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夜。
(………だめだ。眠れないな……)
安物の布団を体から払い、アルテミシアは起き上がった。
夜も深く、昼間の喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っている。
彼女は生まれつき夜目が利いた。灯りが何もなくとも、彼女は困らない。星明りだけが部屋を照らす中、アルテミシアは寝間着から、外行の服に着替えると、部屋を抜け出した。
「…………。」
風に誘われるように、彼女は町の外へでる。
広いセントラルだが、夜の闇に紛れ、Bランクの身体能力で、屋根を伝っていけば、あまり時間はかけずに街の外周に到達する。
セントラルには二重の外壁がある。一つは市街を囲む壁。もう一つは街の遠方……半径100kmにも及ぶ超巨大な円状の壁だ。もともとセントラルは要塞都市として設計されており、諸外国からの侵略があることを想定して作られた都市だが、その脅威がなくなった現在、街の規模が大きくなったことで、今は町の外にも建造物やら何やらが増え始めていた。
しかし、こうした壁の外はセントラル大平原の魔物からの被害が多発したため、セントラル外縁に存在する農地や関連施設も含めて、魔物の脅威を遮断するため、十年ほどをかけて作られたのが第二外壁である。
今、アルテミシアが居るのは、第一外壁と第二外壁の間にある草原だ。
開発はまだ進んでおらず、夜の闇は草原の果てにある外壁の姿も、後方の街も覆い隠してしまう。
(……セツナと旅を始めてから、こうした夜が多い。)
眠れない夜。アルテミシアは、自身の熱を冷ますために、こうして夜風にあたることが多い。
幼いころは、広い世界のことが気になったり、父から教えてもらった新しい技を早く試してみたくなったりで、眠れないことが多かった。
成長した彼女は、一晩くらいは眠れなくとも、その次の日くらいは活動に支障はないだろう。
ただ、万全を期したい。自身が試験に落ちれば、その分セツナの歩みが遅れてしまう。それは不本意だ。
その不安が、眠れない理由のはずだ。
それを自覚すれば、より眠れなくなってしまう。そんな気がする。
(……考えるな。心に、目を向けるな。認めれば、戻れない。)
自身の心に、ふたをする。
あふれそうで、揺らぎそうな己の心の奥底から目を背けて、
不安を自覚しないように。アルテミシアは草原を駆け始める。
━━━その夜、草原に一陣の風が吹いた。
* * *
「はい。シルバーランクの試験ですね。傭兵資格はお持ちでしょうか?」
「ない。」
「かしこまりました。それでは新規の傭兵登録希望者ということにさせていただきます。」
翌日。窓口にて手続きを受けるアルテミシア。当然のように窓口にはギルドマスター。これほどの頻度で窓口にギルドマスターが居て、仕事が回るのか少し気になった。有能である証なのか、それとも、他の理由があるのだろうか。ともかく、最高責任者が居るということで、こちらの登録は極めてスムーズであった。
「こちらが受験番号票です。無くさずにお持ちください。35分後に試験開始です。五分前までには試験室で待機してください。」
「わかった。感謝する。」
一礼して、アルテミシアは一度ギルドの窓口を離れた。思えば、昼下がりだというのに割と人数が居るような気がする。よく見ると、自分と同じ受験番号表を握りしめている者もおり、彼らが同じく傭兵試験の受験者であることが分かった。
『私、当日は、ギルドの雑用依頼でもこなして時間をつぶしているので、一人で頑張って下さい。』
この場にセツナはいない。彼女は朝早くから部屋を訪ねてもおらず、単独行動だった。
準備は万全なのだが、やはり心細い。
だが、緊張で動かずにいても始まらない。まずは、試験場へ。アルテミシアはぎゅっと自分の胸の中心をおさえ、一度深呼吸すると、ゆっくりと階段を上り始めた。試験場は4階である。ギルドでは時折学習の機会の少ない事項に関しての講義を行うことがあり、こうした講義で使う教室を試験場に流用しているのだ。
(しかし、凄い建物だな。いったいどうすれば、こんなに高い建物を建てられるのか、見当もつかない。)
傭兵ギルド本部は、15階建ての高層建築だ。この時代では魔術抜きで建築しうる最大の建造物と言える。傭兵ギルドに求められる機能は多く、建造時、当時の傭兵ギルドのギルドマスターが余計に高く建造したという逸話があるほどだ。
無論、通常の木材や鉄材ではこの建築はかなわず、あまり地下を深く掘れない関係上、基礎はデビルズヴォイドで採ることのできるアビスサンドを用いている。焼いて固めたこの砂は世界でも類を見ないほどに強靭な建造物の素材となり、強度はXXXランクと規格外だ。無論、基礎と一部の要所だけで、基本的には木材を使用しているのだが。
冬の街、クーユルドでは住民の大半である傭兵たちが寄ってたかって家を建てるが、アルテミシアもたまに手伝いに入ることがある。そんな彼女でも、この15階の高層建築には技術の粋が込められていることに気が付いていた。
(……セツナの話では、これが100年以上は前に建てられていると聞く。改修されることがあっても……これは驚異と言わざるを得ない。……いや、今は試験に集中だ。)
思考があらぬ方向へと向かっていることに自ら気が付いたアルテミシアは、頭を振って思考を引き戻す。
そう、試験。今日の試験は、今までに経験したことのない、知識を問う試験である。
試験は、傭兵が遵守しなければならない法令についての問題が中心である。
傭兵ギルドは国際的な組織である。国家間を行き来する彼らは現地の法律も無論のこと守らなければならないが、傭兵について定められた国際的な法律も存在する。これはギルドが各国と協議して定めたものであり、反すればギルドによって処分が下されるものだ。
なお、ギルドが主体となって定めた国際条約群にいくつか批准していない”帝国”における特記事項もすべて暗記しなければならない。土地が違えばルールも違う。知らなかったではすまされないのだ。
なお、このような試験があるのはシルバーランク以降となる。アイアンランクやブロンズランクは、規制が緩い代わりにできることも少ない、という実情のほか、こうした試験に参加できるほどの教育を受けていないものも多いからだ。
事実、国際的に傭兵と認められるのはシルバーランク以降であり、アイアンランクやブロンズランクでは、国境を越えた傭兵活動は認められないのだ。セツナもシルバーランクになるまでは、修行に他国へ連れ出されることはあっても仕事は神流皇国の中で済ませていた。
(………。)
教えられた内容を頭の中で反芻しながら、アルテミシアは席に着く。席には既に筆記用具が準備されている。外から筆記用具を持ち込む必要はない。
教室の中にいる受験者の数はそこそこだ。教室いっぱいになることはなさそうだが、8割ほどが埋まっている。みな、一様にどこか緊張しているように見える。
「時間ですので、問題用紙をお配りします。席に座って、そのままお待ちください。」
スーツ姿のギルド職員が現れ、問題用紙を裏向きに配り始める。アルテミシアにとって……この場にいる全受験生にとって、あまりにも長い、静寂が幕を開けた。
* * *