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泥水をすする  作者: 遊楽 逍遥
序章
2/16

追憶Ⅰ

この話と、次の話で、追憶編といたします。

とりあえずの過去話のようなものです。

追憶1


 29歳、二流大学卒業、二流商社勤め、オタク。……童帝(笑)。これがゲオルグという少年の中味である。これといった取り柄もなかったが、際立って無能というわけでもなかった、と本人は思っている。

 

 そんな平凡な彼の唯一の凡庸ならざるところは、労働量だった。常態化した連日連夜の残業も弱音を吐くことなく、やった。やり遂げた。やり遂げた結果――階段から転げ落ちて、首が曲がっちゃいけないところまで曲がってしまった。


 「いてぇ」


 と言えたかどうかもわからない。見事な即死であった。


 どこかから、アラサーリーマンを呼ぶ声が聞こえる。毎朝目覚ましにしている、美少女声優の、脳みそがきゅんとなるような、声ではなかった。


 「ん……?」

 

 彼は呼びかけに応じようと、まぶたを持ち上げた。


 「‘&%$#“#$%&’@:*;l???!!#!?!?!?」


 彼の三十年余りの人生において体験したことのない痛みと衝撃が、爆発した。

 爆発したといっても、それは彼の痛覚その他の範囲内であるので、外から見る分には、少年が悶えているようにしか、受け取れない光景ではあるのだが。


 「ゲオルグ!」

 「おにいちゃん!?」


 彼の視界はぐるぐるめぐり、揺れ、全く焦点が定まらない。脳みそはドクンドクンと脈を打ち、心臓は早鐘を鳴らしに鳴らしている。「彼」という存在が、根底から覆されて、真新しい「何か」になっていく感触に、言葉はおろか、うめき声すらも出すことができなかった。

 ゲオルグという少年の記憶が、アラサーリーマンの脳みそを直撃したのであった。

 当然、まるで聞きなれない呼びかけに応じることはかなわず、視界が一瞬クリアになった後――意識はブラックアウトした。




 最初に知覚したのは、匂いだった。妙に泥臭い。三十年余コンクリートジャングルで暮らしていた都会っ子をしていた人間にはあまり慣れない匂いが鼻を突いた。それだけではない。汗の匂いが発酵したような、饐えたものや、食べ物の腐ったようなものなど、気持ち悪くなってしまうような香りが充満していた。


 彼は、あまり神経の通っていないように感じられる腕を動かした。指先から返ってくるのはざらりとした土の感触だった。


 目を見開く。


 ――知らない天井だ。


 ゲオルグには、いいや、現代人にはあまりに見覚えのない天井の形であった。

 「おにいちゃん!」

 現実を受け入れられず呆然としているゲオルグの視界に、かわいらしい顔が入り込んだ。


 決してきれいに切りそろえられているとは言えない髪が、彼の顔にかかった。

 ゲオルグの中にある記憶と、目の前の少女の顔が一致した。

 色素は薄いものの、透き通った空色の瞳を持った少女。

 彼女は叫ぶなりゲオルグに抱きついた。


 「もう……死んじゃったのかと思ったよ」


 (うん? 俺死んだよな?)

 彼は妹のぬくもりを感じながら、益体もないことを考えていた。


 妹に助けられながら身を起こして、話を聞いたところによると、どうやら突然倒れた後、ひどい熱にうなされていたようである。なんと五日も。


 「お水、持ってくるね」

 妹は、枕もとの甕に水がないのを確認すると、粗末な暖簾のような布を押しのけて、外へと出ていった。


 ゲオルグはようやく、落ち着いて考える時間を得ることに成功した。

 (俺は一体どうしてしまった……いや、異世界転生しちまったんだなあ、これ。ワンチャン地球ってこともあるのか? 魔法とかまだ見てないし。にしても、ひでーな、この家。

てかこれ家って呼べるものか? 家ないはずのホームレスさんのがマシなんじゃねえの、これ。病気になりそうったらないなあ……。)


 「俺は、ゲオルグ。苗字はない」


 彼は、かみしめるように、言葉を発した。まるでギプスを外したばかりの腕が動くのを確かめるように、ゲオルグという少年と、現代日本で三十年ばっかし生きていた自分とを擦り合わせようとした行為に他ならなかった。


 「おにいちゃん、なんか言った?」

 「いいや、少しため息を漏らしただけだよ」

 彼は平静を装って答えた。


 妹が持ち帰ってきた器を、礼を言ってから受け取った。

 (これを、飲むと?)

 ゲオルグの中にいる現代人は、盛大に頬をひきつらせた。ところどころ欠けのある木製の粗いカップ(口をつけるのも躊躇われる)には、少しばかり透明度の低い水が、飲んでくれよとばかりに波打っていた。


 (ええい、ままよ!!)

 たかだか水を飲むだけだというのに、異常な気合を入れて飲み干そうとする兄の姿を、妹は不思議そうに見守っていた。

 現代人の心は不味いと叫んだが、ゲオルグ自身の味覚は、慣れ親しんだ水だからか、これといった反応を示さなかった。救いといえば救いである。


 ゲオルグはおもむろに、力の入りずらいやせ細った体を起こして、かかっていたぼろ布をどけ、その際に跳ねていったシラミだか何だかは努めて無視して、ゆっくりと外へ出た。妹は心配そうな顔つきで後ろに続いた。


 何日ぶりの光だろうか。リーマンの記憶には全くなじまず、ゲオルグにとってはいつも通りの、あばら家の立ち並ぶスラム街のうらぶれた風景が、網膜に突き立った。太陽の方向にはこの国最大のランドマークである、天魔塔がシルエットとして黒々とその威容を存分に見せつけていた。帝都の主要な区画は丘の上に立つ巨塔の向こう側にあり、反対側に位置するスラム街はその陰になっていた。じめじめとした真昼のスラム街は、近くにある軍施設の職にありつくため老若男女みな出払っており、静かなものだった。強いて言うならば、仕事をできない幼い子供たちの声が、遠くから聞こえるくらいか。


 (やはり、異世界か……)

 転生したと思しき頃から今まで、大した時間は経っていないものの、ゲオルグという少年の記憶を通じて、自らの立つこの地が、地球のどこにもなさそうであることは、察しがついた。


 (憑依ってことになるのかな、この場合……)

 いつものように、ぴたりと寄り添ってくる妹――ミーシャ――の頭をなでなでしながら、ゲオルグは物思いにふけった。

 普通に考えれば、アラサーリーマンの魂が、もともとあったゲオルグ少年の人格を塗りつぶしてしまったようなものである。ただ、高熱でうなされていたという間に、その辺の統合は済んでしまったのか、何の感慨も湧いてこなかった。もとよりゲオルグという人間は、こうであったのだ、としか認識できなかった。


 「戻ろうか」

 「うん」

 母は働きに出て、ゲオルグが妹の世話をする。これが最近のパターンであった。ゲオルグは大体七つくらいの年頃であるので、もう働いていてもおかしくはないが、一つ下の妹がもう少し大きくなるまでは、一人にするのが不安だという母親の要望に応えて、二六時中一緒にいることが多かった。


 (確かに、かわいいな、わが妹ながら)

 薄汚れてはいるし、体臭もきついものの、ミーシャの器量は非常に良かった。美しくややつり上がった大きな瞳に、すっと通った鼻梁、あどけなさが残り少しふっくらとしてはいるが、あごのラインもきれいに整っている。

 ただ、ゲオルグ自身もそうであるが、妹であるミーシャも同様に、肉付きがとても悪かった。


 「おなかすいたね」

 「うん」


 食事は母が仕事帰りに買ってくるパンと雑スープのみ。パンの量が多ければ、翌朝のご飯になることもあるが、それだけしか食べることはできないのである。

 どうやら、統合する前のゲオルグは、あまり自分から動かないタイプの性格であったようである。それは、自我の薄いゲオルグという人格があたかも器のようになっていて、そこに転生者が入り込むことは予定されていたかのようでもある。


 しかしながら、帰りを待つ二人に母親が持って帰ってきたのは、パンでもスープでもなく、殴打の跡がくっきり残る顔と、あざだらけの体だった。


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