第3章 異世界ルテティア
「私はいつの日においても、たぶんそうであったという確証はないが、立派な魔法使いであったことのみに自分の存在を認めよう。」
わけのわからぬことを話す老人の声が聞こえる。
目の前は意識がはっきりせず、まだぼやけて見えたが、難しい哲学書をひも解いて読みふける人間が立っていることぐらいははっきりした。
「ううん。 ロット、いる?」
アレシアの声だ。
頭によどんでいた悪いものが外へ出て行き、今度はいつもと変わりなく彼女の姿をとらえることができた。
「ああ、アレシア。 君は大丈夫?」
「ええ。 でも二人は…」
「ここにいるよ。」
レオミスが寝そべりながら、そのままの姿勢で片手を上に伸ばした。
その隣にはミレットがうずくまっている。
「大変。 ミレット、生きてる?」
「ん。 アレシア、もう朝?」
彼女はうつろな目をして寝ぼけているためか、口の端からよだれを垂らしているのがわかる。
「へえ、意外だな。 こんな性格でも、案外行儀が悪いんだな、ミレットは。」
「えっ?」
ふと唇に冷たい感触を覚えて、さらにはそれをロットに見られた彼女は今さらではあるが、一応隠したというつもりでよだれをハンカチで拭きとった。
「わ、わわわっ! 今の見ちゃったの?」
ロットはあわてるミレットに笑顔でうなずく。
「わあっ! だめだよロット、忘れて、忘れて! それが無理なら、えっと、わわっ! れ、レオミスだけには言わないで…」
彼はというと、気持ち良さそうに木の床に転がっている。
「分かってる。 なあアレシア。」
「もちろん。 それはそうと、いつまで寝てるのよ!」
アレシアはレオミスの顔をつねり、彼の叫び声が部屋中に響いた。
「やれやれ、最近の客ときたら、礼儀を知らんな。」
彼らは近くのイスに腰掛けた老人がいることをすっかり忘れていた。
「あんた、誰だ?」
老人はレオミスの質問に対し、分厚い本をパタンと閉じて立ち上がると、彼にこれでもかというぐらい顔を近づけた。
「うわ、なんだよ?」
鬼のようにつりあがってねじれた眉毛に、灰色のひげ。
一言で言うなら頑固、とも見える老人はレオミスに言った。
「弱そうじゃな。 そのくせ自分は冒険好きのさすらい野郎だと思い込んでおる。 そもそもだ。 人の家に勝手に現れたのはお前さんたちだ。 あんたは誰だと聞ける立場でないことからも分かるように、お前はこのままだと大人になるころにはチンピラの仲間入りをはたしておろうな。 かわいそうな奴じゃ。」
レオミスはその言葉に一瞬むかっときたが、鋭いことを言われて、何も反論できなくなった。
「突然おじゃましてすみません。 ここはどこですか? ほら、あんたも謝るの。」
アレシアが彼の頭を無理やり下へと押す。
「ここのことを聞いてどうする?」
「えっ?」
「どこから来たかは分かっておる。 そしてどうしたいかもすでに知れたこと。 帰りたいのだろう? ならその方法はと訊くべきではないのかな、お嬢さん?」
意外な質問にアレシアは戸惑ってしまった。
この老人には人を見透かすような何かがあるからでもあった。
「女にとって若さは命。 君は私への無駄な質問で時間を費やしているのだよ? それとも、このルテティアに興味がおありかな? よせ、くだらない。 かかわるだけ人生の浪費にすぎん。」
「なら帰る方法を教えてください。」
ロットが簡潔に事を済ませようと老人にたずねた。
しかし老人はフフフと笑う。
「帰りたいだって? 君は何も分かってないようだ。 ここは異世界だ。 君たちの家は鳥のように空を飛んだって見つからんよ。」
「異世界? あの、僕たちは教会からやってきたんです。 ここの家の人なら、戻れる方法を、もとの世界に帰ることのできる手段を教えてください。 知らないんですか?」
「知っておる。 だが、ただで教えるわけにはいかん。」
老人は一応彼らを客として迎えたつもりなのか、テーブルにカップを四つ置き、順に茶を注ぎ始める。
「どうすればいいんですか? 何でも言ってください。 皿洗いでも、洗濯でも結構です。」
「おい、ロット。」
「分かってくれ、レオミス。」
確かに老人のいいなりになる以外方法はない。
「よろしい。 不法侵入は事実じゃ。 だからわしも腹を割って話そう。」
彼はロットたちにテーブルに座るよう指示してそれぞれ全員に紅茶を勧めた。
「わしの名はセチェック。 ここの家で異世界の番人をしている魔法使いじゃ。」
「おじいさん、魔法が使えるの?」
ミレットが興味深そうな目をして、彼の座っているイスにかけてある杖を見つめる。
「かわいい女の子じゃ。 名は?」
「ミレット。 ミレット・ラッツェンレヒトです。 あっそうだ!」
彼女は三人の自己紹介もしておく。
「ロットにアレシア。 そしてレオミスじゃな? その通り、この杖は雷魂バーゼル・フェルト。 悪しき心に雷を下す罰杖じゃ。 本来なら魔法で人を向こうの世界におくりだすことができようものを、この年では力も弱まる。 だからもし魔法を使っても、君たちをもとの世界に帰すことができるかは保証できないのじゃ。」
「なんだよ。 それじゃあ俺たちタダ働きじゃないか。」
「話は最後まで聞かんか。 バカ者が!」
老人はバシンとレオミスに向かってテーブルをたたき、四人のカップの茶色い水面が大きく揺れる。
「こんな体だ。 魔力が増大する薬が近々必要になるだろうと予想しておったが、それが現実となった。」
「その薬はどこにあるんですか?」
今度はロットがテーブルを叩いて立ち上がり、またカップがガチャリと音を立てて揺れた。
「龍じゃよ。 ここからずっと西、ハレニの森を抜け、険しいベルベッド山道を歩き、その先、火の河口と呼ばれる谷の頂にそれはおる。 その龍、ゼノンティアヌスのたてがみから取れる蒼玉に含まれる成分には、魔の力が宿っているのじゃ。 魔力を取り戻すには、それを水にとかして飲むしかない。」
「冗談でしょ?」
龍など子供に倒せるわけがない。
アレシアはこぶしを思いきりテーブルに叩きつけた。
激しい震動で老人のカップからはついに中身が勢いよく飛び出た。
それをミレットがすかさずハンカチでふきとる。
「もちろん、生身の人であるお前さんたちだけでは無理じゃ。 そこで…」
セチェックは立ちあがり、後ろにあったクローゼットの引き出しから何かをとりだしてテーブルに置いた。
「何よこれ。 指輪?」
そこには太陽の紋章飾りのついた青い四つの指輪があった。
「その指輪は、つける者に魔力を与える。 このルテティアは魔力で成り立つ世界。 魔法を使えんと人を守ることもできん。 だから、魔力の素質のある者は皆身につけておる。 だが貴重な物であることにはかわりない。 大事にするのじゃ。 この世に魔法をもたらした偉人ソリデュス。 人々はこう呼んでおる。 ソリデュスの権章と。」
「きれい。 おじいさん、これ、私たちにくれるの?」
「与えるのではない。 願いを全てかなえるまで貸すだけじゃ、ミレット。」
「全て?」
ロットはいやな予感がした。
「お前さんはさっきなんでもすると言った。 一人につき願いは一つ。 人の世が不公平だと嘆くなら、まず己の行動に気をつけよ。」
「つまり、あたしたちが四人だから、あと四つも願いをかなえるの?」
アレシアも険しい表情になる。
「くそっ! とんでもないジジイだ! 足元見やがって。」
「心外だなレオミスよ。 四人でここに来たのは、好奇心からではなかったか?」
確かに言いだしっぺはレオミスだ。
「冒険に危険や予想外の出来事はつきものじゃ。 ゲームと同じように、楽しいばかりではあるまいに。 ここはロンダイクの都ヘルゲンスハイムの郊外。 旅をしたくはないか? 若者たち。 いや、少年少女たちよ。 こんなチャンスはめったにない。 そうであろう?」
セチェックはアレシアのほうを見てウィンクする。
老人の言葉に四人は笑みを浮かべ、互いに顔を見合わせる。
そのとき四人は何かに突き動かされていた。
言いくるめられたのではなく、彼らの意識を持って結束する力がみなぎってくる何かだった。
「人生の浪費とは、必ずしも悪い意味でとらえるべきではないと分かったのじゃな。」