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泥水をすする  作者: 遊楽 逍遥
序章
4/16

追憶Ⅲ

この話で前置きは終わりになります。

 ――その日は、通り雨が降ったせいか、かなり肌寒さを感じる夜を迎えようとしていた。

「今日はすっかり遅くなっちまったなあ」

 ひとりごちるゲオルグの頬は紅潮していた。


 その手には、いつもの駄賃である食料品と、今日は珍しく、小さな木樽が収まっていた。そしてこの少年がやや頼りない足どりで家路についた理由は、この樽にあった。

 ゲオルグを見出した商人、つまりこの店の主がおいしい酒が入ったからと、皆にふるまったのである。


 ゲオルグ少年は当然酒など一滴たりとも口にしたことはないわけだが、彼の中身はと言うと、酒を好む性質であった。店主が樽の栓を抜いた瞬間の、ぶどうと思われる果実の芳醇な香りに、彼は即堕ちしたのである。

 交渉の結果、彼は味見をたっぷりとしたうえで、「家族の分」という名目を立てつつ小さいながらも木樽一つ分を持ち帰ることに成功したのであった。


 彼が、鼻歌でも歌いだしそうな心地で、暗くなりつつあるぬかるんだ路地を歩いていたときであった。一家の住居がある区画のほうから、ただ事ならぬ気配が漂ってくるのをゲオルグは感じ取った。


 人びとが争うような物音と、か細くとも鼓膜の底をひっかくような悲鳴。

 彼はその悲鳴に心当たりがあった。

 思わず手にした木樽を強く握りしめる。

 (いや、別に家が襲われていると決まったわけでは……)

 ただ、僅かに聞こえてきた声は、聞き覚えのあるものだった。


 心臓から押し出される血液の量が刻一刻と増加していることをゲオルグは感じていた。急いで帰らなきゃいけないと気持ちは焦るばかりで、

 (なかなか足が動かねえ)

 びくびくとこめかみが脈をうち、呼吸が浅くなる。

 この廃墟を抜けた奥に、我が家はある。

 ゆっくりと、だが確実に、彼は地獄へと向かいつつあった。

 酸素が足りていないのか、少し歪んで狭まった視界に、壁が粉砕された粗末な建物が映り込んだ。家族の幸福の巣。


「おかあさん! おかあさん! いやああああ!!」

 妹の声だった。

「肉付きは悪いが、いい見てくれじゃねえか。母親はぶっ殺しちまったけどよお、こいつで少し遊んでかねえか?」

「いいねえ! 最近おもちゃみてえに女を扱ってなかったからなあ。久々にひねってみるのもいいと思うぜ」

「っおいおい! てめえの()()()()はアブノーマルすぎんだよお! 後でおもちゃはやるから、今はおとなしくしててくれよ。……まずは俺の欲求を満たすとするかあ!」

「ひっ! いやだよ、助けてよ」

「はははっ!! このスラム街で助けなんか来るわけねーだろうが!!」

「おまえ、早く済ませろよ。俺も遊びてぇんだからよ」

「わりぃわりぃ。んじゃ、味見させてもらおうかね――」


 ゲオルグは、眼前で繰り広げられている地獄絵図に、全く理解が追い付かなかった。

 男の、爪の中が真っ黒に汚れた野太い指が、妹の衣服に迫る。

 野蛮きわまる侵掠者たちは、壊れた戸口に立つ幽鬼のような少年の姿に気づいていない。おのれらがこれから繰り広げるであろう蛮宴にのぼせ上ってしまっているからだろうか。


 ゲオルグは声すら出せずにいた。

(どうすればいい? どうすれば)

 糸のきれた人形のようにほんの少しも動かない母親はすでにこと切れてしまったか。

 激しい暴行のあとが彼女の虚ろな顔面から読み取れる。

 意思を映さない空っぽの瞳と、ゲオルグの視線がかち合う。


「おにいちゃ……、おにいちゃん!!」

 彼に気づいた妹があらん限りの声を振り絞った。かすれた甲高い声が、ゲオルグの鼓膜を通り抜けて、脳みその奥まで串刺しにする。

(俺は……おれは……何もできないのか? わざわざ異世界まで来て、こんな終わり方をするのか?)

「いやああああああ!」

 男の腕が、か細い妹の体を捕らえる。


「う……うわあああああああああああ!」

 少年は走った。

 勝算などどこにもありはしなかったが、だまって成り行きを見ていることだけは、許せなかったのだ。

 不意を突かれた男たちの手から、妹を奪還する。

 ゲオルグの懐には、確かなぬくもりがあった。

「おにいちゃん」縋るような、どこか安堵したような瞳がゲオルグに向けられた。

「ミーシャ……」

 彼は妹の名を呼ぶ。しかし、この後の打開策がどうにも浮かばなかった。逃げるか、闘うか。ゲオルグには、どちらの道にも絶望が仁王立ちして待ち構えているように思えてならなかった。


 一方の襲撃者たちはいら立ちもあらわな様子である。

「クソガキィ。テメェ俺たちの邪魔しやがってよう。殺すだけで済むと思うなよ?」

「ひひっ。このガキの前で妹のほうを壊したらさぞかし楽しいだろうなあ。だからさあ――」

 男のうちの一人が、獣さながらの速さでゲオルグたちに襲い掛かった。

 彼に許されたのは、胸の中の妹を抱きしめて守ること程度であった。

 思わず背中を向けたゲオルグに、容赦ない一撃が叩き込まれる。

「んっ――」息が詰まった。そして、全身が吹き飛ぶような衝撃と痛みが彼に襲い掛かった。

 子供二人は殴られた衝撃で吹き飛ぶ。

 その勢いはすさまじく、家の粗末な薄壁を突き破って、外まで転がっていくほどである。


「オイオイオイ! 一発で死んじまったんじゃねえのか? これじゃ何にも楽しめねえだろうが」

「わりいわりい。力入れすぎちゃったわ」

 殴った男が、泥濘にうずくまりぐったりしているゲオルグをの首根っこを掴み上げた。

「おーい。生きてますかー?」

「お。妹のほうは結構無事じゃん。きれいなモンだな」

「いや……いや……」ミーシャの声は消え入りそうなほどか細かった。その視線は、ぼろ雑巾のようになった兄に向けられていた。


 ゲオルグは吊り下げられ、されるがままである。

(ここまでなのか……。俺に力がないから、母親も、妹も守れないのか? このままじゃミーシャは死ぬよりひどい目に遭う。このままじゃ何のために転生したのかわかりゃしねえ。ああ……。なんでもいいから力が欲しい。この絶望を塗り替える力が)

 男の汚らしい手が、ミーシャのおとがいを撫でる。

 人形をもてあそぶような手つきだった。

「なんか静かになっちまったなあ。オイ、お前妹を泣かせろよ」

「お。いいねエ。じゃあまずこのクソガキを調理するとしますか」男たちの口調はどこまでも軽かった。

「じゃあ俺はメスガキを啼かせてみるとするかア」

 妹の粗末な衣服は瞬く間に剥がされる。

 ミーシャはただ虚ろな視線を兄へ向けていた。

 ゲオルグの心中は怒りと悲しみであふれかえっていた。

(俺はなぜ転生などした! これはあんまりだろう。ただ苦しみを味わうためだけに生まれ変わったというのか? クソっ、何かないのか、何か……!)

 ゲオルグ視界には、絶望のほかに、ぬかるんだ地面ばかりが映っていた。


 男がズボンのベルトを緩めた。

 彼の息遣いが荒々しさを増していく。

 絶望がその黒々しさを深めていくように、ゲオルグには感じられた。

 うつむいて下を向くゲオルグの目につくのは泥ばかりだった。

(泥……。泥か。)

 彼にはなぜか、泥が自分に呼び掛けているように見えた。

「ホラあ、見ろよ」

 前髪をつかみ上げられ、強引に妹のほうへ向かされる。

 男は彼女の白い躰を抱き上げていた。

(や、やめろ)

「やめろおおおおおおお!!」

 血圧が振り切れて、頭が沸騰するような心地になる。

 彼は、最後に意識がぶつんと断線したことだけ、知覚していた。


 ぞわりと、空気が波立った。

 それは尋常ならざる密度の魔力が引き起こした波動であった。

 痩せた少年を中心として、荒くれた男たちも体験したことのないような力が渦巻いている。

「っオイ! なんだこりゃ? ズボン下げてボケっとしてんじゃねえ!! 早くずらからねえ……と……?」

 異常を察知して素早くゲオルグを放り投げた男の胸に、茶色のトゲが生えていた。

「ああ……?」その男は何が起きたかを把握することなく、死んだ。

 胸元にあいた穴は決して大きくなかったが、心臓が八つ裂きになったことは間違いなかった。

「はあ!? 何が――」

 妹を獣欲のほしいままにしようとしていた男も、死んだ。

 サッカーボールほどの土くれの塊が、男の顔面を襲い、首と引き離したのである。

 

 ミーシャはただ、土と一体になって宙を舞う生首を見つめていた。

 その首が地面に落ちたのと同時に、ゲオルグもまた倒れ伏した。

 ピクリと、倒れたはずの少年の体が動いた。同時に周囲の泥がさざめき――原初魔法「泥」の覚醒が始まった。

 そして、ままならない世に怒りと無力感を振りまいた後、固まっている妹の傍に座り、再び意識を失った。





「馬車をとめてください」

「司教様。ここはスラム街の近くです。危険です」

「もちろん、心得ています。ただ、少し用事ができました。あなたはここでお待ちなさい」

 

 豊かな白髪を総髪にした初老の男が馬車から降り立った。

 その男は司教と呼ばれた。

「感じたことのない魔力です」

 そうつぶやくと、足に魔力をまとわせ、力強い足取りで進みだす。悠然としているようで、常人には出すことの叶わない速さでもって歩を進める。這入ったことのないスラム街を、全く迷いのない足取りで目的地へ向かっていった。スラムの住人は、風のように通り過ぎる老人を瞠目して見送ることしかできなかった。

 ほどなくして、凄惨な現場に辿り着いた。司教は二つの死骸を一瞥すると、

「<スリープ>」

 呆然としている少女を闇魔法で眠らせた。


「この子たちは、孤児ですか。いや……」

 男は視線を巡らせると、ボロ家の中に女性がうずくまっているのが見えた。傍によって、観察する――が、

「見るまでもないですね」暴力の刻まれた母の骸は、明確に命が抜け落ちていることを示していた。

「孤児になってしまった、ということですね。スラム街ではよくある話でしょう。しかしこの子には才能がある。ここで散らしてしまうにはあまりに惜しい。私がこの子らを引き取ります。彼らには艱難辛苦が待ち受けているでしょうが……。<ヘル・ファイア>」

 女性の遺体が、真っ黒な炎に覆われる。その炎は熱も光も感じさせることのない特殊なものであった。それは母親を骨も残さず燃やし尽くした。

「安らかに眠りなさいとは言えません。彼には才能があった。なければここで男たちに蹂躙されて命を落とす運命でした。スラムの日常の一幕として。しかしそうはなりませんでした。未来、二人はここで死んだほうがマシと思うこともあるかもしれません。ただ、賽は投げられてしまいました。母君、あなたは、神の国より見守っていて下さい」


 司教は腰をかがめてそう言った。しばらく祈りを捧げるようにじっとしていた。

 彼は腰を上げると倒れている子供二人を両脇に抱え込む。そして、来た時と同じように魔力をまとって、その場を立ち去った。


これからもまったり更新していきます。

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