ガラスの奥のエキストラ
時間が、止まった気がした。
目の前の数十羽のペンギンのことも、隣にいる貴方のことも、全て忘れて、私の視線はガラスの奥を見つめていた。
長い、長い、1秒間。
見慣れたい茶色い髪、耳に光るシルバー、広い肩幅とかがむような猫背。細長い目尻に、黒く丸い瞳。
でも、私は知らない。
そんな柔らかな微笑みも、そこ瞳に映る影のことも、何も知らなかった。知りたくなかった。
ちらり。
彼の視線が動き、私の視線と交わった。
ドクン、ドクンと自分の心臓が驚くほど早く耳障りに高鳴る。これまでの人生でこんなに早く動くことがあっただろうか。
一瞬。瞬きすらいらないほどに、視線は隣の彼女へと移る。
袖をぐいっとひき、おそらく、どうしたのかと尋ねる彼女。
何事もなかったかのように微笑む男。
まるで世界に2人しかいないような、そんな空間が、時間が、その光景が、私の心臓をさらに跳ね上がらせた。
「ごめん、ちょっと」
呑気にペンギンを眺める隣の男に口早に告げ、逃げるようにその場を離れた。
見たくなかった。知りたくなかった。
そんな風に笑う貴方のことも、何も知らずに彼を愛する女性のことも、ひどく脈打つ自分の心臓も、全部、知りたくなかった。
走馬灯のように彼との5年間が脳裏をよぎる。
どこにでもある、ありふれた男女の関係。
自分が都合のいい女だと言うことも、彼に彼女がいることもわかっていた。わかった上で、都合のいい関係、なんて言葉を傘に、貴方の体だけを手にしていた。
「セックスはしたいけど、恋愛はしたくないんだよね。だから、この関係がちょうどいいんだ。」
嘘だ。
「好きとかそんなんじゃないよ。だったら他の人と付き合わないでしょ。」
嘘だ。
気持ちを隠すために貴方に吐いた嘘。
「だよなー。この関係が俺たちにはちょうどいいよな。」
安心したように笑う貴方に、わざと大袈裟に笑って返した。
貴方と触れ合える時間を無くしたくなかった。
「あの人結婚したらしいね」
「そうなんだ〜連絡とってないから知らなかった!奥さんどんな人かな?」
[結婚?どういうこと…?そんなの、知らない。]
友達から聞いた貴方の結婚報告。
「結婚したよ。言ってなかったっけ?」
私への想いなど微塵も感じられない貴方からの返信。悲しみと怒りと虚しさでブロックした貴方の連絡先。
「やっと忘れられたと思ったのに、なんで?」
色を失った顔を覗き込みながら力なく呟いた。
連絡を断って半年。
互いの家から近いわけでもないこの水族館で、ただの休日の、同じ時間に、なぜ、1番見たくない姿の貴方と出会ってしまったのだろうか。
偶然という言葉で片付けるには気持ちが追いつかなかった。
無理やり記憶の奥に追いやった彼に対する愛情が、苦しさに変わって押し寄せる。
視線を逸らされた瞬間思い知った。
彼の物語の中で私はただのエキストラでしかないのだ。
例えるなら幸せな恋愛小説。彼と彼女の幸せな物語の中に彼の浮気相手である私は存在しない。
5年という長い時間、私にとって貴方は全てだった。
「貴方は違ったんだね。」
硬くしまった蛇口に手を伸ばし、両手で水を掬った。
沸々と湧く感情を流すようにパシャリと顔に水をやる。
ブブブッ
ポタポタと滴る水を拭いながら、ポケットのスマホに手を伸ばす。
あまりに長いトイレを心配した彼からのメッセージかと思い液晶画面を開くと、SMSの文字が浮かんだ。
ドクン。さっきとは違う音で心臓が跳ねるのを感じる。
開いたメールアプリの1番上には080から始まるメッセージ。
【綺麗になったね。】
そっと画面を閉じ、ポケットにしまう。
トクントクンと響く胸を抑え、およそ私の変化になど気づいていないであろう男の元へと向かう。
「大丈夫?イルカショー、見れそう?」
「ちょっと人酔いしちゃったみたい。大丈夫だから早く行こ!」
水槽に映る自分の顔があまりに上手く笑っていた。
私はただのエキストラ。で、終わるはずがない。
もう一度震えたスマホを開きながら、助演への階段を登った。