74
「当然、帝国に行っても軍に入ることはないのですが。」
昼下がり、二人はそろってメビウスに向かい、傭兵活動に必要なものを買いそろえたあと、傭兵宿舎に戻り、部屋の引っ越し作業をしていた。
メビウスではアルテミシアが目を輝かせながら、人ごみの中を跳びまわり店の中を巡っていた。あるいはセツナなら追いきれるが、ランクが違えば、彼女の動きは縮地のようにすら思えただろう。セツナは後を追いかけるので、しばらく大変だった。
引っ越しは、アルテミシアがシルバーランクの傭兵になり、ギルドで正式にパーティーメンバーの登録ができたため、この際二人部屋に泊まろうということになったためである。一人部屋を二つ借りるよりも、二人部屋を一つ借りたほうが安上がりである。双方ともに数週間の旅を行ってきた身であるし、同じ部屋で寝ることに抵抗はなかった。
アルテミシアはほとんど荷物はないが、セツナは前に買いだめた道具類と、少量の素材類が部屋のアイテムボックスにあり、二人で抱えて運ぶのを何往復かしていた。
そんな折に、アルテミシアが会話の種に、”帝国へ赴くのは、断ってもよかったのではないか?”と、話を振ったのである。アルテミシアは、ここで断ると嫌な予感がする……という感性で承諾したのだが、セツナの方の理由を聞いてなかったのだ。
「理由はいくつかありますが……一つはギルドマスターに恩を売ることができるからです。ギルドのトップに恩を売る機会はめったにない貴重な機会です。ここで恩を売れば、将来何かの折に助け舟を出してくれるかもしれません。
一つは、帝国の庇護です。今の我々は、帝国からの招待を受けると決めた身。たとえ、軍に入る気はなくとも、帝国という大国が目を付けた相手に手を出す者はかなり少なくなる。
……アルテミシアさんは知らないかもしれませんが、勧誘はこうも簡単に落ち着くものではありません。数日間付け狙われた挙句、勧誘を受けなければ悪評をばらまかれたり、活動の妨害を受けることもあります。
ただ、そういった弊害も、強力な相手の勧誘を受けてしまえばなくなります。自身よりも強い相手が狙っている獲物を横取りしようとする相手なんて、どうなるか分かったものでもないでしょう。」
「………なるほど。」
なお実際には、その情報をなぜか得られなかったいくつかの小領主や貴族からの妨害工作などがあったのだが、セツナやアルテミシア達が感知することもなく、裏側で帝国によって処理されている。……今回の裏での出来事については、彼女たちの冒険にはもはやかかわらないが、ここで追記しておく。
「逆説、断った場合ですが。
先ほどの二つの点が丸々ないと考えてください。
……どうです?いやでも行きたくはなるでしょう。」
「……確かにな。想像したくない。」
ようやく、アルテミシアの意識がセツナに追いつく。断った場合、帝国からの庇護のない状態で、ギルドマスターへの恩も売れない。もしも何かトラブルがあっても、ギルドはいい顔はしないだろう。
これから先、傭兵ギルドでやっていく中で、幸先が悪くなるのは確実だ。少しの面倒でこの先多くの苦労がなくなるのなら、行くメリットはあるかもしれない。
世間知らずのアルテミシアは、こうしたところのメリットデメリットがわからない。これから傭兵としてやっていくなら、こうした判断を求められることも多いのだろう。アルテミシアは、まだ……というより、これからこそ、勉強が必要だな、と思ったが。
「まぁ、細かいことを考えないのなら……私、帝国に一度行ってみたかったんです。」
「あぁ……なるほど、さては、それが本音か?」
「さぁ、それはどうでしょう?」
ただ、話の中で、最後に告げた言葉とともに、悪戯っぽく笑みを浮かべるセツナの顔を見ると、抱いていた少しの悩みもどうでもよくなった。結局のところ、彼女は冒険がしたいのだということがわかったからだ。それが最大の行動指針であるというのなら、アルテミシアにも容易に理解できる。
「さて。ここからしばらく忙しいですよ。帝国への旅にはまだ猶予はありますが、旅費を稼ぐ必要がありますからね。」
「ああ、まったくその通りだな。」
最後の荷物を部屋に置いた二人は、その足で再び傭兵ギルドへと向かった。
こうして、二人の傭兵生活が、幕を開けたのだ。
* * *
「……結論から言わせてもらうと、この切断面は、”技”によるものじゃないわ。
これは、意志共鳴による破壊痕……Bランクがやったようには、思えないのだけれど。」
「事実だ。儂はしかと見たのでな。」
某所。大量の魔具と、魔法陣が床に敷き詰められた部屋の中で、短く整えられた黒髪の女がその結論をゼンに伝えていた。
部屋の魔法陣の中心には、数日前にセツナが倒したオールドギア・スローターの残骸がある。ゼンが預かっていたそれは、現在大陸南方に広がる世界最大の海、大青海上のとある孤島にある、限られたものにしか存在の伝えられない研究施設にあった。
南方……サウスエリアには、世界でも有数の研究施設である、海洋研究機構・サーヴェイが存在し、その他、魔術師ギルドの要する研究施設も数多い。その影響か、南方には様々な見識を持つ気質の者が集まることが多い。
ゼンが残骸を持ち込んだこの研究所は、傭兵ギルドが魔術師ギルドの協力を得て、ある人物のために作られたものだ。その人物こそが、今ゼンの目の前にいる人物。
マディカ・リーム。白衣を纏ったこの女性こそは、傭兵ギルドと魔術師ギルド、双方のギルドにおける、南方統括ギルドマスター。『命泉』の二つ名を持つ、世界でも五本の指に入る研究者である。
研究者としての彼女の成し遂げた功績は数知れず。彼女の開発した新薬は多くの命を救い、傭兵としても、余人では到達不可能な環境を持つ幻想領域をいくつも踏破している。
そんな彼女の下にゼンが持ち込んだ”残骸の解析”という仕事は、彼女にとっては専門外もいいとこだったが、ゼンは傭兵ギルドにとっては無視できないほどの影響力を持ち、マディカもいくつかの貸しがある人物であったため、異例の対応ではあるが、彼女が直々にその頼みを受けていた。
しかし、マディカはこの頼みを自身が受けてよかったと、内心思っていた。この研究結果は、今は高度に管理するべきものであるからだ。
「普通、意志共鳴は魔力の質、濃度によってその発生度合いが変化する。
……オールドギア・スローターの保有する”不壊”魔術情報の強度はSランク。意志共鳴でこれを突破、破壊するには、同ランクか、それ以上の魔力濃度が必要になるわ。
これを、Bランクで成し遂げたとなると……もしかして、噂になっているあの子かしら?」
「耳が早いな。」
「不可解な事象は常に私の耳に入ることになっているの。貴方の娘についても、情報は届いているわ。
………いつまで明かさないつもりかしら。アルテミシアが、”何を母として生まれたのか”。」
「……時が来ればな。今は、その時ではない。」
「そう。手遅れにならないことを祈るわ。」
目の前の女が持つ情報網は、強大無比だ。魔術師ギルドの情報網、傭兵ギルドの情報網、加えて、彼女個人が持つ情報網。三つが合わさり、織り合わさり、蜘蛛の巣のような情報ネットワークが構成されている。
初めから、ゼンがこの依頼を持ち込むことも、それがセツナのことであるということも、すべて知っていたように、ゼンには思える。対峙している者からすれば、すべてを見透かされているようにも感じるため、彼女は恐怖を抱かれやすい。
「それで?もちろん報酬は持ってきたんでしょうね。」
「うむ。」
ただ。ゼンは、恐怖を覚えなかった。ゼンはが紙袋を手渡すと、彼女は目に見えて機嫌をよくする。
紙袋の中身は、冬土連邦首都にある老舗の氷菓子店の、高級菓子。
「……いいチョイスね。じゃあ、わたしはこれで。表口はあけてあるから、好きに帰りなさい。」
彼女は、深刻な……それも金がかかる高級スイーツを好んで食べる、重度の甘党であり、どんなに機嫌が悪くとも、好物を持ち込めばたちどころに機嫌を直したうえで要望に応えてくれる、実に扱いやすい性格の持ち主であった。