狂帝陛下とお戯れ
「正妃探し?」
コットスター公爵家のご令嬢、イザベラ=デパロ=コットスターは多くの女たちが憧れる美しく可憐で、どこかあどけなさの残る甘く麗しい面持ちをひそめた。
対面に座る父親、コットスター公爵は老いを感じさせない端整な顔に微笑を浮かべ、娘宛てに届いた書状と招待状をテーブルに置く。イザベラの後ろに控えていた若いお付きのメイド、キャロルが手に取り掲げる内容を、イザベラはルビーのように冴えた赤い瞳で眺めた。
「まぁ。かの狂帝と名高いギルバート=エドゥ=ラナーヤ公の。これはこれは、一大事件ですわね」
連なる文字を一瞥し、ほくそ笑む娘に父親は微笑み返した。
コットスター家が領地を治める版図の国家、グラーツ国。
海と山に囲まれ資源も豊富、自然豊かな大地からなる産物はどれも一等品で、海路と陸路の多くを拓き、貿易による繁栄を築いた平和な国だ。
その隣に、くだんの狂帝が統べるラナーヤ帝国がある。
剣と魔術による高い軍事力に、広大な土地から生み出す数多の生産性。多種多様な人種による複数の文化は学びにも強い。その頂点に君臨しているギルバート=エドゥ=ラナーヤ現皇帝は即位と共に並外れた軍事力を利し、諸国に侵攻を始めたのは今からおよそ二年も前のこと。
圧倒的な戦力を前に国々は成す術もなく自国の旗を奪われた。ひとつ、またひとつと旗が折れ、世界地図が大きく塗り替えられた一年後、以前の倍にあたる国土を有した時点で、ラナーヤ帝国の引き起こした戦争は終わりを告げた。
各国はこの暴虐な行いに対し、畏れと侮蔑の意味を込め、齢二十七の皇帝陛下を狂帝と呼ぶようになったのだ。
以前より交流のあったグラーツ国は真っ先に平和的解決に臨み、歴史と共に切り拓いた貿易路の一部を譲渡することによって戦火を逃れていたのだが――戦争から一年、その狂帝の正妃探しとして開かれる晩餐会とやらに、どうかイザベラも出席するよう、グラーツ国王から腰の低い嘆願とその招待状が届いたのである。
「ですがお父様、こちらはなんですの?」
こちら、とイザベラが見下げるのはキャロルの手にあるもう一枚の羊皮紙。グラーツ国王からの嘆願書とは別に、名高い国々の紋章印が連なった書状があった。そこに記されていたのはただ一言。
"ラナーヤの落城を乞う"
つまるところ、ギルバート=エドゥ=ラナーヤの元に行き、傾国の美女よろしく狂帝を骨抜きにして欲しい、という、とんでもない申し入れが送りつけられたのだ。
これにはイザベラにまつわる数々の逸話に理由があった。
まず彼女を語るなら、グラーツ国王子からの求婚を突っぱねたことから始まる。それも第一から第三すべての求婚を、彼女はいちぶの隙もなく拒絶した。続いて言い寄る国の重鎮たちも次々と突き返した。
しかし、彼女に拒絶された男たちは諦めることを知らず、こぞって機嫌を取るものだから庶民の間でも盛り上がり、あのイザベラ嬢を落とすのは誰だ、などと事あるごとに賭けが生じる始末。大衆新聞にも大きく掲載され、イザベラの噂は風に乗って国から国へ、大陸中に広がった。
これに興味を持った周囲の国々からイザベラを求める声は多く上がった。貴族に王子やらが彼女を欲したが、公爵令嬢イザベラはそのどれにも首を縦に振ることはなかった。
そうして、どれだけ手を伸ばそうが高価な品々を送ろうが、甘い言葉を囁こうが振り向かない絶世の美女、イザベラ=デパロ=コットスターは悪女として、天女として、はては雲の上の存在として、箔のついたその名を轟かせてしまったのである。
そんなイザベラだからこそ、今は飽きたように戦争をほうる狂帝を陥落できると、戦火から逃れた一部の国々は考えた。狂帝が大人しいうちにイザベラに惚れさせ、もう二度と無作為な戦争など起こさぬよう、強大な帝国を内から崩壊しようと徒党を組んだ国々の哀願が「ラナーヤの落城を乞う」なのである。
ふぅ、と息を漏らして桜色の唇を閉じ、キャロルの手から紋章印の連なる書状を引き上げる。紙の端から唐突に火があがり、赤々と燃え上がった紙面はあっという間に燃えカスへ。
コットスター公爵は、娘の行いに口元を緩めた。
「愚挙たる諸国の衷心をそのように扱うとは、お前も怖いもの知らずだね」
「きっとお父様に似たのですわ」
ふふふ、と笑い合う親子の軽やかな声音にキャロルの肌が粟立つ。手元に残る書状を公爵の元に返し、イザベラの後ろに戻るとこっそり手の甲を擦った。
「この火種は、わたくし以外にも渡っているのでしょうか?」
「各国の姫君はすでに足蹴にされていてね。名の知れたお前にまず白羽の矢が立ったようだ」
「まぁ。麗しき姫君たちを拒む皇帝陛下が、正妃探しの晩餐会とは……よほどのご趣味をお持ちなのね」
はたしてイザベラ自身も当てはまるが、鈴の鳴るような耳に心地のいい娘の声に、父は目尻を下げる。
敗戦国から捧げられた姫君を断り、友好国から渡りと申し込まれた婚姻を断る狂帝は、燃え盛る大地を進軍するように、自ら選び抜いた女を望んでいるのだろう。そんな狂帝に募る恨みつらみで、まさか諸国が徒党を組むに至り、齢十八の娘に落城を乞うとは思いもしなかったが、娘を見る父の顔には不服がない。
「それで、お父様は諸国の衷心に寄り添えと仰るのですね?」
「もちろん強制ではない。イザベラ、お前はどうしたい?」
権力の象徴たる男たちを次々突き返しても咎めることのなかった父の問いかけに、娘は瞬きを返す。
「わたくしが粗相をしてもお許しくださいね、お父様」
「成人したばかりの女の手綱も握れないようならば、他の男児同様、蹴散らしてきなさい。楽しんでおいで、イザベラ」
グラーツ国王族と重鎮たちの信頼を掌握し、臣民からの人気も高い、裏の支配者と呼ばれるコットスター公爵とその娘が微笑み合う。まるで硝子絵のような目を奪われる美しさに、キャロルはいまだ粟立つ手の甲を擦りながら息を漏らすのであった。
晩餐会の参加を聞いた男たちが連日イザベラの元に押し寄せた。そのすべてに薄く笑ってみせたイザベラを、結局誰一人止めることは叶わず、父と跡継ぎである養子の兄に見送られ、イザベラはキャロルと共に祖国を発った。
そうして馬車で十日ほどの旅路を経て、イザベラは晩餐会当日の昼にラナーヤ帝国に降り立つ。
蛮勇を誇る国家に見合う堅牢な城壁に囲まれた城は、グラーツ城の遥か上をいく。鉄でできた重々しい城門は大きく口を開いて歓迎したが、城壁から覗く複数の大砲は客人を拒んでいるようにも見えた。
城の前には、格式の高さを思わせる足首まで覆う、裾の長い黒のメイド服をまとう使用人たちが並んでいる。一人がイザベラの前に歩み出ると「遠路はるばるようこそおいでくださいました」と慣例的な挨拶で迎えられ、イザベラは丁寧な一笑を返して城へと足を踏み入れた。
城内は見た目に反して簡素な造りだった。無駄に贅を尽くしたわけでもなく、選び抜かれた調度品のひとつひとつは風格が漂う。飾り気はないが品のある城の内側も、けれど区画ごとに内部にまでそびえ立つ岩作りの壁が、窮屈を思わせた。敵の侵攻があったとき、いくどにも及ぶ防衛線として機能するのかもしれない。その国の特徴は城に表れると言うが、なるほど、確かにこれは蛮族らしいとイザベラは思った。
通されたのは長い廊下に並ぶ部屋の一室だった。廊下に面する部屋それぞれに、ご令嬢が案内されているのだろう。ラナーヤ帝国の使用人が下がると、イザベラは案内された部屋の様子を見るでもなくソファに腰を下ろす。キャロルが慣れたように、すぐにイザベラの好きなニルギリティーを前に置いた。ポイントは、濃いめに淹れてレモンの果汁をほんのり加えること。
細くしなやかなイザベラの指が白いソーサーを持ち上げる。ティーカップから漂う香りを楽しんで、リングハンドルに指を絡めると、血色の良い唇にカップを運ぶ。お茶を嗜む所作も美しい。思わず見惚れるそんなキャロルの視線を浴びながら、傾国を乞われたご令嬢イザベラは安寧と時を過ごした。
ラナーヤ帝国城の大広間。
煌めく金のシャンデリアに照らされる中を演奏者たちが優雅な音楽で彩る。手掴みしやすいよう工夫された食事の数々に、光を受けて輝くシャンパン。女性の可愛らしさを引き立てる色とりどりのドレスが会場を盛り立て、可憐な話し声が時を刻む。ふと、令嬢たちが顔を上げた。開始時間ギリギリに現れた、最後の参加者の登場を知らせる声が響いたから。
「グラーツ国、コットスター公爵家より、イザベラ=デパロ=コットスター様です」
令嬢たちがどよめいた。ざわつく音を遮るように、多くの視線に晒されるその場所に一人のご令嬢が現われる。
ふわりと毛先だけにウェーブがかかった珍しいグレイ色の髪は腰まで伸び、ボディラインに合わせた裾広がりのドレスは銀糸の刺繍が施された落ち着いたパープル。髪をかけた左右の耳には大粒のパールが揺れて、その淡い白さが赤い双眸を引き立てる。
派手な装いでは決してない。むしろ会場を彩る明るいドレスに比べれば、その存在は薄れてもいい。だが、それが逆に引き立てた。深く落ち着いた色味のドレスに勝る白い体躯。自信に満ちた力強い瞳。美麗な造りを邪魔しない薄い化粧。全てがイザベラの美しさを引き立て、またイザベラから発せられる雰囲気を際立てる。
そんなイザベラの横に、一人の男が歩み出た。
大広間を守護するラナーヤ帝国騎士団よりも上等な鎧をまとい、胸に下げる勲章の数々。見るからに高位の騎士に差し出されるエスコートの手を、イザベラはドレスから覗く細い腕をたわやかに伸ばし、オペラグローブの上から受け入れる。一段一段降りていくたび、見惚れた令嬢たちの感嘆の息が漏れ出た。
イザベラの登場に歯軋りする令嬢もいる。肩書と見目の良さから見れば、正妃候補としてイザベラを外すわけがない。けれど、どんな男にも振り向かない、そんな噂の君であるイザベラを敵視してはいなかった。どうせ儀礼で訪れたのだ、皇帝陛下の正妃探しなど興味もないだろう、と。それでも皇帝がもしも見初めてしまったら。そう思うと奥歯を噛みしめたくもなる。
当の本人イザベラは、様々な意思が飛び交う視線を受け流し、颯爽と降り立った大広間の端に寄った。まるで皇帝陛下に興味などありません、とでも言いたげな態度に令嬢たちが息を吐いたそのとき。
「皆さまお待たせいたしました。我がラナーヤ帝国君主、ギルバート=エドゥ=ラナーヤ皇帝陛下のご入場です」
再びざわつく大広間。イザベラは騒めきに乗じて他の令嬢たちの後ろに位置すると、目立たないよう倣って顔を上げる。現れた男の姿に、イザベラは目を細めた。
幅広のシャツにスリムな脚衣、平民が親しむ膝下丈の革のブーツ。つい先ほどまで庭を散策していたと言わんばかりの軽装に、取って付けたかのような金の装飾が施されたマント。野性味あふれる毛先の跳ねた黒の長髪は後ろに流されているものの、その姿はとてもじゃないが正装とは呼べない。
だが、顔の造りは彫刻のように完成された美しさだった。褐色の肌に鋭い眼差し。すらりと伸びた高い鼻、固く結ばれた唇の形も妙な色気を滲ませる。端整な面持ちではあるが、一国の主というより歴戦の武人を思わせるのは、男の冷え切った黄金の双眸が令嬢たちを安く踏むせいか。けれど、見下げられる令嬢たちは次々に頬を染め、色づく吐息を零していた。
そんな狂帝と令嬢たちを見ていたイザベラは思うのだ。まるで茶番だわ――と。
蔑みを宿す皇帝陛下が望んでこの場にいるのではないと、イザベラはすぐに理解した。おおかた重鎮たちに正妃を娶れと進言され、パフォーマンスとして開かれたであろう晩餐会。気乗り薄な皇帝陛下と、その美貌に酔いしれるご令嬢たち。傍目ただの茶番でしかなかった。
そのとき、大広間に割れるような音が響く。続いた小さな悲鳴と、護衛のため大広間の壁に配置された騎士たちの駆け寄る音。見れば、とあるご令嬢が手を滑らせてグラスを落としたようだった。
大広間に降り立った狂帝が近くの騎士に耳打ちされる様子を横目に、イザベラはこれ幸いと堂々とした確かな歩みをもって、近くに控えていた騎士の元へ。エスコートしてくれた騎士に、わざとらしく目を伏せてイザベラは言う。
「ラナーヤ皇帝陛下のお姿を拝見しただけで、わたくし、あまりの荘厳なお姿に立ち眩みしてしまいました。このような不調でお会いするなど恐れ多いこと。お部屋で休ませて頂きたく存じます」
「……でしたらご案内いたしましょう。どうぞ、こちらへ」
イザベラは皇帝にすり寄るでもなく、壁の花になるでもなく、バルコニーに立ち去るでもなく、この茶番劇を繰り広げる晩餐会そのものから抜け出すことにした。すっかり興味も失せて、さっさと帰路につくことを決めたのだ。
立ち眩みなど少しもしていないイザベラを見る騎士の目は、笑っていない。己の主君に挨拶すらしようとしない不敬な女を、心中そしりはしりと投じているかもしれないが、隣に立つ若い男に一言告げた騎士は、それでも唇だけを緩ませてイザベラを導く。
立派に務めを果たす騎士の案内により、誰に気づかれることなくこうして、イザベラは大広間からの脱出に成功した。
「では、こちらでお待ちください」
「お待ちになって。ここはご用意頂いたわたくしの部屋ではございません」
大広間から無礼な脱出をしてみせたイザベラが通されたのは、長い廊下に面した一室ではなく、さらに広く豪華な客間だった。部屋の入り口から動こうとしないイザベラに微笑む騎士は、けれど変わらず笑ったまま。
「えぇ、こちらは別室となります。ただいま皇帝陛下をお呼びしますのでお待ちください」
「今、なんと?」
「皇帝陛下は、晩餐会から抜け出すご令嬢をお選びになる心積もりだったのです。では、少々お待ちください」
イザベラの開きかける唇に応えることなく、無情にも騎士は扉を閉めた。がちゃん、とご丁寧に鍵までかけられた扉を見上げていたが、一度部屋を見回したあと、イザベラは大人しくソファに腰掛けた。
暫時の静座を過ごせばノックの音はすぐ訪れた。扉に背を向け座っていたイザベラは、返事もせず、立って迎えることもなく、ソファに座ったままである。
開かれた扉から数人の足音が聞こえたかと思うと、ほぼ黒一色の狂帝が対面のソファに座す。その後ろには先ほどの騎士と、明敏そうな男が立った。
背筋を伸ばし、まっすぐ前を見ていたイザベラを正面から見た狂帝は嘲るように鼻を鳴らす。
「不調だと聞いたが、間近に見ても眩みはしないのだな」
晩餐会を抜け出したい口実だと見抜いている、とでも言いたげな無表情な問責に、イザベラはすっと目を細めた。
「お茶を頂けますか」
「なに?」
「わたくし喉が渇きました。お茶を頂けますか。それとも、ラナーヤ帝国は客人に茶を振る舞う礼節もないのでしょうか」
あどけなさをわずかに残した甘い面持ちをひとつも動かさず、イザベラが言えば今度は狂帝が目をすがめる。
「ほう、不敬を働く己を客人と物言うか。豪胆な女だ、お前の説く礼節に報いる必要がどこにある」
「恐れながら陛下、元より会する私共を客人としたためていないのは、軽装で現れた陛下にございます。ですからわたくしも家名を背負う令嬢ではなく、一介の女として正対しておりますが、いかように?」
物怖じせず淡々と告げるイザベラの様子に目を見開いたのは、狂帝の後ろに控える男二人と、扉の前に立つ若い護衛騎士たちだった。
立って迎えることもなければ、カーテシーのひとつもない。それどころか発言の是非も聞かず、上流階級など素知らぬ態度で不敬を働く罪の数々。その美しい首ひとつでは贖罪も許されない冒涜を、一体この女は短時間でいくど繰り返すつもりなのか。
戦後しばらく、なにを勘違いしたのか「私こそが皇帝陛下にふさわしい」と名乗りをあげたとある姫君が、たった数分の対談で失禁したことを思い出し、またあの凄惨を目にするのかと臣下たちは一様に肝を冷やす。
「それは、女に茶も出さない狭い男だと、俺を難じているのか」
その主である皇帝陛下は鋭利を増した眼差しをイザベラに向ける。訓練を積み重ねた壮年の騎士でさえ身を竦める視線を一身に受けてもなお、イザベラの表情が崩れることはなかった。
そんなイザベラを黙って見つめる狂帝は逡巡するように瞬いたあと、手配を命じた。すぐ運ばれてきた紅茶が二人の間に置かれると、この場に釣り合いのとれない上品なダージリンの香りが漂う。
一国の主である皇帝を前にしても、イザベラは普段と同じように香りを楽しみ、味を楽しむ。白く細い指をカップに添えて、優雅に嗜む姿に緊張感など微塵も見受けられない。茶店でひと時を過ごす娘のようでもある。狂帝の後ろに立つ男二人が、その様子に思わず顔を見合わせた。
「お心配り痛み入ります。では、晩餐会にお戻りください」
「なんだと?」
「御覧の通り、わたくしは皇帝陛下のようなご高大な方にはふさわしくありません。とても傲慢ですの。ですから、今も皇帝陛下を心待ちされている淑女の皆さまの元へ、どうぞお戻りください」
しん、と静まる部屋にイザベラの紅茶を楽しむ食器の音だけが鳴る。遅れて息を漏らすように、狂帝が嗤った。
「一介の男と女なのだろう? ならば、どこへ行こうと俺の勝手だ。お前に指図される訳合いもない。それに、晩餐会から抜け出す女を正妃に迎えると聞いているはずだが?」
耳にしたイザベラは長い睫毛を伏せて、カップで揺らぐ赤褐色の水面を眺める。
「わたくしのような頓馬を正妃に据えるなど、陛下は恐れを知らないのですね」
「まさに狂帝の名にふさわしい振る舞いであろう。色恋沙汰に興味はない。だが、か弱い女はすぐに壊れる。お前のようなしたたかな女であれば片寄りもなさそうだ」
伏せた目を瞑り、再びカップに口付けるイザベラの小さな唇を眺める狂帝は、ソファの背もたれに肩肘を預けて頬に手を宛がう。令嬢たちを見下げていた眼差しは、獲物を捕らえたようにほくそ笑んだ。
「これまでの不敬は見逃す。この地に残り、正妃になれ。そのための催しだ。そこに参加したのだから、お前も少なからずその魂胆はあるのだろう?」
イザベラは伏せていた瞼を上げ、赤い瞳で狂帝を見る。宝石のような彩りを覗き込めば吸い込まれそうなほど、互いの瞳は美しい。けれど、両者ともに相反する感情を宿し、視線の応酬が繰り返された。やがて口を開いたのは、ため息を零すイザベラだった。
「とても残念ですわ」
「なに?」
「とても残念だと申しましたの」
部屋の空気が冷えた気がした。ちりちりと肌を焦がすような重々しい雰囲気に、扉を護衛する若い騎士たちが息を飲んだ。
「なにが残念だと?」
「お言葉に甘えて申し上げます」
しかし平静なイザベラは持っていたカップをテーブルに置き、膝に手を重ねて背を正す。
「一昨年、陛下が治めるこのラナーヤ帝国は大陸に戦火を灯されました。幕開けに圧したのは南方に位置する貴族が治める土地、ラサス公国でしたわね」
次はどんな言葉を舌に乗せるかと思えば、戦の話を持ち出すイザベラに狂帝は鼻を鳴らした。さて次はどんな不敬を働くのか、戯れに付き合い話を促す。
「あぁ、そうだな。小国を攻めたと当時は大陸中の笑い種になったと聞いている」
「えぇ、わたくしも聞き及んでおります。ラサス公国の君主、パーゴ大公は王と認められてはおらず、宗主国たるロビニア王国の承認を得なければ正統な皇位は認められない。そんな端た小国に攻め入る帝国の若造は、軍事力を試したいだけの子供だと、皆が腹を抱えたと耳にしております」
「それがどうした」
「聞けば、陛下が即位なされてまもなく、高い医学技術を誇るロビニア王国が、その技術を高値で売りにきたとか」
「それが俺の勘に触り、ロビニアは滅ぼされたと言われているな」
「ですがその実、ロビニア王国が誇る医療のすべては、ラサス公国の資産です」
皇帝の後ろに控える明敏そうな男が身を崩す。ロビニアといえば医療の国と広まり早数百年。その実情を知る者はごくわずか。なぜそれを知っているのか、咎めようと口を開くも、主君たる男の片手で軽く制された。
狂帝の視線が続けよと語る。
「ロビニア王国は乏しい土地柄、貧困に喘いでおりました。貧しい国に流行り病が広がり、崩壊の危機に陥りましたが、当時の貴族であり医学者であった男がこれを嘆き、果敢にも勇士を集って大陸中を回り、数年の時を費やし高い医学技術を身に着けました。男と仲間たちによってロビニア全土は救われたのです。ですが、当時の国王はこれを利益の道具と見なした。救済を望む男たちと金に目が眩んだ国王、二者の対立によりロビニア王国からラサス公国は独立したのです」
「それで?」
「独立してから数百年あまり、人々の救済を願うラサス公国はけれど、依然としてロビニア王国の支配下にありました。最先端の医学技術を生み出すラサスの英知はロビニアのものとして扱われる。建国から数百年の王国と、独立した公国では人脈も発言権も違います。ラサスは皇位を得なければ、国々に働きかけることさえできなかった。ですが、陛下率いるラナーヤ帝国が制したことで、等しく管理下に置かれたラサスは契機を得た」
頬に手を宛がったままの狂帝が目を細める。目の前にいる娘を正しく評価しようと、ゆっくり定めた。
「これに留まらず、陛下は採石、鍛冶、農産、畜産、魔具と数多の分野に根強い諸国を次々制してきました。自国の強化だと、戦火から逃れた国々は嫉視しておりますが、ひとつひとつ見れば、小国が抱える問題ごと陛下は切り伏せています」
「貿易で栄えるグラーツ国、公爵令嬢たるお前が、歴史の闇と消えた各国の内情を知っていてもおかしくはない。だが、それがなんだ? まさか俺が正義の味方と見込んで来たとのたまうか」
「いいえ、わたくしは陛下を正しく蛮族と見定めております」
「ではなにが残念だというのか、申してみよ」
怜悧に尖る黄金色の双眸に品定めされても、イザベラは表情ひとつ変えることはない。
「武力で伏せる野蛮な行いは愚の骨頂。戦で得るものより、失うもののほうが多いのです。けれど、陛下は必要悪だと背負われているご様子。高い技術を持った国々の狭き道を拓き、見合った財を与える。敗戦国はわずか戦後一年で急成長を遂げました」
「我が国土となった領地を管するは王の務め。それがどうしたというのか」
「ですが、その敗戦国への物資支援を、陛下はわざと減らしておいででは?」
騎士も明敏そうな男も、護衛騎士たちもかすかに身じろいだ。
問いかけるイザベラと対峙する狂帝は、推し量るように、誘うように目尻をつり上げる。
「なぜそう思う」
「国の貿易を司る父の仕事を少々手伝っております。先のロビニアとラサスの件も、そこから知りました。敗戦国に関しましては、およそ半年ほど前から戦火を逃れた国々との交易が盛んとなっております。数多の分野に強いラナーヤ帝国が、そして敗戦国の技術に正しき価値を授ける陛下が、管理を怠るわけがない」
「なるほど、それで?」
「陛下は、戦火を逃れた国々にあえて恩義を売らせているのではないでしょうか。物資支援により財を得れば無下に扱うこともできない。後ろ盾には蛮勇を誇るラナーヤ帝国がついている。逆に、帝国領土の一部となった敗戦国に恩義を売ることで、ラナーヤ帝国も簡単に手出しはできない。そう思わせることで、二度目の戦火を摘んでいると匂わせることが可能です」
「よく回る頭だ。だが、俺の質した返しにはいつ辿り着く」
「すべてはわたくしの憶測。ですが然りであるならば、手段は残忍ながら陛下は異才をお持ちです。えぇ、ですから、残念でならないのです」
口を固く結び、いよいよ答えが出るのかと視線で舐る狂帝を見据え、一呼吸おいたイザベラの柔らかな唇が動く。
「それだけの方が、なぜ、軽装で現れ女性の尊厳を踏みにじるのか。なぜ、わたくしが陛下の正妃を望んでいると決めつけるのか。一介の男と女であれば、陛下の“口説き文句”は少しも心に響きませんわ」
しん、と再び部屋が静まり返った。茫然喪失と言葉を失う臣下より先に、主君たる男が笑い出す。
「クッ……はっ、はははっ、あははははっ!」
低い声音で高らかに笑い飛ばす皇帝の表情は、まるで子供のように無邪気なそれだ。イザベラはそんな美丈夫を特に見つめることもなく、テーブルに置いていたカップを持ち上げる。部屋中に溢れる狂帝の笑い声に動じていないのは、イザベラだけだった。
「ははははっ、なるほど、イザベラ、だったな。噂と違わぬ女だ。その小利口な頭と回る弁で、名立たる男共を巧みに操るか」
「まぁ、他の殿方を持ち出すなど無粋ですこと」
「空々しい。お前より諸国の内情を視すべきグラーツ王女のほうが、まだ生娘のように頬を染めていたぞ」
「あら、失礼ですわ。わたくしには可愛げがないと仰るの?」
「いいや、お前ほど美しく愛らしい女は見たことがない」
小気味よく笑みを零しながら、するりと告げられた甘言は、大広間で狂帝を待つご令嬢たちが聞けば数人が熱を覚え倒れ込んだことだろう。けれど、やはりイザベラには届くでもなかった。
「お褒めに預かり光栄ですわ。これくらい御してこそ狂帝です。では、心置きなく晩餐会にお戻りくださいませ」
「あぁ、いいとも、ただしお前も共に来い。我がラナーヤ帝国の正妃を見せつけるとしよう」
「まぁ、わたくしお断り申し上げておりますのに。無理強いなさるのね」
「なにせ狂帝だからな」
ぽかん、と絶句する臣下の前で、皇帝陛下と令嬢が和気あいあいとじゃれている。二人の様子を微笑ましいと思える余裕はまだ、イザベラを知り得ない臣下たちにはなかった。
即位してまもなく、ラナーヤ帝国が誇る軍事力を振り回す若き狂った皇帝。
臣下である彼らの主君に対する世間の評判は拙劣だった。
しかし、そうではないと分かっている。晩餐会から抜け出した不敬の女は語った。そして続けたのだ。そんな口説き文句では落ちません、と。聡明でありながら可愛らしく、かといって卑しくはない。そんな無礼な女に対する感情は筆舌に尽くしがたい。
「ですが陛下、わたくしは不敬を重ねました。最も敬うべき主君に狼藉を働く小国の女を、臣下の皆さまがお許しになるとは思えませんわ」
「だ、そうだが? お前たちは不服か?」
ゆらりと首をもたげて、狂帝が後ろに控えていた騎士の男と明敏そうな男に問いかける。驚嘆を滲ませることはなかったが、イザベラの様子に身を固めていた男二人はしかし、微笑を口の端に浮かべる。次に狂帝の視線が護衛騎士たちに注がれると、首が飛びそうな勢いで否定をあらわにしていた。
それを見ていたイザベラは、ふぅ、とわざとらしく嘆息を零す。
「家臣たちも良いと言っている。イザベラ、お前はなにがそんなに不満か」
「恐れながら陛下、わたくしなど陛下に比べれば赤子のようなもの。一人娘として蝶よ花よと育てられ、好奇心も強く傲慢です。かような女に正妃は務まりません」
「騙るな。お前のように狡猾な女もいるであろうが、家名を背負う令嬢がやすやすと不敬を働けるものか。末席の貴族ですら恐れることを、お前はいくど見せしめた。そのしたたかさを俺は欲している」
野獣のように力強く、逃がしはしないと告げる黄金色の瞳を見ながら、イザベラはソーサーにカップを乗せた。
「では申し上げます。わたくし、諸国の投じた火種を焚きつける気はありませんの」
と、告げるイザベラに反応したのは臣下たちだった。皆が一様に目を瞠り、獲物を持つ手に力がこもる。
正面から対峙している狂帝は、不気味ともいえる怪しげな笑みを浮かべ、目尻を緩ませた。
「それこそ、なにが不満だ。お前は諸国に恩義を売ることができる。この先しばらく、安泰ではないか」
諸国がラナーヤの落城を願い、イザベラを遣わせたことを狂帝は知っていた。それでも、イザベラは自ら戦火の火種を明かした。
元より、イザベラは諸国の愚挙たる衷心など聞き届けるつもりはなかった。かといって、無下に扱えばグラーツ国の扱いは変わるだろう。多くの貿易路を持ち、情報にも長けたコットスター公爵がそれを未然に防ぐとはいえ、父にべったり甘える娘でもなかった。
だからイザベラはラナーヤ帝国に訪れ、晩餐会に参加した。しかしそこで繰り広げられる茶番劇の馬鹿らしさに付き合う気もなく、不調を訴え体よく理由を造り出す。これにより、かのイザベラ嬢も狂帝を前にすればただの小娘だと思い絶つだろう。イザベラは自身の評価が傷つくことを恐れてはいない。そもそも、それを傷だと思うこともない。
しかし、蛮勇を誇る狂帝が大人しく晩餐会で女を見初めるとも思ってはいなかった。抜け出した女を正妃に据える、という言葉も嘘ではないと分かる。これは面倒だ、と落とし込んだイザベラは、だから続ける。
「ですから陛下、わたくしは申し上げたのです。陛下の“口説き文句”は少しも心に響きませんわ」
「クッ……はははっ、なるほど。諸国の命じた篭絡は意にそぐわないからしないと言い、お前を欲する俺を男として見ていない、か。愚直だな、イザベラ?」
「えぇ、まるで赤子のようでしょう?」
「これまでの不敬を持ち出し、お前を無理に正妃に据えることもできるが、それはなんとする」
「はい、ですから晩餐会にお戻りください、陛下」
訝しげに目をすがめた狂帝に、イザベラは返す。
「ラナーヤ帝国が制圧された位置より遥か南に、強靭な体躯を持つ野を駆けた一族を祖先に持つ土地があります。その地で生まれた者は今も屈強を誇りますが、交渉や商いを苦手としております。そこに目をつけたのが、大陸中に複数の名を持つ金貸しでした。彼らは安い賃金で屈強たる戦士たちを奴隷のように扱っていますが、その地から訪れた聡明と噂されるご令嬢は、古くから続く金貸しとの縁を断ち切るため、奮闘しているとか」
「ほう、それで?」
「そのご令嬢と縁を結ばれてくださいませ、陛下。そうなることで、陛下が治めますラナーヤ帝国内で火遊びしている金貸しの動きも、落ち着きをみせることでしょう」
生産や商いには金がつきものだ。
戦前、これまで目立たなかった小国の技術の継続も、ひとえにこの金貸したちの莫大な財力が一役を買っていた。高い利子で儲ける金貸したちを嫌悪しても、営む者たちは生活を続けるために生産を繰り返す。見事と感嘆せしめる高い技術から生み出された産物は、遥か遠い国々で高く取引されているが、その恩恵が返ってくることもなかった。
しかし、そこに進軍したラナーヤ帝国が領土となり、国が技術を管理し、正しき財を与えたことで金貸したちの旨味が減った。
代わりに、彼らが次に甘い言葉を囁いたのは、戦後大きく広がりを見せた数多の商売だ。グラーツ国から譲渡された貿易路により売買が増し、色んな商いがラナーヤ帝国内で始まったのだ。けれど、不慣れな商売は金の動きが読めずに苦戦した。そこに差し出される金貸したちの手は、天空から舞い降りた天使のように輝いてみえた。
金貸したちは非常に巧妙だった。利子は払えない額でもなく、けれど長く見ればかなりの額となる。商売の軌道に乗れず破産する者に対しては、イザベラのいう、金貸したちの扱う屈強な戦士たちによる破壊がもたらされ、路頭に迷う家族まとめて他国の奴隷と流れる件もひとつやふたつではない。
大陸全土に狂帝と呼ばれるギルバート=エドゥ=ラナーヤでさえ、この件に関しては簡単に手出しはできなかった。複数の名を持ち、大陸中に蔓延る金貸したちのラインに切り込めば、それこそ世界大戦の幕開けに繋がってしまう。
しかしイザベラが伝えるご令嬢、その貴族との縁を持てば両国内での金貸したちを制する理由が生まれる。ただ残念なのは、イザベラが伝える前から狂帝がすでに、その渡りの目途をつけていることだ。それを知らないイザベラでもないだろうに、狂帝は目をすがめる。
「その情報で不敬を流せ、と申しているつもりなら無駄だ。仮に、お前のいう令嬢と縁を結んだところで、もたらされる恩恵は金貸しの戯れを潰し、屈強な戦士を得るだけ。それ以上の価値がなければ一度の利益。しかしお前ならば、隣に置くことでいくども利口さを見せることだろう。分からないお前でもないだろうに、正直になれ、イザベラ。なにが不満だ」
噛み殺せない笑みを零す狂帝の姿は、いわれの通り正しく狂っても見える。黄金色の瞳は俄然、目の前の美女を捕えていた。
「では申し上げますが」
「あぁ、どんな不敬でも構わん。好きに言え」
イザベラは、そんな獣を見据える。
「わたくし、お飾りの肩書はいりません」
と、告げるイザベラに、狂帝は目をすがめた。
「……ほう。共にありたいと思える一介の男になれと、俺に求めるか」
狂帝の問いかけにイザベラは視線を返す。それを認めた男は喉を鳴らし、頬に宛がっていた手を解いた。
「では愛しい未来の妻に口付けでもしてやろう」
「お戯れを、陛下。力をもって衣服は裂けても、女の心は拓きません。それこそ“シュプリーゲルに噛まれてしまえ”ですわ」
シュプリーゲルとは、ラナーヤが帝国として新しく国家をつくりあげる前、その大地に眠っていたとされる神の名だ。
破壊を司る神の姿は、この世のものとは思えぬ美貌の女人に、下半身が獣だった。変わったことにその尾の先に、三つ首の醜い獣頭がついていた。シュプリーゲルの美しさに惹かれて近寄る男たちは、けれどその尾を見るや否や、ばけものと罵り逃げ去った。これに激怒したシュプリーゲルは尾をしならせ、背を向け逃げ去る男たちすべてに噛みついてやったという。
のちに夫を得て子煩悩な母となり、慈愛の神にもなるのだが、この逸話から「女心の分からない方ね」という趣旨を込めて『シュプリーゲルに噛まれてしまえ』とラナーヤ帝国内では慣用された。
あえてラナーヤ帝国の慣用句を用いるイザベラの意が、「わたくしが惚れ込むほどの男性になってくださいませ」と受け取る狂帝はほくそ笑む。
「では、ミューレンの祭りで共に火を灯そう」
「まぁ」
ミューレンとは、グラーツが国として新しく国家をつくりあげる前、その大地に訪れたとされる神の名だ。
商いを司る神の姿は糸目の大男だが、生まれながらに耳が悪く、彼は身振り手振り、時には地面に字を書いて人々と意思疎通をはかった。しかし疎ましくなったと親に捨てられ、望まぬ長い旅路を歩むこととなる。道中、目にした多くを学んだミューレンは、知り得た知識を用いて溢れんばかりの富を築き上げた。それでも旅を続けたあくる日、向こう側から逃げ惑う男が過ぎ去る。なんだなんだと向かった先でシュプリーゲルに出会い、恋に落ちた。
けれど、ミューレンがいくら愛の言葉を送っても、シュプリーゲルが応えることはなかった。
近寄るなと蹴られたミューレンは行きついた海に足をつけ、大地に腰を下ろして考えた。考えて考えた結果、彼は旅の途中で学んだ紙を作り、丸めて火を灯し、空にあげた。遠くからでも切り抜いた愛の言葉が見えるように、高く高く空へあげた。しかし、ミューレンのいる方位に背を向けていたシュプリーゲルがそれを見ることも、気づくこともなかった。なぜなら、醜い三つ首の獣頭は文字を知らなかったのだ。
やがてシュプリーゲルが夫を得たとミューレンが聞いたのは、飽きずに毎日愛の言葉を空に浮かせて数百年経った頃だった。けれどミューレンはそれでも、シュプリーゲルに愛の言葉を送り続けた。シュプリーゲルの夫が気づき、ミューレンを刺し殺すそのときまで。
ミューレンが亡くなったとされる冬に、商いを願う祭りがグラーツ国では開かれる。結果的に悲恋となったが、ミューレンの一途さに倣い、好きな女性に愛の言葉を記した熱気球を男性が送る風習がある。悲恋にはならないように、結ばれた二人が共に空高く届けることで、ミューレンが聞き届けてくれるといわれている。
「さすが陛下、博識でいらっしゃる」
「わざとらしい賛辞はよせ。さて、このまま未来の妻と仲睦まじく時を刻むのも一興だが、迎え入れる準備と移ろう。まずは淑女の皆さまにお引き取り願え」
「陛下、なりません。先ほど申し上げましたように、正装にお召し替えされて晩餐会にお戻りください。陛下の益となられる人脈は、まだまだ眠っております。未来の正妃様もおられることでしょう」
「それならばもう目の前にいる。共に来るというならば戻ろう」
「いいえ、皆さまの前で正妃だと宣誓でもされては、困りますもの」
快然と晩餐会を終える命をくだせばイザベラに止められ、共には行かないと撥ねつけられた皇帝が顔をひそめた。子供のように拗ねたものであれば可愛らしいが、荒々しい気を放つ男のあらわにする不愉快さは、臣下たちにとって心臓に悪い。やはり動じていないのは、優雅にお茶を含むイザベラだけだった。
かちゃ、とわざと音を鳴らしてカップをソーサーに乗せるイザベラに、背もたれに腕をかける不満げな皇帝の目が向く。
「陛下は一国の主であらせられる。王とは、臣民が敬する存在。全臣民の信頼を背負う陛下は、例え陛下御身がお許しになられても、その信頼を無下に扱う輩を罰せねばなりません」
「ほう、罰せよと申すか」
「陛下の思うままに。ですからどうぞ、お戻りください。罪人はここで大人しくお待ちしておりますわ」
「諦めではないようだが、今度は一体なにを披露してくれることやら。いいだろう、今は従ってやる」
はては悪徳商法のように上げて落とし、または自由気ままな遊女のような物言いに喉を鳴らすと、狂帝が立ち上がる。長い足で数歩進み、見送ろうともせず再びカップに指を絡めるイザベラの髪を一房掬い上げると、口付けを落とそうと――。
「陛下、お楽しみは後に残しておくものです」
「…………」
口付けを落とそうとすれば、なんとイザベラは躊躇いもなくカップを持ち上げ、冷めた紅茶を皇帝に浴びせた。だが、赤褐色の水は狂帝の眼前でゆらゆらと丸く揺らいで浮いている。獲物に手をかけていた騎士団長を片手で払い、空中に浮かぶ紅茶をカップに戻した狂帝は笑う。
「魔法にも長けるか。剣を持たせても振るえそうな女だ。しかし紳士に振る舞えと諭しながら、お前はお転婆が過ぎる。もう少し淑女らしく控えてはどうだ」
「あら、わたくし申し上げましたわ。傲慢ですの」
「あまり大人の男をからかうものではない。泣きを見るのはお前のほうだぞ」
「まぁ、それではいつまで経っても、わたくしが陛下に思いを募らせることもありませんわね」
などと、今年成人を迎えたばかりの齢十八の女が告げ、花が咲き誇るような可憐な笑みを浮かべる。少女のようにあどけなく、その美貌をあますところなく綻ばせた笑みには女の色香が滲んでいた。
騎士団長と宰相ですら目を瞠り、護衛騎士たちは音を立てて喉を上下に揺らす。見下げる皇帝は臣下の様子に苛立ちを覚えるも、その手をイザベラに伸ばすことはなかった。
「では行ってくる。余が不在のあいだ、騎士団長と女官を残す。なにかあれば言いつけろ」
「えぇ、いってらっしゃいませ。執務に徹する陛下も素敵ですわ」
「戯言を。すぐに戻る」
「はい、じっくりとお過ごされください」
互いに譲らない冗談交じりのちぐはぐな言葉を交わしたあと、満足気に嗤う狂帝は部屋を出た。
狂帝が去り、すぐに現れた老年のメイドが新しい紅茶を振る舞う。
標高二千メートルを超える高地で栽培されたダージリン茶葉は、上品で芳醇な香りと豊かな風味でイザベラに喜びを与えた。口内に含む味わいを舌で転がすご令嬢の姿に、老年メイドは口元を緩める。なにせ、狂帝に言い寄る女は多くとも、城内でこのように紅茶を楽しむ麗人の少ないこと。所作も美しく、賛辞を称えた柔らかな表情を浮かべるイザベラは目の保養だった。
ふ、と息を零したイザベラは、静かにカップをソーサーに乗せる。
(皇帝陛下は想像以上に可愛らしいお方だわ。わざと見せた隙も軽くいなしていたけれど、あと一年はわたくしで遊ばれるはず。そのあいだに陛下には紳士的な振る舞いを覚えて頂き、奔放なわたくしに飽きたところで、グラーツ国王女様との結びを運ぶとしましょう)
と、晩餐会から抜け出した直後、客間に通された時点で思い至ったイザベラの画策は、祖国であるグラーツと、このラナーヤ帝国との結びを強めることだった。
各国の姫君たちを断り、自ら開いた晩餐会もパフォーマンス。抜け出すような不敬な女でなければ正妃は務まらない、というのであれば礼儀礼節を重んじる姫君や令嬢たちを見ることはないだろう。
そんな暴虐な男に晩餐会に戻れと、執拗に繰り返すほど反発するのも分かっていた。戻ったところで集る令嬢たちを、女ではなく人脈として目に映すことだろう。まぁ、そこで寵愛を受けるご令嬢がいたのなら、さっさと祖国に戻るつもりでもあるのだが。
自身はまったく興味もない諸国の火種だが、イザベラが無理なら次に頼むまで、と渡るのも流れだろう。そこまで馬鹿な王たちではないと信じたいが、戦争を終えてますます強大な国家となったラナーヤ帝国が、外から見ると嫉妬してしまうほど立派であることもまた事実。
諸国が投じた火種は、狂帝が些末だと見逃したことで燃えることはなかった。けれどそれを繰り返されては、また世界地図が変わってしまうことだろう。
そこでイザベラは、祖国が歴史と共に築いた貿易路を守るため、また隣国であるラナーヤ帝国との確固たる結びをつけてしまおうと至った。
奔放な女というのは真新しく映るものだが、振り向かない時間が長引くほど、人は自分に寄り添う者に心が開くもの。グラーツ国王女様にはそのような学びも積んで頂かなければならないが、コットスター公爵を父に持つイザベラはその点に関して、まるで心配はない。
無事すべてが終わったあとは、海を渡って見聞を広げるのも楽しそうだ。と紅茶を楽しむイザベラだが、しかし――。
「戻ったぞ、イザベラ」
「おかえりなさいませ、陛下。戦果はいかほどですの」
「お前の想像通りと言ったところか。それよりも処罰だが、俺の名を呼べ。それでこれまでの不敬を不問とする」
「まぁ、それではわたくしが陛下のお名前をお呼びするたび、思いは離れてしまいますわね」
「はははっ、そう言うと思った。だからお前の好きな食べ物を教えろ。それを食する姿が見たい。明日は城内を案内しよう。城に見合わず見事な庭がある。そこでゆっくり未来の夫と親睦を深める刑と処す」
「妙案ですわ、陛下。わたくし、ティラミスが好きですの。明日のティータイムを楽しみにしております」
しかし、イザベラが思うより、年上の男である狂帝はイザベラの魂胆を推測しながら、野獣のような狂暴さを潜めて、いわれからは想像のできない色気をもって乙女心を優しく撫でるようになる。
晩餐会を終えてご令嬢、正しくはその親である貴族との人脈を広げ、戻ってきた狂帝の下した処罰から先、堅牢な壁に覆われた強大な国家、ラナーヤ帝国の城では臣下たちの肝が冷えたり頬が緩んだり、そんな賑やかな陽気が生まれることとなる。
その中心たる彼らの主君、ギルバート=エドゥ=ラナーヤと、隣国の公爵令嬢であり絶世の美女、イザベラ=デパロ=コットスターの可愛げない腹の探り合いは、こうして幕を開けたのだった。
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