた!」
ミランジェ様から声がかかりました。
「ぼんやりなさってないで桃をいただいたら?」
あっ。ひゃっ。わたくしも剥かねばならないのだわ!
◇
結果は散々たるものでした。
わたくしは一度も桃をフォークとナイフで剥いたことがないのです。
刺した桃は何度も皿の上で滑り、皿の外に出さないことで必死。もちろん皮はうまく剥けません。カチャッ、カチャッと音が立つ。マナー違反です。
そこかしこから『クスクス』という笑い声が聞こえてきます。意地悪な目配せ。扇子の向こうでヒソヒソ話。
みんなに注目されてわたくしは泣きそうでした。桃の香りが立ち昇って、いつもだったらワクワクするのに今日はベタベタとわたくしの心を汚しました。
シュティファン様を見ると眉根をひそめてご自分の皿を見つめていらっしゃる。両手はテーブルの下でデザートに手をつける様子もありませんでした。
ご不快にさせてしまったんだわ……。
ようやくほぼ皮付きの桃を一切れ口にすると気持ちを抑えわたくしはニッコリ微笑みました。
「まあ、美味しい!」
ドッとご令嬢たちが笑いました。口の中のゴワゴワとした皮が心を苛みました。
人生で最悪の瞬間でした。
◇
昼食会が終わると、新たな招待客がやってきました。
老若男女50名ばかり。富裕層の市民だそうです。
昼食会のテーブルはクロスごと替えられて、サンドイッチだの、スコーンだの、一口サイズのフルーツだのが銀の皿に乗って運ばれました。サングリアまであります。
椅子は全てのけられました。
あっという間に立食式のパーティーに早変わり。
わたくしは見事に『壁の花』でした。シュティファン様にアピールするどころか近づくこともできず、ソフィアの相手をしたり、老紳士とお話ししたり、ご婦人のためにケーキを取ってあげたりしました。
ミランジェ様を始め令嬢に取り囲まれてシュティファン様は楽しそうでした。なんだか寂しい。
毎朝あの方を独占していたのに。今は隣にいることも叶わない。あの方はなんと遠いのでしょう。
途中『このままでは飲み物の数が足らなくなるわ……』と思ったのでクロフォードさんのそばに寄るとそっとささやきました。
「おや! そうでしたかな?」
クロフォードさんは少し慌てたように飲み物の追加を指示していました。普段はキレ者なんですけど。陽気に当てられたのかしら?
◇
園遊会が終わって部屋に着くとディドレスも脱がず倒れ込んでしまいました。
わたくしは一晩中泣きました。無様な自分が情けなかったのでございます。桃一つ剥けない自分。気の利いた返し方すらできない自分。立食パーティーでは壁の花になるしかない自分。
いつのまにか増長しておりました。シュティファン様が親しく口を利いてくださるからと言ったってしょせんはメイドです。『王室からの推薦状』をいただき、相応のお声かけをもらい、男爵または一つ上の子爵の三男辺りと結婚するのが相場でございました。ハッキリとわかりました。
今日のわたくしは並いる婚約者候補の『引き立て役』でした。殿下もそのような思し召しだったのでしょう。
『明日からまた笑顔で働かなければ……』
シュティファン様との楽しい朝のひと時を思い出し、肩を震わせました。
◇
翌朝シュティファン様のお部屋に入るとすでに起きていらっしゃいました。初めてのことです。ベッドの上で身じろぎもせず一点を見つめていらっしゃいます。
眼鏡はすでにかけているので、尊い寝顔は見られませんでした。
いつもの快活さはなりをひそめている。
わたくしはできるだけ軽やかにお辞儀をしました。
「おはようございます。殿下」
「……ああ……グレース」
夢から覚めたようにわたくしを見ました。
「グレース。信じて欲しいんだが……」
「はい」
「桃のことは知らなかったんだ」
まあ。気にしてらしたのね。
「桃が……丸ごと出されると知っていたら反対していた。あの場では俺は何もしないように言われていた。だから君に恥をかかせたままで……」
毛布の上で硬く両手を握りしめたお姿が、昨日の不快そうな表情と被りました。もしかしてこの方も昨晩は眠れなかったんじゃないのかしら。
園遊会は『花嫁候補』をテストする場。
お立場として、わたくしの肩を持つことはできなかったのでしょう。
仮にも王太子が、一介のメイドに謝るわけにはいきません。うつむいたその姿が殿下精一杯の『謝罪』でした。
「大丈夫ですわ。お顔をあげてくださいまし。殿下にそのようなことをさせたとあってはグレースが叱られます。なにとぞ」
この方はお人が悪いところはあるけれど、無用に人を傷つける方ではない。
わたくしはいつの間にかシュティファン様を信頼していたのです。
◇
数日後。
四阿で泣いているミランジェ様を見てしまいました。驚きました。たくさんの薔薇に囲まれて。白い六方の柱の中で1人囚われているように見えました。声も立てずに涙を流していらっしゃる。レースのハンカチの白さが際立っていました。
今はメイドなのでお声がけするわけにもいかず通り過ぎました。
『どうやらミランジェ様は花嫁候補に落ちたらしい』噂を聞いてさらに驚きました。あれほど見事に桃を剥いたのに?
◇
ミランジェ様の姿が忘れられず、わたくしはその夜クロフォードさんの執務室を訪れました。
クロフォードさんは封筒をロウで閉じているところでした。
蝋燭に別のロウを近づけて炙り、封筒に落とします。あとは焼印を上から押せば封筒が閉じるのです。
蝋燭のジ……ジ……ジという音を聞きながらわたくしはクロフォードさんが作業を終えるのを待ちました。
10通ばかり閉じると乾かすために机の端に並べました。
「待たせたね。グレース」
片眼鏡をクイッと上げたクロフォードさんにわたくしは昼間の話をしました。
「差し出がましいとは思ったのですが……。あまりにおいたわしくて」
クロフォードさんはしばらく封筒を振って乾かすふりをしました。『話して良いのかどうか』迷っている様子でした。しかし決意したようです。わたくしを見ました。
「グレース様」
「はい」
「あなたのお考えの通りですよ。ミランジェ公爵令嬢は花嫁候補から外されました」
◇
どうして……というわたくしの言葉を待たずにクロフォードさんは続けました。
「グレース様。最初に申し上げますが、あの『桃のテスト』を仕掛けたのはこのクロフォードです」
「えっ!?」
「申し訳ないが、あなたが候補に上がった時点でテストに組み込みました。男爵の三女であるあなたは桃の剥き方を教えてもらってないだろうと見込んでです」
「確かに……そうですけど……」
「ですがあれは『桃を上手に剥けるか』のテストではありません」
「えっ」
「『桃を剥けない人をどう扱うか』のテストです」
!!!!!!
◇
「全員桃が剥ける中、お一人剥けない方がいたとき、つまりゲストがしくじった時にそれをどう取りなすかのテストでした。王太子妃の前には様々なゲストがいらっしゃいます。桃を剥くどころか、桃を見たことすらない層とお食事なさる場合もある」
「………………」
「真のホスピタリティとは、ゲストに恥をかかせないことです。我々を呼びその場で桃を剥かせることもできたでしょう。しかしミランジェ様を始め、ご令嬢方はどう対応なさいましたか? あれが答えです」
確かにそうでした。あの場でわたくしは笑い者でした。これが公の行事でミランジェ様が『王太子妃』だとしたら……。
クロフォードさんは口元をふっと緩めました。
「しかしながらあの場でただ1人。場の雰囲気を壊さないよう努力なさったご令嬢がいました」
彼の目は温かかった。
◇
「グレース様……クロフォードは見ておりましたよ。普通のご令嬢なら恥辱にまみれて座っているのもやっとだったでしょう。あなた様はご立派でした」
それからフッと手元の蝋燭を吹き消しました。煙が空中をうねるように漂いました。
「実はあのときもう一つ『テスト』が仕掛けられていたのですよ」
「えっ。でもワルツも演奏されなかったし、何事もなく終わりましたけど」
「もし会場の飲み物が足らなくなったらどのような反応をするかというテストです」
!!!!!!
◇
あれ、テストだったのですね!
確かにそうです。クロフォードさんがそんな初歩的なミスするわけないではありませんか。国王付き執事ですよ。年に80回はパーティーを指揮しているのですから。
「しかしそのテストはできませんでした。なぜなら始める前に飲み物が足りないことに気づいたご令嬢がいたものですから」
あっ。もしかしてわたくし余計なことをしたのかしら?
クロフォードさんニヤリ。
「他のご令嬢は殿下のお顔しか見ていらっしゃらなかったようですがね?」
「それは違いますわ」わたくしは令嬢を代表して抗議しました。
「どなた様もあの場に『家』を背負って訪れました。産まれたときから『王太子妃候補』として努力を重ねられた方々ですよ。周りに気を配る余裕などない。たまたま紛れ込んだわたくしは候補にもならないからこそ周りを見れただけです」
「あなたのそういうところが殿下は気に入られたんでしょうなぁ」
「え?」
クロフォードさんは顔を引き締めました。
「今回の花嫁探し。殿下は何もご意見をなさらない。全面的に私どもにお任せしてくださってます。その中でただ一つ希望なさったのが、あなたを候補に入れることです。あの園遊会に招待されない者は花嫁候補に上がれなかったのです。その重みをわかっていただきたい」
わたくしはたじろいでしまいました。
◇
夕方、シュティファン様に御目通りを願いました。わたくしの役目は朝殿下を起こすことなので、午後2時にはお役放免になります。あとはのんびり他のメイドとともにレース編みをしたり掃除をして過ごしていました。
シュティファン様はビロードの椅子に腰掛けて何か書類をご覧になってました。
ご挨拶してから発言の許可を求め、許されます。
「クロフォードさんにお伺いいたしました。『桃』はクロフォードさんの独断だったそうです。殿下は何もご存知なかった」
『もうお心を痛めなくていいのですよ』そう言いたかった。
「ミランジェ嬢のことは?」
「…………伺いました」
シュティファン様は書類をバサッと腿に落としました。
「国王は、国家に奉仕されるためにいるのではない。国家に奉仕するためにいるんだ。それを履き違えた者はどのように高い地位でも王妃にはふさわしくない」
キッパリとした物言いでした。
「それはそうですが……最初のテストで落とされるにはあまりに惜しい資質をお持ちではありませんか?」
背筋をピンと伸ばした堂々たる姿を思い起こしました。ああいう方こそ未来の王妃なのでは……。
「桃を剥けないのならば習えばいい。しかし心根までは習えないんだよ。グレース」
わたくしは何とも言えない気持ちになりました。
「グレース。今ちょうど園遊会の報告書を読んでいた。あの中で誰が審査員だったかわかるかい?」
「いいえ」
「コサージュをつけた者以外全員だ」
「えっ」
「わざと令嬢の階級を知らない者たちを集めた。審査してもらったのはただ一つだ。『どの花の令嬢が印象に残ったか?』半数が『スミレの令嬢』。つまり君を選んだ」
報告書を読み上げ始めました。
「ジョゼップ・スミス78歳『私の話を丁寧に聞いてくれた。歳をとって何度も同じことを言ってしまうが全く嫌な顔をしなかった』」
あ〜! 茶色い蝶ネクタイの老紳士だわ。
いや確かに孫の自慢無限繰り返しでしたけどね。
「ミランダ・カーペンター60歳『わざとお菓子をこぼしたが、笑顔で同じものを取ってくれた』」
あっ! あれわざとだったの! ボッロボロ歯からマフィンがこぼれてたけど。
「ソフィア・リンデンバーグ。6歳。ソフィアはね。クロフォードの孫娘だよ」
!!!!!
ええ〜! ミランジェ様……まずかったですね。よりにもよって国王付き執事の孫娘に意地悪言うなんて。
「1番覚えている女の人は?『スミレのお姉様』それから『グレースお姉様だーいすき。また遊んでね!』」
まあ。口元がほころびました。殿下と顔を見合わせて笑いました。
シュティファン様はゆったりと足を組まれました。ふっと吐息を漏らします。
「次の『テスト』も合格して欲しいものだね」
えっ!?
「期待しているよ。グレース」
◇
「クロフォードさん!」
王太子部屋から帰ってすっかり恐ろしくなったわたくしは執事に泣きつきました。
……え?……わたくしが『第一候補』なの?……なんで!?……無理……死んじゃう。
もう殿下の心はお決まりで、あとは国王と王妃を説得できればいいって…………そういうこと!?
「無理! 無理です! クロフォードさん。わたくしを今、すぐ、『王太子妃候補』から外してくださいませ!」
「できかねます」
「どうして!?」
「私の勤めは『未来の王妃にふさわしい女性』を探すことです」
「わたくしではないわ!」
「あなたです」
モジモジしてしまう。
「だって……わたくしはただの男爵令嬢……」
「あなたより身分の高い方も、資産をお持ちの方も、外国との繋がりを持つ方もたくさんいらっしゃいます。しかし殿下をあれほど笑顔にできるのはあなただけです」
わたくしは息を飲み込みました。
「腹を括ってください、グレース様」
◇
いいえ。無理でした。王太子の妃になるみなさまは小さな内からそのように育てられます。選りすぐりのご令嬢があの30名なのです。
わたくしのように何の訓練もしていない者が務まるものではありますまい。
何日も悩むとわたくしはクロフォードさんに『王太子付き』から外してもらうようお願いしました。そしてメイドの辞職も願い出たのです。
「ほんのわずかでも夢を見られて嬉しかったです。思い出を胸に家に帰らせてくださいまし」
彼の慰留にけして『イエス』と言いませんでした。
◇
だからクロフォードさんから招待状を受け取ったとき、固まってしまいました。
『テスト』でしょうか。いいえ。わたくしはもう『花嫁レース』から降りたのです。
「殿下の17歳をお祝いして舞踏会が開かれる」
そう。シュティファン様はこの秋。17歳を迎えられます。慣例上それから程なく婚約者が発表になり、18歳になられたとき晴れて結婚されるのです。
「い……いえわたくしは……」
「グレース!」
「はいっ」
「これは『仕事』だ。気持ちはメイドのままで構わない。園遊会のときのように周囲に気を配ってくれればいい。殿下もそのようにおっしゃってる」
王太子命令です。受けないわけにはいきませんでした。
執事室の仕事机の上で両手を組み合わせたクロフォードさんはしばらくペン先に視線をやっていました。
「………………グレース様……」
「はい」
「あなたが宮殿を出るのは致し方ありませんが…………ときどきソフィアには会ってやってもらえませんか。次はいつスミレのお姉様と遊べるかうるさくてね。私もここを離れればただのジジバカです」
照れたように笑うので『この方も人の子なんだわ』と思いました。
わたくしは右手を差し出しました。
クロフォードさんと短い握手をして、返事の代わりとしたのです。
◇
舞踏会当日。
わたくしはミントグリーンのドレスを着てそこにいました。全体に花の刺繍がしてあり雌蕊の部分をビーズでとめたもの。フリルは二段でした。
サファイアを首元に。真珠は耳元に。髪はアップで毛先を巻きました。
お姉さまたちが精一杯めかし込んでくださったのです。
このような華やかな格好をしてはおりましたが、自室にはトランクを準備済みでした。明日の朝宮殿を離れる算段をつけていました。
これはわたくしの最後のご奉公。
ラッパの音とともに国王夫妻。本日の主役であるシュティファン王太子殿下が現れます。
パーティー会場にいる者全てが一斉に礼を取りました。
涙が出そうでした。
わたくしはいつの間にかシュティファン様を深く愛していたのです。毎日殿下のお支度をすることがどれほど嬉しかったか。メイドでいいのなら永遠にお側近くにいたかった。
会場の端っこにいたので照明が届かず、殿下の周りがやけに明るく見えました。あの、光に溢れた朝の部屋は永遠に遠くへ行ってしまった。
最後にお顔だけでも見れてよかった。
果実水を片手にぼんやりと立っていると突如扇子でバシッと叩かれました。
「痛い!」
目の前にミランジェ様がいるではありませんか。目の奥に暗い炎をたたえてわたくしを睨みつけています。
「メイド風情が? 何をしているの?」
「いえ……わたくしは」
「その安っぽいドレスを脱いで定位置につきなさいな。炭酸水が飲みたいわ。早く持ってきて!」
嫉妬を全身に背負ったミランジェ様に怯み、後ろに下がったときでした。
ざわめきが静まり、貴族の皆さまが二手に分かれていくのが見えました。天の神様が両手を差し入れ、大きく左右に水をかき分けたかのようでした。
ポッカリとあいた空間をシュティファン様がこちらに向かって歩いてきます。
わたくしたちのところまでたどり着くと
「失礼」
そう言ってミランジェ様を手で押し退けました。王太子の振る舞いではありません。貴婦人に対して王族はけしてそのようなことはなさらない。でもシュティファン様はそうしました。
ミランジェ様に背を向け、わたくしの前に立ちました。ミランジェ様からわたくしを守ろうとしているように見えました。
『やっと見つけた』顔にそう書いてありました。両手を腰にあててわたくしを見下ろします。
最初に出会ったときの『いたずらっ子』を見つけた顔。
「グレース」
「はいっ」
「君にきめた!」
「え?」
わたくしの腰に手を回してシュティファン様は横並びになりました。会場中に響く高らかな声。
「私、王太子シュティファンはグレース・ウォールヒルとの婚約を宣言する!!」
一瞬宮殿が水を打ったように静かになりました。
ドオオオオオオオオオッ
群衆がどよめく。
宣言してすぐシュティファン様はミランジェ様を横目に微笑しました。『威圧』です。
ミランジェ様はハッとなってシュティファン様から数歩下がると屈膝礼をしました。『承知致しました』と態度で示したわけです。サッと意思を変えられる様はさすが公爵令嬢でした。
ザザザザッ。
そこにいる貴族の方々が追随します。
国王陛下と王妃様、シュティファン様とわたくし以外全員がかしずきました。
視界が開けたので国王夫妻が見えました。お二人はにこやかにわたくしたちを見ています。扇子を持った王妃様は音もなく拍手をしました。その斜め後ろにクロフォードさんが控えていました。シュティファン様に向かって一度、大きく頷きました。
シュティファン様は再度わたくしに顔を向けると陽だまりのように笑います。
「さあ。婚約者殿。陛下と王妃様に婚約の報告へいきましょう」
差し伸べられる手。
わたくしは後退りついに壁に背中を打ちました。反射的に叫びます。
「無理ですっっっ」
『え?』て顔のシュティファン様。
「その婚約お受けできません!」
わたくしは叫ぶとその場を去りました。長い長い廊下をひたすら走りパーティー会場から遠ざかりました。
粗末なメイド部屋につくとベッドの毛布をひっかぶります。
わたくしが将来の王妃とか! 無理です! 桃すら剥けないのに務まらないに決まってます!
ベッドのそばには荷造りを終えたトランクだってあるんです。舞踏会が終わったらこの宮殿を出るんです。
コンコンコン。ドアの木枠を軽く拳で打つ音がしました。
「逃げることないでしょう。婚約者殿?」
優雅な足音が私に向かって進みます。
そのままわたくしのベッドに腰掛けてしまわれます。優しく毛布を引き剥がされ、シュティファン様と正対する形になりました。
左手をベッドに沈ませてわたくしの方面へ体重をかけました。シーツが手に引っ張られていきます。
眼鏡のツルに右手を掛けるとおもむろに外しました。
髪で一瞬隠れましたが、再び顔を上げると全てが輝いていました。
目が潤んで頬が紅潮している。瞳はわたくしがつけているサファイアの何百倍も美しい。
はわわわ!
その表情ノーガードで見せるなぁぁぁぁ!!!
(別の意味で)無理ぃぃぃぃぃ!!!!
「イエスと言ってください。愛しいひと」
「むむむむ無理……」
「『イエス』と」
眼鏡を右手から左手に持ち替えると、そのまま右手指であごをつかまれてしまいます。
「いやだって。わたくし桃も剥けませんし、ミランジェ様のように専門の教育も受けてませんし、デビュタントすら経験ないし、長女でもないしそれから……」
「『イエス』だ。グレース。それ以外認めない。さあ!」
わたくしはすっかり気圧されてしまいました。湖水のような瞳を前に催眠術でもかかったよう。
そのとき初めてシュティファン様の『昼の香り』を知りました。ずっとシーツから漂う『夜の香り』しか知らなかったから。
……いい匂いだわ……何の香水なのかしら……。
香りに酔って隙ができてしまったのです。
「………………イエス」
ハッとなりましたが時すでに遅し。
今の取り消しっ。取り消しっ。
体勢を立て直そうとしました。強力に、『わたくしが王太子妃にはなれない100の理由』をまくし立てたかった。できませんでした。
シュティファン様の唇が、言葉ごとわたくしの唇を封じてしまったからでございます。
(終)
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