10
滝のように落ちてくる魔物の群れは、それぞれがそれぞれを押しつぶしながらセツナに向かって駆け出していく。圧倒的な物量。小規模スタンピードとはいえ、小さな村の一つや二つは、対応を誤れば飲み込まれるような、大軍勢。たった一人で相手をするのは無謀に等しい。ゆえに、セツナはここまで逃げ続けた。
着地と同時に、彼女は足を止めた。これ以上逃走するのは不可能という判断からだ。
位階を二つ越えるような強化を、長時間脚にかけ続けた。それは、節約し続けていた膨大な魔力を回し続けてこその暴挙。だが、今はそれを支える魔力はない。
彼女は、振り返った。体を纏うのはほんの少し、薄い魔力。脚に集中させていた魔力を、今度は全身へ巡らせる。
彼女のこの行為は、諦めた、というにふさわしいかもしれない。絶望的な状況で足を止めることは、彼女の死につながるのは火を見るよりも明らかだった。
だが、彼女にとっては、違っていたらしい。
「………ああ、もう。」
彼女の声には、ほんの少しばかりの喜悦が混じっていた。
落下から立ち直った魔物たちが、もはや数秒もしないうちに彼女を飲み込もうと濁流のように迫る。
「ワクワク、しますね……!」
ほんのわずかな震えの混じった、彼女のつぶやきは、その発した本人ごと濁流の中へと飲み込まれ。
気が付けば、先頭を進んでいた熊のような魔物の首を引き裂かれていた。それはまさに、何かの冗談のように。
彼女が、前にメビウスの人ごみで使ったのと、同じ技。
魔力とは力である。重さを持たず、人の意志や情動に影響を及ぼされる力である。そしてその力は、ある程度の物理的影響力を保持している。
先鋒の魔物たちの攻撃をすり抜けたのは、力の流れを操作したからだ。彼らの力を後方へと受け流し、その反作用として自身の体を前方へと進ませる。難易度の極めて高い、しかし……高位の傭兵にとっては必須であるその技能。
完全に受け流しきることはできない。事実、熊の爪を受けたセツナの脇腹は、血まみれのそれであった。だが、人間の胴体を両断しかねない鋭さと力を持ったその攻撃を、受ける場所を変え、受け流し、その力を流動させて刀に伝えて、あの首を落としたのだ。
そして、彼女の地獄が、始まった。
四方八方。文字通りの全方位から、攻撃が集中する。彼女は狙いをそらすために、集団の奥へ奥へと食い込みながら、時に攻撃を、ほかの魔物の体を盾にしてしのぎ、舞い続ける。
……受け流しにも弱点はある。物理的な威力は流すことはできても、電気や炎、氷、毒といった、彼女の体を衝撃以外の方法で傷つける攻撃には無力だ。そんな魔物を見かけるや否や、セツナの刀は翻り、周囲の魔物の攻撃の威力を借りて、叩き斬った。
また、完全に攻撃を受け流すことも、またできない。
今のセツナの技量では、体の芯を捉えてくるような攻撃については受け流すことすらできない。そうでない攻撃でも、減衰が精いっぱい。初手の熊の攻撃など、セツナには知覚するだけで精一杯なのもあった。さらに言えば、ここの魔物は基本的にセツナよりも基本スペックが上であり、回避は絶望的であった。
加速度的に、体に傷が増えていく。自身よりもはるかに激烈な攻撃の衝撃を利用し続けたからなのか、セツナの刀はすぐに刃こぼれが多くなり、いつしか見るも絶えないほどにぼろぼろになってしまう。
それでも喜悦は消えない。
……彼女は今、冒険に酔っていた。艱難辛苦を乗り越え果てる、生きる伝説とも称される彼らに、一歩でも近づきたいと、ただひたすらに駆け抜けた人生。
燃やし尽くすように、今この瞬間を生きている。
「ハハッ……!!」
これが冒険と言わずして、なんという。
未経験の危機。時折紛れ込んでいる、彼女の知らない魔物。鎌を剣で受けて流す。爪を足で流す。氷の息を、近くの魔物を盾にして受ける。
意識が加速していく。頭がさえていく。極限の中で彼女は戦いに最適化されていく。彼女本人が気が付かないままに。
ただそれでも、彼女の体にも、限界というものはある。
ぶちり、と、致命的な音が響く。
酷使を続けた彼女の右脚……腱がちぎれた。
スローモーションのように、セツナの眼には、自身に迫ってくる攻撃が映る。
ロックエイプ。岩石のような強固な表皮を持つ、猿型の魔物。洞窟や崖穴のような暗い地形を好む種族だ。そんなロックエイプの拳が、彼女の胴に迫っていた。
避けられない。彼女は理解した。そして、受け流すことも、また難しいことも分かった。
彼女はその攻撃から逃れようと、懸命に体を動かした。なけなしの魔力を、右腕から放出して、その反動で何とかクリーンヒットだけは免れようとした。
結果、即死だけは免れた。
即死、だけは。
「がっ……はぁっ……!」
やすやすと彼女の右の肺と肋骨を吹き飛ばした。心臓を砕かれるよりは、マシだった。
その衝撃で洞窟の壁にたたきつけられ、血の塊を吐き出す。衝撃で刀を取り落とす。
意識を保てたのは、壁に頭を打ち付けた際に、ヘッドライトをつけていたヘルメットが、頭蓋骨の代わりに砕けてくれたからだろう。唯一の光源だったそれが消えて、暗闇が空間を支配する。
ここが命の終わり。彼女は死の間際においてても、笑みを崩すことはなかった。
死ぬのは勘弁だ。彼女は今だって死にたくない。
しかし、死の間際にあっても、後悔はただの一つもなかった。ここに至るまでの選択を、彼女は誤ったつもりはなかったのだ。
暗闇の向こうから、死が迫る気配を感じる。
彼女は最後まで、自身を刈り取るそれを見定めようと、目を開くことに努めていたが。
ついにその瞬間を感じ取ることなく、彼女はその意識を途絶えさせた。