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「これは………!」
道中、小さな町や村を巡り、補給をしながらも先に進んでいたセツナだったが、その圧巻の絶景に、目を見開いた。
見渡す限り、銀色の地平。
はるか遠くに見える山脈に至るまで、まったく起伏の見られない、あまりにも広すぎる雪原が目の前に広がっていた。
まるで白い絨毯か何かのように、その雪原には何もないように見える。
ここは「千年雪原」。雪が降り積もり続け、すべてを埋めてしまった雪のみで構成された、大雪原である。
食い入るようにその光景を見つめるセツナ。彼女は、この美しい風景に魅了されていた。
もとより冒険のために傭兵になった彼女だ。こうした大自然の美しさというものには、目がないのである。
「千年雪原」は幻想領域の一つであり、この雪原は地上ではなく、進む際には地下を進むことになる。
地上を歩くと、どこかの拍子で崩落し、地の底に叩き込まれてしまうからだ。
この雪原の地下は氷でできた巨大な地下迷宮となっており、上層からの雪を、複雑にかさあなり合った氷柱が支え合っている幻想的な光景を見ることができるともいう。
無論のこと、馬は通れないエリアだ。セツナはこの雪原を迂回しながら進むことになる。
今回は依頼があるのでスルーするが、セツナは実のところ探索したい気持ちでいっぱいであり、帰りに時間があれば、数日潜ってみるつもりであった。
神秘の雪原の地下に思いを馳せながら、馬車をゆったりと走らせるセツナ。雪原の周りをぐるりと囲む森の一帯は、馬車が走ることができる程度には土地が整えられている。舗装されているわけではないが、車輪の揺れが馬車に伝わらないような刻印術式が、車軸や荷車の底面に刻印されているため、酷い揺れに苛まれることはない。
魔力はそれなりに消耗するが、セツナはBランク。この術式に必要な魔力量はDランク相当であるため、この程度の術式で消耗する魔力など、あってないようなものである。
そんなこんなで馬車を進めていくと、遠くに白煙の立ち上る場所が見える。
千年雪原地下への入り口となる街・スヴァルバード。幻想的な地下迷宮への入り口であり、冬土連邦最大の温泉街だ。
観光目的で来たのではないので、長居はしないが、一日、セツナは補給や馬を休ませるなどの目的のために、ここに滞在することになる。
しかし、長居はできないとはいえ、こんな寒い冬の世界で入る温泉は格別なのだろうなぁ、と、期待に胸を膨らませるセツナなのであった。
* * *
この冬の街の成り立ちには、いくつかの伝承がある。
曰く、冬の女王が収めていた小さな国の跡地、だとか、氷の迷宮の奥深くで温泉を見つけたと叫んだ冒険者が、話を誰も信じないがために、温泉をここまで引いてきた、のだとか。雪原の地下に眠る宝を求めてやってきた盗賊たちが作り上げた街だった……だとか。
普通、歴史や伝説といえば似通ることも多々あるのだが、ここの逸話はいろんな別れ方をしている、どれが正しく、どれが間違っているのかは、もはやだれにも判別がつけられないのだとか。
なお、この手の話題は街の住人に振る行為は旅人の暗黙の了解で禁じられている。
誰も、火種の中に爆弾を投げ込もうとは思わない。そして、セツナもそうだった。
冬土連邦でも屈指の観光地であるこの場所は、アクセスが悪すぎることを差し引いても、なかなかの盛況ぶりであるように感じる。
神流皇国………東の果ての島国、セツナの故郷を思わせる様式の風呂だったり、一方で帝国式の大衆浴場のようなものもある。特異なものでは熱を利用した砂風呂、岩風呂なんてものもある。
岩風呂は熱された炉の中に熱された岩が敷き詰められたもののようにセツナには見える。あの中に生身の人間が入っては相当な熱耐性がない限り死ぬだろう。しかし、竜人の中でも、火竜系の血筋を持つ者だったり、岩人だったりすると、温水程度では熱を感じられないので、そうするしかないのだという。
また、馬車を引いてくる、馬用の温泉、というものもある。
セツナは馬車を連れてきた馬をその温泉に預けると、ギルドを通して予約を入れていた宿屋へと向かった。
宿の屋号を「薪の蔵」という。
まるで今から燃やされそうなネーミングであった。
* * *
「あぁ……骨身に、染みるとは………このこと、ですかぁ……♪」
浴場にて。セツナはとろけていた。それはもう、だらしのない顔を晒しながら。
本来、傭兵に入浴は必要ない。汚れ落としやにおい落としなど、自身の衛生を支える術式や薬などはかなり多種多様であるからだ。
未踏破領域で数か月もの長い間、長期遠征をする彼らは、特に匂いが残ることを嫌う。
体が不衛生だと、においに敏感な魔物に感づかれたり、最悪襲われたりするからだ。
セツナは魔術派で、いつもは購入している再利用可能なスクロールを利用している。一応緊急用に「業落し」という名の強力な対人洗浄剤も持ち合わせている。どちらにしても、冒険を支える大事な代物だ。
こういった製品が出回っていることにより、普通、人は風呂にも入らないし、シャワーも浴びる必要はない。しかし、湯につかる、水を浴びるという行為がもたらすある種の快感は、人々の文化からは拭い難く、根強く残り続け、今では娯楽の一つとしてたしなまれている。
そして、普段から湯につからないセツナは、本当に久しぶりの入浴に、身も心も癒されつつあった。
もとより寒空の中、何日も行軍してきた彼女である。受ける心地よさにも、計り知れないものがあった。
「…………そういえば。」
不意に、セツナは思い返す。
温泉で湯につかったのは何も初めてのことではない。初めて入浴したのは、師匠に連れて行ってもらった、ウィガル大炎砂漠近郊の、とある火山地帯の街での話だった。
煮えたぎるような熱湯で、当時のセツナは一瞬でのぼせてしまった。あの時、セツナには入浴の本当の良さというものがまるで分らなかった。
実はあの湯はAランク未満の者には足湯や半身浴で済ませるべき場所であったのだが、師匠が完全に伝えるのを忘れていたので、その割をセツナが食ってしまった形になる。
『夏の土地で入る温泉は、お前にはちょっと早かったな。冬の土地になら、今のお前でも入れる良い温泉もあるんだが……俺は連れてってはやれねぇ。ちょっとした、一身上の都合でな。』
師匠は多くの場所にセツナを連れて行ったが、ノースエリア……大陸の北側には一切近づかなかった。次の目的地に行くのに近道となる場合でも、必ずセントラル以南を回り込むようにして向かった。おかげでセツナはセントラルのことを話でしか知らなかったわけだが。
「………師匠はなぜ、ノースエリアには、ファールス連山には近づかなかったのでしょう。」
夜景を温泉の中で眺めながら、とりとめもない思考を巡らせる。
しばらくしてセツナは、温泉の中でうとうとと眠りについてしまい、またのぼせてしまうのは別の話。