天海 菜音
「じゃあね。さよなら、兄さん」
物憂げな表情で振り返った妹は、その言葉だけを残して、小さな背中にリュックを背負い、玄関の扉を開けて僕の前から去って行った。妹の名前は果音。彼女は僕、天海 菜音と血が繋がっている、正真正銘、実の妹である。僕はガチャリと音を立てて閉じた扉を呆然と見つめながら、立ち尽くしたまま彼女との思い出をなぞっていた。
「兄さんっ!」
彼女は僕が物心ついた頃から僕のことをそう呼んでいた。4月2日生まれの僕に対して、その1年と11ヶ月後、3月24日に生まれた彼女は、僕より遥かに利発的で、知能の発達も著しかった。僕は幼い彼女の笑顔が大好きだった。光を受けて天使の輪を作る艶やかな黒い髪と、吸い込まれるような黒くて丸い瞳が大好きだった。その、少しかすれた甘い声で呼ばれる度に、僕は心の中にあるプールの底に触れられているようなこそばゆさを感じ、すっかり彼女の虜になっていた。
「兄さん、ねえねえこれ見て!」
自宅の庭、芝生の絨毯の上で、彼女は僕を呼ぶ。僕は自分の手から逃げたボールを追うのをやめ、彼女のもとに駆け付けた。転びそうになりながら、彼女が指差す先を見ると、一匹のバッタが行儀良さげに足を折りたたみ、今にも飛び跳ねようとしていた。
「この子何? バッタだよね?」
「ああ、こいつはショウリョウバッタだよ」
「ショウリョウバッタって、こんくらいあるすごく大きいバッタでしょ? この子は子供なのかな?」
親指と人差し指を広げて見せる果音に、僕は笑って答える。
「あははっ、バカだなあ。こいつはオスなんだよ。だからちいさいんだ。ふつうはすぐとんでいっちゃうからわからないかもしれないけど、ちゃんとハネがはえてるだろう? ヨウチュウにハネはないからね」
「そうなんだ~、兄さん、詳しいんだね」
「まあねっ」
得意げに振る舞う僕は、親に与えられた図鑑から得た知識をひけらかしているだけだった。チキチキと音を立てて飛び去って行くショウリョウバッタを見送る4歳の彼女にとって、目に映る全ての答えは僕にある、まさにそう感じられていたのだろう。しかし、1年も経てばその関係にも変化が現れてくる。
「ほらっ、ショウリョウバッタのオス! つかまえたよ」
「あははっ、兄さん、それはショウリョウバッタモドキだよ。ほら、違うでしょ?」
彼女はスマートフォンを持っていた。画面に映っていたのは昆虫の解説ページ。彼女は5歳にしてそれを使いこなしていた。思い返してみれば、そこに表示される漢字すらも理解していた。そのことに少し衝撃を受けた僕は、入学したばかりの小学校で、妹にとって頼れる兄で居続けるために、過剰なほどに勉学に勤しんだ。周りの生徒たちが遊びに夢中になっている間も、教室の隅でひとり、教科書を読み漁っていた。
「ナオトくん、いっしょにあそぼ」
僕は呼びかけてくるクラスメイトの表情と口調に違和感を覚えていた。それは、周りに打ち解けられない僕を心配した教師に派遣されてきたお利口さんなりの、精一杯の演技だったのだろう。
「いまべんきょうしてるから」
そんなことにすっかり慣れていた僕は、その子に一瞥もくれずに返す。そういったやり取りを何度か繰り返すうちに、僕を遊びに誘う生徒は現れなくなった。しかし、僕が他人を遠ざけることが許されていたのは、その成績が他の生徒に比べて優秀だったからであったのだろう。そして、そんな僕の成績を支えていたのが、妹の果音の羨望の眼差しだったのだ。
「いいかい、これがたしざんだよ。ほら、ゆびをこういうふうにおりたたんでかぞえるんだ。いち、にい、さん、たす、いち、に。こたえは5」
僕は小学校に上がる前の果音にも分かるように、所作を交えながら丁寧に説明していた。
「へー、すごいね兄さん。でも指って5本しかないから、それから先はどうするのかな?」
「あはは、カノン、もうかたほうのてにもゆびがあるだろう? それをつかえば10までかぞえられるんだ」
「そっかー、あははっ」
僕は指折り10まで数える。すると、果音は妙なことを言いだした。
「でも10より上は数えられないんでしょ?」
「そこからさきはカノンがもっとおおきくなってからだね」
「そうなんだ。でもね、兄さん、こうすれば……」
果音は僕の目の前で指を目まぐるしく動かす。そして――
「29、30、31。ほら、片手で31まで数えられるよね?」
その宇宙と交信するためのサインのような指の動きは、途中でキツネを形作ったかと思えば、確かに31を数え上げていた。しかし、僕がそれをいくら試そうとしても、再現することができない。
「え、どうやってるの?」
「あははははっ、秘密だよっ! 兄さんもそのうちわかるよ」
しかし僕がそれを理解するのは、高校1年の情報処理の授業であった。果音は小さな両手でスマートフォンを自在に操り、毎日のように情報の海を泳ぎまわっていたようだ。インターネット上では情報の追跡が可能で、大体のことは答えが見付けられると僕が気付いたのは、中学生になってからのことである。小学生の僕はそれでも、子供なりに妹の模範になれるように、努めて真面目に勉強に取り組んでいた。そのためか、僕は同学年で一番の成績を収めることができていた。
「はい、よくできました! みなさんも菜音くんを見習って、いい点を取れるように頑張りましょうね!」
そんな教師の言葉とは裏腹に、僕は見習われるどころか、疎まれ始めていた。体育の授業では、2人組が作れずに先生と組まされる。ドッヂボールでは他の生徒は僕を無視してボールを回し、僕が最後のひとりになるといとも容易く僕にボールを命中させてゲームを終える。給食の時に机をくっつけてもらえない。そんなクラスメイトの態度に僕は、実質的には何も被害を受けていないようで、心の中では一抹の寂しさを、孤独を味わっていた。だが、それでも頑張って優等生として小学生生活を続けられていたのは、紛れもなく彼女の存在あってのことであった。
「兄さん、遊ぼうよ」
小学生に上がると彼女はあまり外で遊ばなくなった。その透き通るような白い肌は、日光に蝕まれることなく僕の瞳に眩しく映る。白いワンピースから覗く細くて長い脚が、短めに切り揃えられた髪から覗くうなじが、瞬きする度に上下する長いまつ毛が、言葉を甘く響かせるその唇が、常に僕を誘惑していた。
「い、いいよ、何して遊ぼうか?」