母の話
今、目の前で起きたことは現実だろうか。部屋を飛び出していったのは、本当に晴だったのだろうか。
かみ、飛行機……?
疲れの抜けない頭でぼんやり考えていたけど、じわじわと喜びが胸に広がるにつれ、目も頭も冴えてきた。久しぶりに見た息子の姿は荒れていた。髪はボサボサ、すべすべだった肌には強情そうな髭、上目遣いで無邪気に母を見つめてきた瞳は、頭一つ上の高さから見下ろすようになっていた。けれど愛らしい瞳は昔のままだ。息子はそのままドアを開けて外へ飛び出していった。
「ガチャン」
ドアが閉まる。
その頃には幸福感が体中を包んでいて、足元はふわふわ、というより揺れているように感じた。地震かと疑ってしまいそうだが、自分の鼓動がそうさせているのはわかっていた。
追いかけーー…… いや、だめだ。
追いかけてしまうと、ずっと待ち望んでいたこの状況がきっと止まってしまう。
でも居ても立ってもいられなかった。一人ではとても気持ちを抱えきれない。誰かに知らせたい。窓から叫びたいくらい。叫んでしまおうか。いやとてもそんなこと……
「そうだ、回覧板でまわそう。」
某CMみたいに思いついた案は最適解だと思った。落ち着いていたら悲鳴をあげるほどの狂気の沙汰なのに。でも止まらなかった。
丁度うちで止まってた回覧板の上に新しくコピー用紙を挟み、思いの丈を書き殴る。興奮して文字は震える。そんなこと気にならなかった。この気持ちを今、勢いのままに表現してぶつけたかった。
「息子が顔を見せてくれました。外の世界へ一歩踏み出しました」
トチ狂ったことをしているという自覚は頭の隅に少しあったけれど、私も外に飛び出さずにはいられなかった。
初めて作った回覧板を胸に抱き、隣の部屋のドアを荒めに叩いた。