49
「…ふぅっ……ふぅっ……ふぅ……っ!」
息を整える。ここまで約23時間。セツナはほぼノンストップで走り続けていた。アイテムと培ってきた技術を駆使し、ほぼすべての戦闘をやり過ごしたセツナは、やっとのことで標高5200m地点にたどり着いていた。
ただし、セツナの体力と精神は、道程の半分という地点でありながらほとんど削られつつあった。
多くの耐環境魔具を装備しているとはいえ、大荷物を抱えての登山を走りこんで行うなど狂気の沙汰だ。魔力操作をほぼ使っていないセツナであったが、精神的な疲弊度が大きく、魔力の出力が低下している。
今の彼女の魔力残量は、最大魔力量の半分といったところだ。魔力の消費はなくとも装備品によって魔力を消耗するセツナは、魔力出力の低下はそのまま魔力の消耗につながる。休息、とまではいかないが、小休止をいれて少しでも精神的な損耗を回復する必要があった。
どちらにしても、ここから先は走っていくことはできない。目の前にあるのは壁のようにそびえたつ、ほぼ垂直な傾斜の山肌。
セツナが行く最短ルートにおける、最大の難所だ。地形変動によって生み出された地形であるため、特有の名前は存在しないが、短期での登山を望むセツナにとっては鬼門といえよう。
「行くしか、ありません……!」
臆している時間も、セツナには惜しかった。呼吸が整うやいなや、セツナはこの絶壁に挑むため、岩肌に手をかけた。
☆ ☆ ☆
2000mを超えるこの岩肌。どうしてここが「ルート」とされているのか、という疑問は当然のものである。セツナも、無論ことそれは調査済みである。
理由はいくつかあるのだが、もっとも大きな理由はかかる時間と危険が相対的に少ないから、である。
しかるべき装備を以って挑まなければならないだけで、この絶壁は他の魔物すらも寄せ付けない。この絶壁は生物が生身で耐えられる場所ではない。
……セツナにもすぐにわかった。たかがBランクの傭兵が、どうして入手難度Sランクの素材を使った高級素材が必要なのか。どうして支度金に8000万ピーク(約6000万ゴールド)もの大金を渡されたのか。
山下ろしの風が吹く。真っ白な冷気がドラゴンの吐くブレスのように吹き降ろされる。
「ぐぅっ……!!」
装備の表面が凍結する。熱を発するアグニフラワーの特殊鉱糸を使ってもなお、あるいは、低温や低圧を防ぐ山岳活動用のポーションを服用していても、痛みすら感じる絶望的な寒さ。指先の感覚がなくなり、呼吸を止めなければ肺が凍りそうになる。
一筋縄ではいかないのは、その通りだ。
この絶壁の先は、静寂点につながっている。静寂点では気体が固体や液体としてしか存在しない。そんな冷気……極限の低温環境にさらされた冷気が、魔力を伴って襲いかかってくる。
未踏破領域の恐ろしいところだ。環境が持つ魔力を跳ねのけられなければ、その魔力は幻想的な影響を与える。このファールス連山では、たとえどんなに温度を持っていようとも、環境が持つ魔力……幻想に対しての耐性を持たなければ物理的事象の一切を無視し、摂理を捻じ曲げてそのものを凍結させるだろう。
たとえどれほど優秀な装備を持っていても、装備者が力を持っていなければ、まるで意味がないのだ。
「ふぅっ………!」
岩肌に深く突き刺さしたハーネスを唯一の命綱にして、セツナは深く深く息を吐く。全身の魔力を巡らせ、吹き降ろす吹雪が持つ幻想を跳ねのけるために。
ただのBランク傭兵であれば、ここで一も二もなく、氷像となって永遠に岩肌に張り付いていただろう。だが、彼女には彼女の身を護る装備と、それを扱うだけの技量がある。
「…………っ!」
やがて、吹雪が過ぎ去ったころに、セツナの装備が機能を取り戻す。凍り付いた装備が熱を取り戻し、すぐさま彼女に熱を与え始める。体内に魔力を巡らせることはできても、肉体ではない装備に魔力を十全に巡らせられるほど、セツナは技量を持ち合わせていない。
だが、冒険者や上位傭兵ともなれば、このSSランクはある環境的暴威を真っ向から食い破るだろう。技で、装備で、あるいは、その両方で。
この絶壁がルートとして示されているもう一つの理由は、そもそも静寂点に赴くような冒険者や傭兵は、この程度の環境による暴力など、意に介さないからに他ならない。
「………まだ、ここから、です……!」
バリバリバリ、と体の表面を薄く覆った氷を破りながら、再びロッククライミングを開始する。
2000mというあまりにも厳しすぎる高さ。これを、彼女は1日で上り切らなければならない。
必要なのは、強靭な精神力。必要なことを、必要な時に行える冷静な判断力。そして、決してぶれることのないペース配分、それを可能にする経験と、直感。
ただのロッククライミングであれば、Bランクの身体能力なら1日での踏破など難しくはない。
これは、それを少し疲れた体でこなすだけでいい。
「………ですが。」
だが、現実問題として。このままでは魔力が足りなくなることは明白だった。まだ道程の半分もいっていないのに、すでに魔力が半分を切っている。ここから先環境が厳しくなることを考えると、このままではセツナはいずれ道中で魔力を切らしてしまうだろう。
(……効率的な運用、というものを考えねばならないようですね。)
魔力の効率的な運用。そんなものをセツナは少なくとも聞いた覚えはないが。このままではどのみち枯れてしまう。これが試練、修行の一環であるというのなら、セツナはこれを突破するべく新たな技術を身につけなければならないのは必定だった。
(少なくとも、今の私のままではどうにもならない。
………脚を止めず、上り続けながらでもいい。少しづつ、考えなければ。)
幸いというべきか、彼女は常に環境の魔力に対抗するために魔力を己の身体に循環させている。この循環に手を加えることくらいは、セツナの練度では何でもないことだ。
この長すぎる絶壁を上り終える前に、答えを見つけ出さなければならない。
そうでなければ、この先、彼女は進むことはかなわないだろう。
* * *
「そう、ですか。」
セントラル傭兵ギルド。セントラルに存在する4棟の高層建築のうちの一つの上層階に、彼女の書斎は存在する。見たところは青を基調とした内装で、書籍の詰まった棚がいくつも立ち並び、調度品一つとっても素材から手掛けた職人までもをえりすぐっており、部屋を一目見るとすべてから目を離せず、常人ならば情報量の多さに卒倒するほど、彼女の部屋は有害さすらあるほどに豪勢だった。
そんな部屋に、そのような内装を異に介さず内容の深刻さに頭を抱えるキヤフと、報告を上げる特務職員が居た。
サンキアがその気なら、セツナを止められる手段はいくらでもあっただろう。彼はノースエリア、大陸の北部を統括する傭兵ギルドのギルドマスターだ。力づくで止めたのならば、セツナが抗える可能性などなかっただろう。
しかし、彼は止めなかった。止めるそぶりすら見せなかったということを「狼」から報告されている。キヤフはサンキアに任せていたので他の妨害工作など考えもしなかったのだ。報告を受けたころには、時すでに遅し、である。
セツナの難行に、「狼」が付いていてくれるので、万が一のことがあっても命だけは助けられるだろうが……
「……下がっていいです。監視は継続させてください。……道中の苦難の排除は、ゼンが許さないでしょうし、ただ無事でいてくれることを、祈るほかはなさそうです。」
「はっ。」
職員の女性が一礼し、その場から立ち去る。彼女が立ち去ったのを見届けてから、キヤフは指を一度ぱちりと鳴らした。
すると、彼女の部屋は机を覗いたすべてが白い壁に覆われた無機質な部屋へと音とともにがらりと切り替わる。彼女の書斎は、世界中に存在する特務職員とのコンタクトをとる機能を持ち合わせているのだ。
この世界には火種が尽きない。世界の均衡を、争いによる人的資源の損耗を食い止めるには、世界中の諜報員と連絡を密にしなければならないのだ。
「……全く、ゼンは何を考えているのですか。
セツナさんには早すぎる。……アレと、相対するには。」
そんな彼女の発する不吉なつぶやきは、誰にも聞かれることなかった。