罠をあっさりスルーした
「ここ、ですわよね……?」
真っ赤に染まる空の下、指定された場所にやってきたコリアンデはそう呟いて周囲を窺う。まばらに草が生える程度できちんと整備された敷地と、鬱蒼と木々の生えそろう林はまるで見えない壁に隔てられているかのようにきっちりと分かたれているが、この林もまた学園の敷地内部である。
ちなみに何故そんなものが敷地内にあるのかと言えば、男子生徒が訓練で使うからだ。なので危険な野生動物などがいることはまずないが、逆に言えば危険ではない生物……たとえばクモとかカエルとか……は普通に生息しているため、用も無いのに林に近づく女子はまずいない。
「お待ちしておりました、いな……コリアンデさん」
そしてそこに待っていたのは、夜の闇よりなお蒼い長髪を持った少女、ヒダリーだ。
「えっと……ヒダリーさんでしたかしら? 何故ここに?」
「それは勿論、あの手紙を書いたのは私ですから」
「ああ、そうなのですか。ご親切にありがとうございました」
「いえ、同級生として当然のことをしたまでです」
微笑んで礼を言うコリアンデに、ヒダリーは表情を動かすこと無くそう答える。その敵意も悪意も無い様子に少しだけ拍子抜けするコリアンデだったが、それでも気を緩めること無くヒダリーとの会話を続けていく。
「それで、私のドレスは……」
「あちらです」
問うコリアンデに、ヒダリーが視線をかなり高い位置に向ける。釣られてコリアンデもそちらを見れば、そこには間違いなく自分のドレスが風に吹かれてヒラヒラと揺れていた。
「あれは……」
「あの位置ですので、私が回収してお届けすることができなかったのです」
「それはまあ、そうですわよね」
大きな木の枝に引っかかっているドレスの位置は、コリアンデの身長を倍にしてもまだ足りない程に高い。確かにこの場所にドレスがあるのでは、たとえ本当に見つけただけだったとしても回収は無理だろう。
「でしたら、用具室でハシゴか何かをお借りして……」
「おっと、それはお勧めできません。もしも今目を離したら、野生の鳥か獣にドレスを破られてしまうかも知れませんからね」
「ああ、そういうことですか。では、どうやってあのドレスを取るのが宜しいでしょうか?」
「さあ? 私には何とも言えませんが……私の友人が言うには、この木はなかなか登りやすいようですよ?」
「…………なるほど」
遠回しに「今この場で木に登って取れ」と言われ、コリアンデは木の幹に視線を向ける。確かに丁度いい具合に節くれ立っていて、これならば普通の少女でもギリギリ……
「いや、普通は登れませんわよね?」
一般的な貴族令嬢は木に登らない。スカートを履いているというのもあるが、それ以前に木には登らないし、登れないものだ。自分の中の常識がたまに少しだけずれていることを自覚しているコリアンデが、それを修正するべくヒダリーに問い掛ける。
「一応聞きますけど、ヒダリーさんはこの木に登れますの?」
「えっ!? いや、それは……」
まさかそんな事を聞き返されるとは思わず、ヒダリーの顔に戸惑いが生まれる。イジワリーゼの指示で今までにも何度か似たようなことをしたことがあるが、恨み言を言われたり泣きながら許しを請われたりすることはあっても、平然とそんな事を聞いてくる相手は一人も居なかったのだ。
「その様子だと、やはり登れないんですわよね。ええ、普通の貴族令嬢は登れない……なら私って一体……いや、それは自分で望んだことですからいいんですけど……」
「……それで、どうしますか?」
よくわからない理由で悩み始めたコリアンデに、ヒダリーが改めてそう問い掛ける。もし諦めるならコリアンデが去った後に枝か何かを引っかけて無理矢理にドレスを取る……つまりはビリビリに破かなければならないし、登るなら樹皮に施した罠……上方向から切れ込みを入れることで、下から見ても気づけず登るときは平気だが、降りるときは確実に引っかかって衣服を破る……によってボロボロの格好のまま寮に戻るコリアンデの姿を見届ける必要がある。
そしてどちらの結果であっても、自分達は何も悪くないと言い張れるのがこの作戦の重要なところだ。誰も見ていないところで鳥か獣がやってきて服を破いてしまうのは仕方が無いし、ボロボロの格好になったコリアンデを寮まで送ることにも正当性がある。たとえ途中でわざと周囲の注目を集めるようなことをしてしまったとしても、そこは不可抗力だ。
ただ、割と長時間ここで一人で待っていたため、ヒダリーの体は冷えてきている。なのでどちらでもいいからさっさと決めて欲しいと思っていたのだが、思ったよりも悩むこと無くコリアンデはあっさりと決断をした。
「いえ、暗くなる前にさっさと回収させていただきますわ」
ごく気楽な口調でそう言うと、コリアンデはスルスルと木に登っていく。その動きはあまりにも迷いが無く、ヒダリーが驚いて数度瞬きをしている間に、コリアンデの小さな体は枝の上に辿り着いてしまっていた。
「あ、あれ!? もう!?」
スカートの裾がめくれることを恥じらいもしなければ、足下の不安定さに嘆くことも体をぐらつかせて悲鳴を上げることもない。まるでもっと高い木に日常的に登っていたかのようなコリアンデの態度はあまりにも想定外で……だがヒダリーの驚愕はまだ終わらない。
「あ、そこ危ないですわよ?」
「えっ!? キャッ!?」
コリアンデの体が、あろうことか枝の上から舞い落ちる。その行動に思わずヒダリーの方が悲鳴をあげてしまったが、飛び降りたコリアンデの方は一切恐怖する様子もなく、膝を使って衝撃を殺し、ふわりとスカートをはためかせて地上に降り立つ姿は、まるで天使……あるいはお猿……のようだ。
「……………………」
「では、失礼致しますわ。ご報告ありがとう存じます、ヒダリーさん」
「は、はい……どうも……」
スカートの端をちょこんと摘まんで一礼するコリアンデに、ヒダリーはかろうじてそう答えた。そのままコリアンデの背中を呆然と見送り、気づけば真っ暗になっていた夜道を必死で帰ったヒダリーは、ニヤニヤと報告を待つイジワリーゼの前で冷や汗をかきながら自分が見たことを伝えていく。
「…………は?」
「おい、ヒダリー。それ本気か?」
「ええ。本気よミギルダ。その、信じていただけないかも知れませんが……」
怪訝そうな顔をする友人に答えつつ、ヒダリーはイジワリーゼの表情を窺う。凍り付いたように動かないその表情の下に眠っているのが果たしてどんな感情なのか、できればこのまま知らずに過ごしたい。
「そ、そ、そうですの。あっという間に木に登って? しかも飛び降りた、と……」
「はい……」
「ねえ、ミギルダ? 貴方は同じ事ができまして?」
「ええー、登るだけならいけるけど、飛び降りるのはちょっと怖いな」
イジワリーゼに問われて、ミギルダは軽く顔をしかめながら言う。同い年の男子と比べても遜色の無い運動能力を持つミギルダだが、だからといって恐怖を感じないとかそういうことはない。できるかできないかは別として、怖い物は怖いのだ。
「しかし、間接的ないやがら……コホン。『淑女教育』が通じないとなると、最初のような直接的な手段が必要になりますが……」
「そんな怖い物知らずってなると、ちょっと脅かしたくらいじゃあんまり効かなそうだぜ」
「ですが、ここまで馬鹿にされた以上、黙って手を引くなどと言うのはあり得ませんわ」
コリアンデの方にはそんなつもりは微塵も無い……どころか実質何かをやり返してすらいないのだが、イジワリーゼにとっては「自分の思い通りにならない」時点で許容できる対象ではない。
「ならばワタクシ達の本当の力を見せてあげましょう! 一〇〇人の令嬢に『淑女教育』を施してきたワタクシの手腕を、タップリとごらんに入れますわ! オーッホッホッホッホ!」
人数など数えたことはないのでしばらく前からずっと一〇〇人なのだが、改めてやる気の炎を燃やすイジワリーゼがそう言って笑う。そんなイジワリーゼの気配を感じ取ったのか、コリアンデは自室にてプルリとその体を震わせ……
「夏も近いのに、何だか今夜は冷えますわね。ねえソバニ、ちょっと私に抱っこされるつもりはありませんか?」
「どうしたのコリアンデちゃん……キャッ!?」
「うふふー、ソバニはあったかいですわー!」
「もーっ、コリアンデちゃんったら!」
大好きな友達と、部屋で楽しく過ごすのだった。





