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泥水をすする  作者: 遊楽 逍遥
教会編
5/16

第1話

「……知らない天井だ」

  はじめに知覚したのは、久方振りの柔らかな感触だった。

  転生してからというもの、家畜小屋のような寝床で生活することに慣れきってしまったことを自覚したゲオルグは、思わず苦笑した。

  苦笑したところで、自分が一体どうしてここにいるのか考えなくてはならないことに思い至った。


「確か……。暴漢から無我夢中でミーシャを守ろうとして‥‥‥、そうだ! ミーシャは!?」

「くぅ」

「あ……」

  隣であどけない寝顔を晒している妹を見て、ゲオルグは安堵した。

  ただ、これからのことを考えると、気持ちがどうしても重たくなる。覚醒したばかりのボケた頭では何も思いつかなかったが、二人が寝ている簡素なつくりの部屋は誰のものなのか、そしてそもそもここはどこなのか……。スラム街の中か外かすら分からなかった。


「ミーシャにとって、唯一の母親が死んだ」

  口に出すと、ことの重大さがより実感を持ってゲオルグに迫ってくる。彼自身には、前世の記憶があることもあり、そこまで大きなショックもないーー

「いや、そう思おうとしているだけかもな」

  母親の生気を喪った青白い顔は、いつでも圧倒的な現実感でもって彼の瞼に投影されるのだ。彼女の顔面には、凄惨な暴力の跡が刻み込まれていた。それは「どうして助けてくれなかったの」と語りかけてくるようにすら感じられて、ゲオルグの心臓を圧迫していた。


「んぅ‥‥‥。おにいちゃ‥‥‥」

  妹の呻くような声に、思索の海から意識を引き戻される。

  ゲオルグはそっと、ミーシャの小さな手を握った。


「おや、起きられたかな」

  威圧感すら覚えるほどの重低音が、ドアの開閉する音とともに聞こえてきた。

  部屋に入ってきた男は、一見して神父のようであった。しかし商会で働いていた時に見かけたそれとは異なった風貌であった。まず、ローブが黒い。ただ、刻印されている模様は、星の魔法陣の中に十字架のある、以前に見かけたものと同じようであった。なので、同じ宗教団体の関係者のはずであった。


「なにか、喋られたらどうかな」だまって神父らしき人を見続けるゲオルグに、もう一度声がかけられた。

「す、すみません」

  ゲオルグは反射的に謝った。そうさせるだけの雰囲気が、男にはあったのだ。男の年頃は初老といったところで、豊かな白髪を後ろに流し、毛量の多い眉毛が特徴的であった。眉毛に隠れて目はだいぶ細く見えるが、そこから放たれる眼光は、ゲオルグの現世と前世を足し合わせても出会ったことのないものであった。


「まず、助けていただいたようで、ありがとうございます」

「ふむ。まあ、大したことはしていないと、言っておこう。それで、お主らの今後についてだが、少し話があってな。別室に来られよ」

「はい。ーーあ、いえ」

  思わず頷いてしまったが、それでは妹を誰が見ているのか。

「ふむ」ゲオルグの視線の動きから考えを察したらしい神父は、ミーシャに近づいていった。

「<スリープ>」

  彼が行使した魔法は、スラム街で用いたものと同じであった。助けられた子供二人がそれに気づかないことは、無理からぬことである。

  闇魔法を示す黒い魔法陣が、彼の手のひらに出現した。そして、黒と紫を混ぜ合わせたような靄が少女に降りかかった。

「ちょ、ちょっと、何するんですか!?」

  当然これに泡を食ったのはゲオルグである。


「何とはーー、ああ。別にお主の妹を害するつもりは毛頭ない。そうか、魔法を見るのは初めてかな?」

「害はないって、どういうことですか?」

「今使ったのは、<スリープ>という闇の初級魔法だよ。ただ眠らせるだけのね。しかも初級だから、効果も大して強くはない。納得してくれたかね? お主は、妹を一人にして、その時に目が覚めたらどうしようなどと、考えていたように見えたがね」

  落ちつきはらった男の態度に、ゲオルグは自分の立場を認識せざるを得なかった。何を主張しようと叫ぼうと、力無い少年に、この場を打開する手立てなど、ありはしなかった。


「お主と話がしたい」

  黙り込んだ子供に、司教が声をかける。

「ここではなんだ。別室に来てもらおう」全てが決定事項であるかのような口調であった。

  ゲオルグはせめてもの意地と、答えることなく尖った視線を男に向けた。司教はこれに反応することなく、黒衣を翻して部屋を出ていった。少年も、傍に眠る妹を起こさぬよう静かに後をついていった。


  前を歩く初老の背中は、ゆらぎを見せない。素人目に見ても、美しい歩き姿であった。

  ゲオルグはぼんやりと、その後ろ姿を眺めていた。彼に突如降りかかってきた一連の事件は、いまだに消化不良のまま、ゲオルグの思考を停滞させていたのである。


  案内されたのは、一対の椅子と木机のみが置いてある簡素な小部屋だった。

「掛けたまえ」少しの間の後に、司教が促した。

  自然な流れで、老人を上位者だと捉えていたゲオルグにとって、神父より先に座るという選択肢は無かった。そんな少年を、老人はじっと観察するように見つめていた。


「〈ダーク・ディテクト〉」

  着席した二人の間に横たわった沈黙を破ったのは、司教による闇魔法の詠唱だった。初老の節くれだった指先から、白みがかった紫色の、それも禍々しい感じのない輝きが溢れる。その光はゲオルグをスキャンするかのように彼の全身を走り回った。

  老人は豊かな白眉をぐいっと上げた。神父の放つ眼光の鋭さと迫力にゲオルグは思わず身構える。怪しげな光線を浴びせかけられたのである、ゲオルグの心中は全く落ち着かなかった。


  緊迫の時間が数分続いた。ゲオルグにしてみれば生きた心地のしない時間であった。彼の耳の裏側を、冷めたい汗が通り過ぎた。老人は微動だにせず、一心にゲオルグへ視線をやっていた。そして。

「ふう。もういいだろう」

  司教は何か確信を得たのか、眉毛を下げて、息をついた。

「あの……」

  一体今のは何だったんでしょうか、という言葉は、喉が詰まって発されることなく消えた。ゲオルグは、自らの喉が干上がっていることによって、先の数分間の緊張を自覚した。


「お主は、どうも気味が悪いくらい落ち着いている」

  動揺するゲオルグの心中とは裏腹な言葉が、神父から投げ掛けられた。

「落ち着き、ですか」

「左様。お主、年は幾つだ?」

「おそらく、7つくらいだと思います」

「であろう。しかし、私の知る7歳とお主は如何にも、かけ離れているように感じられるがね」

「そう言われましても、他の7歳と自分とを比較したことがないものですから……」

「そう。そういったところが、おかしい。いくら早熟でなければ生きぬくことの叶わぬスラム街の住人とはいえだ。どうも私の目には、子供の姿の上に、成熟した大人の精神というか輪郭と言おうか、そのようなものが映るのだよ」

  ゲオルグは、自分がどうもあらぬ疑いーーというには心当たりのある話だがーーをかけられていることを感じ始めていた。先程自らに当てられた魔法的な光は、何かを調べていたのではないか。場合によっては、何かしらの処置をこの上位者にされてしまう可能性がある。

  その考えが、ゲオルグの表情に少しずつ現れる。無意識のうちに、唇にこもる力が増していた。


「なに、そう硬くなることはない」

  ゲオルグの表情に厳しさが滲み出したことを認めた老人は、ゆっくりと話し出した。

「先程かけた〈ダーク・ディテクト〉だが、あれはいわゆる「悪魔憑き」を調べる魔法でね。邪悪なものがお主の体を支配している可能性を危惧して施したものだ。だがその疑いは晴れた。よほど高位の悪魔が擬態している可能性もなくはないが、私が分からぬものが、他の者に探知できるとも思えぬ。だからそのお主の精神は、禍々しいものに由来することなどないわけであるな。少しは安心してもらえたかね」

「そのような疑いをかけられていたことにまず驚いていますがーー、その説明だけでは、到底安心できません」

「なにが聞きたい」

  司教の瞳が、理知的な輝きを放った。この年不相応の子供が次はなにを言うのか。試しているようにも見えた。

「僕とミーシャーー妹ですがーーは、なぜここにいるのでしょうか」

「なぜ、かーー」老人は肩をそびやかした。「答えは簡単だ。お主が、巨大な魔力を行使したからだ」


  ゲオルグの表情は変わらなかった。視線で司教に続きを促す。

「私としては、簡潔な答えを提供したつもりなのだがね。たとえ話をしようか。街中に首輪の付いていない魔獣がいたらどうするかね。ああ、魔獣というものを見たことがないというなら、体躯の巨大な野犬でもいい。そんなものに出くわしたらどうする」

「逃げます」

「それは力無い者の結論だ。もし、お主にそれを倒すだけの力があったとしたら、どうする」

「討伐することになるでしょう」

「結構。お主はそういった状況にあったのだと理解してもらっていい」

「ですがーー」

「そう。お主は知恵なき獣ではなかった。首輪がついていない、という点では同じだがね」


  ゲオルグの眉間が少しだけ緩んだ。

「では、あなたは私たちの庇護者、ということになるのでしょうか」

  黒い法服を纏った神父は、ゆっくりと頷いた。

  少年は身を乗り出して言葉を継ごうとする。が、それは老人の無骨な手のひらを眼前に据えられたことにより制止された。

「一応納得してもらえたところで、君たちーーいや、特に君にやってもらいたいことがある。<肉を供さぬ家畜に飼料なし>という慣用句があるだろう」

  司教はいったん口を閉ざした。部屋じゅうの空気という空気が、圧力となって少年の小さな体にのし掛かってくる。おもむろに老人は立ち上がった。ゲオルグを見下ろしながら、彼は言う。

「案内したい場所がある。ついて来なさい」

  彼は自分の腰掛けていた椅子を戻した。椅子の脚が床に擦れる音で、ゲオルグは我に返ったような心地になった。老人の背中はすでに扉の向こうへと消えかかっていた。







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