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泥水をすする  作者: 遊楽 逍遥
序章
3/16

追憶Ⅱ

 「ただいま……」母親の声はひどく疲れ切っていた。

 ゲオルグもミーシャも、彼女の悲惨と言わざるを得ない姿かたちを目の当たりにして、一言たりとも発することができなかった。


 「ごめんね、ごめんね……」

 立ちすくむ二人を前にして、母は泣き崩れた。

 

 「母さん」

 ゲオルグの声は、あまりにも所在なさげだった。

 何せ半分くらい他人のようなものである。アラサーリーマンにも母親はもちろんいた。ただしそれはあくまで前世の話であって、目の前に膝をついている、やせ細った女性に対する距離感は全くつかめないのである。


 妹は何も言わずに彼女に縋り付いていた。ただ、彼女の空色の瞳からは、涙がとめどなく溢れていた。




 母親の話によると、もともと顔の左側にある酷いやけどの跡が、この有様の原因らしい。彼女はいわゆる娼婦と呼ばれる――それもあまり待遇の良くない――職業に就いていたようである。


 確かに、パンと雑スープとわずかな日用品でその日暮らしを強いられている時点で、待遇がよくないことは、想像に難くなかった。

 雇い主は、母のやけどについて、承知したうえで、隠しつつ働くことを容認していたらしい。隠すにしたって限度があるだろうと、転生者の入ったゲオルグは考えたが、長い髪と、バンダナのような布で、ファッショナブルに覆っていたらしい。


 「でもね、今日のお客さんは、とても乱暴で……」

 母はぽつりぽつりと語っている。傷が痛むのか、時折顔をしかめながら、ゆっくりと話していた。どうせ幼い二人には明確に理解できないだろうと、かなり明け透けに語った。

 二人は黙って聞いていた。


 モンスターランド(ゲオルグの想像)であろう場末の娼館で、やけどの跡さえ隠してしまえば、母の容貌は、一級品と言う他ないと、ゲオルグは思った。

 鶏群の一鶴とはこういうことを言うのだろう、とも思ったりしていた。

 

 その日は空きっ腹を家族全員で抱えたまま、みなで身を寄せ合って眠りについた。


 この事件以降、母親は栄養不足からか傷の治りが悪く、体調を崩しがちになっていった。

 当然娼婦として働かせてくれるようなところもなく、体力のない女性ができる仕事など、この界隈には無きに等しかった。

 

 ある日、彼女は子供二人の手を引いて、大通りへ向かった。

 わずかながら備蓄してあった食料もいよいよ底を突こうかというときであった。

 ゲオルグは緩やかな滅びに向かいつつある自分たちを客観的に認識しながらも、何もできないでいた。環境の良い現代日本で普通といっても差し支えない人生を送ってきた人間に、見知らぬスラム街で主体的に動けというのも難しい話なのかもしれなかった。


 大通りにむしろのようなものを敷いた母はこういった。

 「食べ物や、金銭をめぐんでくださる方はいらっしゃいませんか」


 典型的な乞食スタイルである。

 平伏する彼女の前には欠けた木椀が置かれ、もし何らの憐憫を誘うことに成功すれば、そこにいくばくかの賎貨が投げ込まれるといった具合である。


 ゲオルグは半ば呆然とした面持ちであった。

 (俺は一体、何をしているのだろうか)

 粗いむしろに額をこすりつけながら、ゲオルグは自問した。

 (俺が働かなくて、どうするってんだ?)


 そう、彼は、身体的に未発達なところが多いとはいえ、この家族の中で、一番の収入源になりうる存在である。

 (でも、どうすればいいのだろうか)

 現代社会で身に着けたスキルや、知識がこの地で通用するとは思えなかった。ただ、一つだけ転生したことによるアドバンテージがあるとすれば、それは、精神力である。


 (ほかの子供が逃げ出すような仕事でも、俺ならこらえられるんじゃないか?)

 ゲオルグが思索にふけっている最中、木椀に硬いものがぶつかった音がした。

 彼が思わず顔を上げて、椀の中を見ると、そこには何の値打ちもない金属片が転がっていた。ハッとして通りに目を向けると、指をさしてこちらを笑っているガキが目についた。


 奥歯が砕けるのではないかと思うほど歯を食いしばり、ゲオルグは怒りに震えた。

 母は、そんな侮辱にもまるで動じておらず、「お願いします」頭を下げ続けていた。

 妹は慣れない人ごみと数々の視線に耐えきれないのか、母親に寄り添うようにして、うずくまっていた。

 ゲオルグの中で、決意が固まりつつあった。

 結局その日、僅かな金銭を手入れることができ、家族はまた一日、命をつないだ。




 翌日、家族に家で休んでいるように言うと、ゲオルグは家を飛び出した。

 (とにかく、日雇いで銭を得るしかない)

 スラム街から、都市のはずれのほうに差し掛かった時、大きな荷馬車に、荷物を運びこんでいる集団がいた。


 「あの、すみません」

 「ああ? 何か用かい? 君にあげられるようなもんはここにゃなにもないよ」

 「いえ、私はものが欲しいのではなく、仕事をさせていただきたいのです。ここにある荷物運びをお手伝いいたします。その対価として、いくらかお金をいただけませんか」

 ゲオルグに話しかけられた商人は面食らったような気色であった。

 薄汚い貧相な子供が話しかけてきたと思ったら、これがまた丁寧な言葉を使う。


 ゲオルグだけであれば、間違いなくできない話し方であった。中にアラサーリーマンが入ったからこそできる芸当である。商人はそんな彼に興味をひかれたようだった。

 「いったいどこでそんな言葉づかい覚えてきたんだ? まあ面白い。手伝ってみな。出来高払いと行こうじゃないか」

 と言うなり、商人は日焼けした逞しい上腕を使って、力強く荷馬車に荷物を積み込んだ。

 ゲオルグは思わず自らの枯れ木のような細腕を見つめた。自分の力ではなかなか難しそうな作業であることを悟ったようである。

 「すみません、荷物が多いようですが、これらはどういった仕分けで馬車に運び込むのですか」

 「ふむ……この黒い木箱が一番前の馬車、樽状のものが手前の馬車、箱詰めされていないものは残った場所に積み込もうと考えているけど、どうかしたかい?」

 「思うのですが、それぞれの箱を馬車の前に配置したうえで、積み込むのはどうでしょうか。今、運び手の方々は荷物のある場所からおのおの馬車までもっていっていますので、効率が悪いように感じられました」


 ゲオルグが提案したのは、分業のようなものであった。

 よく見れば、額に汗して荷物を運びこんでいる人足の多くが、汚い身なりをしていた。

 もしかするとゲオルグと同じような連中なのかもしれなかった。後は商会の従業員と思しき人たちが監督しているように見えた。

 

 商人は少し考えた後、「そうだな、試しにやってみるか」とうなずいた。

 「おい! お前たち! 馬車に積み込む前に、ちょっと仕分け作業をやってみてくれないか。……そう、君が持ってる荷物はいったん馬車の前に降しておいてくれ」

 「あとは、馬車の中に人員を配置して、馬車にあげる人と、なかでしっかり整理する人を分けるといいのではないでしょうか」

 「確かに、その通りかもしれんな。言われてみれば、なぜこのようなことをやらなかったのかと思えるよ。では、君は何をしてくれるのかな」

 「私はこの通り、大した力がありませんので、箱でない品物の集約をしたいと思いますが、どうでしょうか」

 商人はにっこりとほほ笑んで、ゲオルグに実行するよう促した。


 一通り作業が終わった。人足たちはなけなしの賃金を受け取り、次の仕事を探し求めて去っていった。

 「君、名前は」報酬の最後の受け取り手であるゲオルグに、商人は尋ねた。

 「ゲオルグと言います。姓はありません」

 商人は無骨ながらもきれいに整えられた眉をひょいと上げた。

 「おかしなことを言う。この国のほとんどの人間に姓などないよ」

 「すみません、昔に母が聞かせてくれた話では、そのような名乗りをしていた登場人物がいたもので、それが思わず出てしまいました」

 ゲオルグは相手の会話に少しかぶせるようにしてまくしたてた。

 

 「……まあいい。それで、ゲオルグ君。君が良ければ、うちの商会で下働きをしてみないか」

 「えっ」やせ細った少年の喉が上下する。細かく振動する瞳が、心中の動揺をそのまま映し出していた。

 「もちろん、それなりの待遇は約束しよう。少なくとも今よりはいい生活ができるようにね」

 商人は、じっと意志の強そうな視線を向けた。ゲオルグの応答を待たずに、男は言葉を継いだ。

 「私は、これでも人を見る目があると自負していてね。君の姿かたちはそれこそ都会のそこらじゅうをはい回るネズミのように見える。しかし、君は聡い。賢いといってもいい。言葉遣い、所作、頭の回転。君と同様にこなせる同い年の子供が、それもスラム街の子供がどれほどいるか。私はこう考えたわけだ」


 商人は肩を少しすくめるようにしてゲオルグに向き合い直した。

「ありがとうございます。私は多少他の子供よりも知恵が回るかもしれませんが、どうにもスリや盗みの類はできないものでして。もし私がお役に立てるのであれば、喜んで働かせていただきたいです」

 男は日焼けした顔に笑みを作って、分厚い掌を差し出した。

 ゲオルグは無言で握り返した。

 握手という社会的な振る舞いを、無知なはずの子供がしたことに、商人は自らの眼力の優れたるを再認識したのであった。


 


 それからしばらくは、い日々だった。ゲオルグにとっても、家族にとっても、幸せな――もしかすると、三人が共有した時間の中では、最も平穏で、幸福な日々だったといえるかもしれない。

 ゲオルグは精力的に働いた。彼が下働きをしていたのは、食料品を中心に据え、様々な物品を扱う大店だった。少年が従事した仕事はほんの雑用であったものの、店の中をこまごまと動き回り、現代人の目から見て改善しうる部分を報告したりもしていた。


 ゲオルグの年齢不相応な利発さと落ち着きを、商会のメンバーはいたく気に入ったようで、彼らの間には、信頼関係が醸成されつつあった。当然それは稼ぎのほうにも反映され、スラム街の中ではそれなりに良い暮らし向きを獲得しつつあった。

 日中は五体をふるって働き、夜は家族と団らんする。

 チートも何もないが、決して悪くない生活だと、ゲオルグは満足しつつあった。

 ゆくゆくは、商会で正社員的な身分になることも夢ではないと彼は考えていたし、実際その発想はそう的外れとも言えなかった。

 

 ――その日が来るまでは。

お疲れ様でした。

次回でこの追憶編も終わります。

少し冗長になったと反省しております。

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