第4話
ゲオルグはまだ夜も明けきらぬころ、目を覚ました。昨日レイアに股間を打擲されたこともあって、それなりに横になっている時間が長かったためか、眠気はあまり感じていなかった。傍に眠る妹の頭を優しく撫でる。ミーシャは兄の温もりに包まれて、穏やかな寝息をたてていた。
(今日からが本当の始まりであり、勝負でもある)
暴漢に襲われたが、原初魔法とやらでなんとか急場をしのぎ、怪しげな教会に拾われた。昨日は栄養と彩りのある食事を、久方振りに摂ることもできた。
(……悪くない)
家族の慎ましやかで平穏な日々は理不尽によって奪い去られてしまった。ゲオルグは思う。今は不幸を数え、理不尽を恨んでいる場合ではない。おそらく、数時間後からは<講義>とやらが始まる。間違いなく戦闘系の講義と、魔法系の講義、あとは座学があるのだろう。どれを取っても、前世の経験や知識が生きるとは思えない。なにせ、喧嘩すらまともにしたことがないのだ。
(この俺が、剣を取って闘う、か)
しかし、食らいついてでも必死についていかなくてはならない。それは、この組織で棄てられないために必須のことであるし、この世界を生き抜くために必ず役に立つはずだからである。
彼が思索の海に潜り込んでいる最中、突然大きな鐘の音が鳴り響いた。鋭く大きな音は彼の思考の海を荒らし、思索を中断させた。隣では妹が目をこすっている。
ゲオルグは閃いた。
(これは、もしや集合かなんかの合図では?)
「ミーシャ、起きて」
「んう?」
「ほら、急いで、多分いかなきゃならないよ」
「え? え?」
ゲオルグは、寝起きで戸惑っている妹の背をおしながら部屋を後にした。
「合格、かな?」
「まあ、いいだろう」
「そう? 一番くるのが遅かったじゃない!」
どうやら、ゲオルグの判断は、講師の二人のメガネには適ったようだった。
「いや、レイア。お前はここにきた最初の日、鐘の音に気づかず爆睡してたろうが」
「なっーー。先生! そんな昔の話、持ち出さないでください!」
「まあお前に二人を責める資格なんざねえって話だな」
「朝から騒がしくてごめんね? でもよく、あの音が集合の合図ってわかりましたね」
「集団生活を送る上で、何かしらの合図があるかなと思いましたので」
「本当にずっとスラムに住んでいたのか疑いたくなっちゃうくらい賢いですね、ゲオルグ君は」
「おう、もう少しで朝飯できるぞ。レイア、司教様を呼んできてくれ」
「わかりました」
黒衣の男・エルビスが朝ごはんを用意していた。彼は慣れた手つきでフライパンから木皿にパスタを盛り付けていく。バターと卵の芳醇な香りがなんとも言えない、カルボナーラであった。
(朝からカルボナーラって、まじかよ)
「エルビスは相変わらずですね。朝から重すぎじゃないですか」
「ヘッ。朝からしっかり食うことが何より大事だろう」
「たしかに」
『えっ?』二人の視線が、ゲオルグに突き刺さった。
「あ、すみません。声に出てましたか」
「ああ。で、何が確かに、なんだ?」
「はい。最初は朝から重いというクリミァさんの意見も最もだと思いました。ただ、これから一日活動するなかで体力を消費していきますから、脂分があっても、いいのかもしれないと思いました」
エルビスは意外そうな顔をしたあと、少し微笑んだ。
「そうだ。俺はそういうことが言いたかったんだ」
「脂はドロリとしていて、体に良くないとは思いますが、火を燃やす燃料にもなりますから、体の
元気の材料にも良いのではないでしょうか。ただ、夜に食べてしまうと、そのまま、脂肪になってしまうのかもしれないですね」
大人二人は、突然知ったような口をききはじめた子供に驚いた様子だった。
「ゲオルグ君。きみはどこで「脂肪」なんて言葉を覚えたんだい?」
白衣の男が、たれ気味の瞳に妙な気迫を漂わせて、尋ねた。
(ああ、これはまずったかな)
ゲオルグは少し喋りすぎたことを反省しつつも、気負った様子もなく答える。
「私は、これでもある商人のもとで奉公させて貰っていまして。その時に様々なことを仕込まれました。ですから、ある程度の算術もこなせると思います」
「……算術も。君は、随分とその商人に見込まれていたのですね」
「そうなのでしょうか」
「ええ。普通スラム街の少年少女など、何をしでかすか分かったものじゃあありませんから。みな良く言えば逞しい。しかし、それは手癖の悪さや、意地汚さにつながります。これは一般の社会とはなかなか相性が良くありません。ましてや、信用が大事な商人ですから、スラム街の子供を雇っただけでも驚きなのに、そこに教育を施そうなどというのは、私は寡聞にして聞いたことがありませんね」
柔和な男の口から放たれたのは、はっきりと断定する言葉だった。
「……そうなのですか」
ゲオルグは重々しく応える。地球産の現代人の魂が入っているのだから異質に決まってるだろ、と少年は盛大に心中で愚痴っていた。
「すみません」
「えっ?」
クリミァが優しげな笑みをつくった。
「私は、決してあなたを警戒しているわけではありません。司教様の<ダーク・ディテクト>の結果も信用できるものです。どうしてあなたがここまで年不相応の思考能力を持つのかはわかりませんが、それは、私たちの組織を助けるものになると信じていますから」
ゲオルグも、この発言に少し顔を緩めた。後ろでミーシャも肩の力を抜いていた。
「話は終わったか。飯にするぞ。さ、司教様はこちらにどうぞ」
「うむ。では、いただこうかな」
卓を囲む者たちは皆朝から良く食べた。ゲオルグとミーシャは初めてのパスタであった。ゲオルグはフォークのような木製の食器をぎこちなく使いながら、ミーシャはだいぶ悪戦苦闘しながら食べていた。
(ミーシャはあんまり表情の豊かな子ではないけど、美味しそうに食べるなあ)
ミーシャのスカイブルーの瞳は、初めての味わいに輝きを放っていたわけである。
「ごちそうさまでした。……創世神に感謝を」
「おう、お粗末さまだ。ミーシャだったな。お前、うまそうに食うじゃねえか。そこの澄ました顔で食ってるガキとは大違いだな。作った甲斐があるってもんだぜ」
「いえ、とても美味しかったですよ? この料理は初めて食べました」澄ましたガキは澄ました様子で答えた。
「だからよう、ゲオルグ。お前のその感想が本心から出てるのかイマイチ想像つかないんだよなあ。なあ、実はこれ食べたことあるんじゃねえの?」
「いえ、本当にありませんよ(今世では)」
「……まあいいや。それで、司教様。今日からこの二人を?」
「うむ、そうだ。この者たちに<講義>を施す」
「わかりました。それでは私、クリミァの魔法講義から始めましょう」
白衣の優男が柔らかく微笑んだ。
「<講義>で使用する場所は、ここ武闘場と、図書館の学習室になります。武闘場は、戦闘訓練と、魔法の鍛錬に。学習室は教養を修めるために使います。そして、今から行うのは、魔法の鍛錬になりますね」
「魔法、ですか」
「ええ。まずは、レイアさん。お手本を見せてください」
「分かりました」
紅毛の少女は応答するなり腰に差していた剣を抜きはなった。クリミァたちから少し離れた場所に立つ。
「ーーフッ」呼吸を整え、一閃。レイアの紅い瞳にわずかな揺らめきが起こる。下段に構えた剣は瞬く間に斜め上に切り上げられた。同時に少女の足元が衝撃で陥没する。圧倒的な速度と力感の感じられる一振りであった。剣風は猛然とゲオルグたちの前髪をかき上げる。
「ふう」
レイアは、残心とでもいうべきなのか、切り上げた姿勢を少しも崩すことなく保っていた。それをゆっくりとほぐし、こちらへと戻ってくる。圧倒されているゲオルグに強い眼差しをぶつけながら。
「さすがですね。ゲオルグ君、ミーシャさん。今のはレイアさんが得意とする<内燃系>の魔法です。身体を強化して、平常では発揮し得ない出力や、頑丈性、強靭性をもたらします。あとは<ホーリー・ヒール>」
クリミァが詠唱すると、彼の手のひらから淡い光が漏れ出し、ゲオルグたちに降りかかった。
「おお」
「すごい」
ゲオルグとミーシャは目を丸くしている。
「私の時は何も言わなかったくせに」レイアが目をとがらせた。
「まあまあ、どうしても<内燃系>は<解放系>の魔法に比べて分かりづらいところがありますから」
「基本的に、内燃系と解放系という二つの魔法があるということでしょうか?」
「ええ、そうなります。人は例外を除いて、魔力を放出するか、内側で燃やすか、このどちらかに適性があります」
「例外?」ミーシャが首を傾げた。
「そう、例外は、二つとも使うことができます。例えばーーあなたの隣にいるゲオルグ君がそうですね」
「お兄ちゃんが?」
「私がですか?」
「ええ。ゲオルグ君はなんといっても原初魔法の使い手である可能性が非常に高いですから。原初魔法の使い手は内燃系と解放系両方に適性があります。適性があるというよりも、原初魔法そのものが内燃・解放という概念で区別できるものではないのです。とにかく、原初魔法に目覚めたものは、非常に自由度の高い魔力運用が可能になります」
「でも先生、コイツは本当に原初魔法などという大層な魔法を使えるのでしょうか」
レイアがゲオルグを指さして言った。
「使えると、思います」答えたのはミーシャだった。「あの時、お兄ちゃんは泥を手足のように使いこなしていた、いました。怖い大人二人をあっという間に殺して、いました」
儚く小さな声だが、声色には熱がこもっていることが見て取れる。
「だそうだよ、ゲオルグ君。君が獲得したのは、泥の原初魔法なのかもしれないですね」
「泥、ですか」
「魔法を発現させるためには、感情を爆発させるような経験が必要になります。世間一般で言われているように、貴族の血筋にしか魔法が宿っていないのだ、というのは真っ赤な嘘なのですよ。ゲオルグ君、つらいとは思いますが、ミーシャさんのいう大人二人を瞬く間に屠った時のことを思い出してみてください」
「はあ……」(思い出すといってもなあ。あの時は無我夢中だったしなあ)
「お前! 目をつぶりなさい」
レイアが焦れた様子で声をかけた。
ゲオルグは言われた通り目をつむる。
「レイア! 何をするつもりですか!?」
「ぃゃああああああああ!!」
ミーシャの声だった。反射的に開けたゲオルグの視界には、腕を深く斬られたミーシャが映っていた。鮮血が宙をほとばしる。やせた少女はかすれた喘鳴をあげながら崩れ落ちる。地面に赤黒い染みができ、乾いた土が血泥に変わっていく。ゲオルグの意識は瞬く間に沸騰した。
「お前! なにすんだよおお!」
ゲオルグは目を見開き、拳を固く握りしめて紅髪の少女に突貫する。
「そうじゃないでしょうが」
レイアは至って冷淡な様子だった。昏い輝きを放つ紅瞳をやや煩わし気に細める。
彼女はつまらなそうにゲオルグの拳をいなし、裏拳で顔面を打ち抜いた。
「ぐっ――」
ゲオルグの首が急角度に曲がり、顔面から赤い血が噴き出した。鼻があらぬ方向に折れ曲がっている。彼は突撃した勢いそのままに地面に倒れ込んだ。
(意識が……)
「おいお前! 大事な妹が死ぬわよ!」
レイアは言うなり剣の柄でミーシャを殴りつけた。幼い少女の顔が苦悶にゆがむ。深く斬られた腕からの出血が度を増した。
「グ……!」
(クソっ! またこうなるのか!)
自らの血が染み込んだ地面に顔をつけながらゲオルグはうなった。
(あの女をなんとかミーシャから離さないと。泥か。オラァ泥! 割れてミーシャと女を引き離してみろよ!!)
「うおらああああああ!」
少年は折れ曲がった鼻柱を血泥になすりつけて叫んだ。するとゲオルグを中心に青い燐光が迸った。目にもとまらぬ速さで闘技場の地面が割れてレイアに迫る。反射的にレイアは飛び退った。
「逃がすかよおおお!」
ゲオルグは顔から血をダラダラと流しながら、宙を舞うレイアのほうへ手を伸ばし拳を握り込んだ。地面はそれにこたえるように、急激に隆起して少女に襲い掛かった。少女は口端を勢いよく釣り上げた。
「やるじゃない!」
レイアは瞳に魔力を漲らせ、剣を一閃する。泥の塊は瞬く間に両断された。その隙間を縫って、少女は宙を駆けた。空中を足場にゲオルグのほうへ猛烈に突進してきたのである。
ゲオルグは顔をしかめる。
(硬さが足りないのか!)
「圧縮しろォ!」両手を重ねてぐっとてのひらを押し付けた。両断されてばらばらと落ちていた土塊と、ゲオルグの足元の土が呼応して少女を急襲する。少女を打ち破ろうとせん土泥の先端は槍のように尖っていた。
レイアはニヤリと笑った後、後ろからくる土槍をひらりと躱し、前からくるものに関しては正面から打ち掛かった。一瞬の均衡があった。
「フッ!」
しかしレイアは硬度を増した泥も難なく打ち破った。泥の破れたとき、もはや二人を隔てる物はなかった。レイアの瞳が狂的な光を帯びる。憎悪と怒りの宿したゲオルグの瞳と視線がかち合う。
「ゲオルグウウウウウ!」
「レイアアアアアア!!」
「はい。そこまでです」
まさに交差せんとしていた二人に立ちふさがったのは、白衣の優男・クリミァだった。