星噛みと流れ星
特にこれといって求めるものはなかった。
ずっと憧れてきた君の隣に並んで、この荒廃した世界を歩く。
ただそれだけで十分だったんだ。
◆
無機質な道を歩いていた。
カツカツと、鉄の床を二人分のブーツが音を立てる。僕たちの進む道はとにかく狭い。ずっと中腰で歩いてきたのもあって、ひざと腰が悲鳴を上げていた。
一歩、また一歩と歩けば、カラカラと背中の矢筒の中で矢が転がる。リュックに刺した槍はこの狭い場所では邪魔でしかない。時折壁にぶつかってカンカン音を上げ、そのたびに心臓をつかまれるような心地になる。
鉄の床、壁、天井と。大小様々な用途もわからないパイプがその表面を這っていた。そのいくつかをまたぎながら、額を伝う汗を袖で拭う。。
「……ん?」
ふと、壁のある部分から光が漏れているのに気が付いた。そこにはちょうど人の頭一つ分程度の穴が開いている。いつからここにあるのかわからない船だ。劣化もひどく脆くなったところに何かぶつかりでもしたのか。その淵に手をかけてみれば、錆びついた鉄がボロボロと少し崩れた。
そっとそこから外の様子を覗き見る。
自分の視点は異様に高い。いつのまにか結構高いところまで来たらしい。
眼下に広がるはだだっ広い砂漠。ずっと向こうに見える地平線に沈みかけている太陽は、砂の海を赤く照らしていた。ここは砂漠のど真ん中に鎮座する、古い大型船の中のどこか。熱いのも当たり前だ。
だがこの砂漠にあるのはこの船だけではなかった。この砂漠にいるのは俺たちだけじゃなかった。
「あ」
ぽつりと、声を漏らした。
真っ赤で滑らかな凹凸のある砂のキャンパスに、なにかポツポツと黒いもの。その足元から黒い影がスッと伸びていた。
針金のように細く漆黒に染められた手足。体もそれに劣らずやせ細り、その先にちょこんとしぼんだ風船のような顔が鎮座している。
とにかく、大きい。
細かくはわからないけど、たぶん僕一〇人分はくだらない。
僕のいる場所はなかなか高く、遠くまで見渡せた。その中、点々とまばらに五匹。
針金のような化け物が、生命のない大地を闊歩する。
あれが――星噛み。俺たちの敵で、捕食者。
目的も意思もなく、星全ての生き物を『捕食』する。だからこその――星噛み。
額に冷たい汗がにじんだ。この世界で生きていて星噛みにいいイメージを持っているものなんていない。やつらを恐れる本能が刺激されたかのように、足が気づけば細かく震えていた。緊張をごまかすように背のリュックを少し大げさに背負いなおす。
その時だった。
――カン、と。
リュックに取り付けられたランプが鉄の壁に強く衝突した。
ぶつかりどころが悪かったのか、やけに大きな音が反響する。
やばいと思う頃には、もう遅かった。
ぐりんっ! と一番近い星噛みの顔がこちらを向く。
俺の視線と。やつのギラギラと光る赤い視線が。
それは一瞬だったけど、確かに――交差した。
「――っ!!!」
肩を大きく跳ねさせ、僕は反射的に身をかがめる。冷たい無機質な床に尻をつけ、はっはっと荒い息を吐く。痛いくらいに心臓が激しく脈打っていた。気がつけば僕は自分の心臓をつかむように左胸に手を当てている。
バレた? もしかして、バレた?
明らかに先ほどより量が増した汗を拭った。もう一度こっそり星噛みの様子を伺おうか考えた時。
「ねえ」
ふと、同行者から声がかかった。凛とした耳障りのいい声は、荒ぶった僕の気持ちを吹き飛ばすかのようだった。
思わず視線をあげる。彼女――イラは僕を見下げていた。綺麗な黒のロングヘアーを赤い光で輝かせながら、真っ黒な、しかし確かに美しい瞳で、こちらを冷たく見据えている。
「ねえアラン。余計なこと、しないで」
冷たく。そして刺さるように。
「ここの星噛みは大きい。もし襲われたら私たちは終わり。狩ることもできずに、狩られる。だから――余計なこと、しないで」
それだけ言い放つと、彼女は再び前に進み始めた。
焦りまくっている僕とは正反対に、あくまで冷静に。
その不思議な冷たさは逆に僕に冷静さを取り戻させる。
彼女も僕がしたことは見ていたはずだ。だけど今まで通り進んでいる。なら、さっきの星噛みはもう大丈夫ということか。
少し遅れてそんな考えに至る。「え、あ、うん……ごめん」なんて情けなく、消え入りそうな声でつぶやいた。何とも情けない。僕は腰を上げて尻についたサビを払い落とし、彼女の凛とした背中を追った。
巨大な鉄の船の最先端。この船は砂漠の砂に斜めで突き刺さっていたから、要するに最高地点。
もう辺りは暗い。狭い通路を抜け一つの部屋に出た後、手探りでスペースを探した。僕とイラはそこに腰を下ろす。古の遺物――ランプの蓋を開けて火を灯して元に戻し、僕たちの間に置いた。
橙の暖かな光。それだけで張り詰めていた空気は解け、ほぅとため息が漏れた。
ぼんやりと照らされた部屋はなかなか広い。大きめの台がいくつかあって、用途もわからない大量のボタンが並んでいる。正面はガラス張りでもはや痛んで傷もひどかったがなんとか外が見えるようだ。
僕はリュック、矢筒、弓を下ろし、リュックから毛布を取り出した。
砂漠というのは昼間は干からびるくらいに暑いくせに、夜は凍えるほどに寒くなる。なんとも生きにくい気候だ。
毛羽立った、薄いお粗末な毛布。だがそれでもないよりはマシ。震える体に鞭打って、小さく体を丸めて毛布にくるまる。
「ふぅ……」
そっと、息を吐いた。一日中歩き回った足に血液が流れ込むような、奇妙な感覚。正面を見るとボヤッとランプの明かりに照らされたイラが自分の手に息を吹きかけていた。白い息は蒼い夜の空気に溶けていく。
そっと盗み見るようにイラに視線を向けた。
こんな環境にいようとなぜか綺麗な肌。長い黒髪は夜風に揺れ、二つの大きな瞳は暗いここでも黒く光る。無表情を端正な顔に貼り付けて、なんというか相変わらず人形のような少女だ。
そんな彼女は毛布から手だけ出して、弓の弦をいじくっていた。
「あの、さ」
雫をこぼすように僕は呟いた。
彼女の無機質な瞳がこちらに向けられる。少し背筋が伸びるのを感じながら僕は口を開く。
「その、さっきは、ごめん」
「さっきって?」
「星噛みにバレそうになったこと」
「……ああ」
そう小さくこぼすと、彼女は興味を失ったかのように視線を僕から外して再び作業を再開させた。
無視か。無視なのだろうか。これをどう捉えようかと頭を悩ませる。何も言わないくらいに怒っている? 何も言わないくらいに、彼女にとってはどうでもいいこと? もう許してくれた?
疑惑の視線を向けても彼女はどこ吹く風だった。そこから沈黙。
遠くの方で時折、コココ……と星噛みが喉を鳴らす音が聞こえる。星噛みが歩いた衝撃で船が揺れ、砂と埃が天井からこぼれ落ちた。
三、四回僕が外に感じる星噛みの気配に体を震わせた頃。
「……別にいい」
そうポツリとイラは呟いた。思わず「へ?」と情けない声を漏らす。
また無機質な視線がこちらに向いた。特に感情は読めないけどそれがまるで突き刺さるようで、少しうつむき気味になる。
頭上ではぁと息を漏らす音がした。
「バレなかったから、別にいい」
「でも僕のせいにバレそうに――」
「バレなかったから、別にいい」
「でも――」
「アラン」
イラは弓から手を離した。少し強くなった気がする語調に、思わず肩を縮こませる。
「何回言わせるつもり? バレなかったから別にいいって。次気をつけてくれたら、それでいい」
「……ごめん」
「ん」
彼女の視線は元に戻り、彼女は弓を地面に置く。次いで槍の点検を始めた。先端――星噛みの爪を削ったものが黒く光る。もう話は終わりらしい。彼女はそれからしばらく口を開かなかった。
手持ち無沙汰になった僕は、リュックから干し肉を一切れ飛び出した。
それに噛み付く。硬い。思い切り引っ張って、ブチブチを音を立てて引きちぎる。あまり美味しくはなかった。残りはリュックにしまう。今では数少ない食料だ。次いつ手に入るか、そもそもこれから手に入るかもわからない。少しずつ食べていこう。
干し肉を食べたからか、少し喉が乾く。水筒を取り出して一口だけ喉を通した。
「あまり飲まないようにね」
不意に声がかかる。僕は思わず見られちゃダメなものが見つかった時のように、慌てて水筒をしまった。「別に飲むのはいいって」と、呆れたようにイラは言った。
「イラは大丈夫なの? ずっと飲んでるの見てないけど」
「ん、大丈夫」
相変わらずそっけない。
でもそれも昔からのことだ。
昔から機械みたいで、完璧で、美しい。
僕たちの集落では一〇になったら星噛み狩りを教わる。その例に漏れず僕とイラもそうだった。親に教わるのが慣習の中、両親のいないイラは僕と一緒に父さんに教わっていた。
で、その結果。
なんとなくそうだろうとは思っていたけど。やはりイラは天才だった。
弓を放てば百発百中。まるで敵の動きが、その未来が見えているかとような立ち回り。
僕がようやく小さな星噛みを狩るため一人で外に出るのを許されたころには、イラはもう大人に混じって中型の星噛みの狩りに出かけていた。
以前、なぜそんなに上手に狩りができるのか聞いたことがある。その時イラは言った。
『状況を判断して、最善策を考えて、それを実行するだけ』
とかなんとか。
それができれば苦労しない。それが難しいんだ。
あの時の僕は唸るだけで、なんとかそんなことは言わずに済んだけど。
「明日からはどうする?」
僕はそうイラに問いかける。イラは一瞬だけ僕に視線を移し、また槍に戻した。
基本僕たちの行動の方針はイラが全て考えている。以前は相談していたけど、いつもイラが正しかったからもうやめた。
そう考えると昔イラが言っていたことを実践できている気がして。だけど結局それは僕の無能さを知らしめられるだけで、毎度毎度胸に感じるしこりを僕は無視し続けている。
「このあたりは星噛みが少ないけど、大きい。ならもう『捕食』が終わって時間がかなり経ってる。たぶんこの辺りにはもう生命はない」
そこで一度口を閉じて僕を見る。
その先を言え、ということだろうか。
試されているかのようで、少し体に力が入った。
「方角変える?」
「……そうね。この辺りの星噛みは全体的にゆっくりだけど北に向かって歩いてた。たぶんそっちはまだ『捕食』されてない」
時間の問題だろうけど、とイラは付け加えた。
僕の答えは間違ってはいなかったらしい。思わずほっと息が漏れる。
「ならそっちにいかないとね。捕食されてないなら命がまだあるってことだし。もしかしたら他の人間も――」
そこまで言って、スラスラと言葉をこぼしていた僕の口は動きを止める。そして視線を少し地面に向けた。
意図的じゃない。なぜかはよくわからないけど、そこから先は口にできなかった。
捕食とはつまり、星噛みが星を喰らうことだ。それがまだ行われていないなら生き物がいるはず。その生き物にはもちろん人間も含まれる。
だから捕食されていない地域には人間がいるかもしれないのだ。
そう、なにもその理屈はおかしくない。口にするのをためらう理由もない。
だけど。
「本当に、だれかいるのかな……」
本当に自分の声かと疑うくらい、弱弱しい声だった。こちらに向いたイラの視線に力がこもる。僕は思わず逃げるように顔を俯かせた。
そっと視線だけイラに向ける。彼女はまだ僕のことを見つめていた。その視線は僕に語り掛けていた。なぜそう思ったのか言ってみろと。
「だ、だってそうじゃないか」
それはずっと心のどこかで感じていたこと。でも口にすると心が折れてしまいそうで、口にしなかったこと。
だけど一度口にしてしまえば、残りは驚くほど滑らかに飛び出していく。
「僕たちは今まで一度も他の人に会ったことがないんだよ?」
少なくとも、僕はそうだった。
イラと共に旅を始めてからはもちろん。集落にいた頃も何度か遠出したことがあったが、一度も僕たちの集落以外の人間に出会ったことはない。外から僕らの集落に誰かがやってくることもない。いつも外で僕らが目にするのは、捕食が終わった岩と砂と虚しさだけの退廃的な世界だけ。
「もしかしたらもうこの世界にいる人間は僕たちだけって可能性だって――」
その時イラの表情が突然曇った。目の輝きは鈍り、顔をしかめる。少なくとも僕の見たことのない表情。思わず僕は口を開けたまま言葉を発せずに止まってしまった。そしてそこから無意識に視線を彷徨わせながら、そっと口を閉じる。
そこからそれほど時間を開けることなく、イラは「ねえ、アラン」と口にした。それは僕の今まで聴いた中で一番弱々しい。
もしかしたらと考える。イラも同じことを考えていたのだろうか。同じ不安に心を軋ませながら、その強靭な理性でなんとか今まで耐えてきたのだろうか。それを僕が折ってしまったのか。
罪悪感で潰されそうだった。
イラが何かを言う前に、とりあえず謝らないと。
そう思い口を開いた時だった。
爆音。
そして、衝撃。
何の一部かもわからないような金属のかけらが大量に宙を舞う。ランプは倒れて割れ、辺りが一気に薄暗くなった。
何が起こったのか突然のことでわからない。一瞬全ての思考が吹き飛ばされて頭が真っ白になる。
だけどそんな中イラは素早く毛布を放り投げて戦闘態勢へ。少し遅れて僕も立ち上がろうとして。
「――がっ!?」
後頭部に激痛が走る。思い切り鈍器で殴られたかのような、そんな感覚。意識が、世界が揺れる。珍しく声を荒げて何かを叫ぶイラがどんどんぼやけていく。
そして僕は、情けないことに意識を失った。
◆
あれはもう一週間も前のことだだ。
僕とイラは少し遠方で発見された星噛みを狩るため一日集落を離れていた。そして目的を果たし、集落に戻るつもりだった。ああ、あったかい布団が待ち遠しい、お母さんの料理も食べたい、なんてそんなことを考えながら。
だが実際に帰ってみれば、僕らは思わず集落の直前で足を止めていた。
「なに……これ……」
隣で零れたイラの声。彼女らしくもなく震えていたその声は、やけに僕の耳に残る。
かく言う僕も、冷静ではいられない。冷静でいられるわけがない。
何もない。
集落が、僕らの故郷があるはずの場所になにもない。
家畜も。農作物も。草木も。木造の家々も。池も。――人間も。
――何も、ない。
それこそまるで、もともとそこに何もなかったかのように。何の違和感もなく、知らぬ間に砂漠と化したそこは夕日に照らされて真っ赤に光っていた。
ふらつくように一歩前へ。そこにいつもの草の感触はなかった。代わりにジャリと、砂が不愉快な音を鳴らす。足に力がうまく入らず、そのまま膝から崩れ落ちた。
「なんだよ、これ……いったい何が……」
たった一日。たった一日いないだけで何もなくなっているなんてだれが信じられようか。場所を間違えたといわれたほうがまだ納得できる。だけど残念ながらあそこからここまでの道は間違っていない。そもそも間違っていればイラが指摘するはずだ。
それに、これに似たような光景を僕は見たことがあった。
岩と石と砂だけの命を感じない世界。荒い凹凸の、何かに抉られたかのような地面。何もないその虚無感を撫でるように乾いた風が吹く。
いつだったか知識として身につけておくべきと連れていかれた、あの場所にそっくりだ。
「星噛みの、捕食跡……」
つまりは、そういうこと。僕らの故郷の集落は、星噛みに捕食された。命あるものは皆食いつくされた。噛みつくされた。
自分でそう口にしても、なぜか実感がわかない。夢の中の出来事を見ているかのように、ふわふわとした違和感のある感覚。
ふと、僕の頬を何かが流れた。触れて見てそれが涙だと悟る。そこでやっと僕は気づいた。
僕は、悲しんでいた。
「う、ぁ……」
驚愕。そして悲嘆。
あまりにも急な出来事で感情が付いて来ていない。
だが一度自覚してしまえば。せき止めていたものが溢れ出すように、この場所での思い出が溢れ出る。
ああ、虚しい。全て、全てなくなってしまった。
強烈な喪失感でどうにかなってしまいそうだった。何もない世界に一人放り込まれたような、もしくは取り残されたかのような、そんな感覚。いろんな感情が混ざり合い、だが表に出ることはなく胸の奥で熱く燃えていた。
だが、その時。
「……アラン。何かないか探そう」
隣から声がかかる。それが絶望に落ちていきそうだった僕を引き上げた。
半ば呆然としたままそちらに視線を向ける。イラはいつも通り、まっすぐ前を見据えていた。その声はもう震えていない。
生き残りを探すのかと考えて、すぐに気づく。イラは『何か』探すと言ったんだ。つまるところ、彼女は生き残りの可能性を考えていない。
それに憤慨しそうになったけど事実その通りだ。生き残りがいる可能性は、ほとんどゼロ。
星噛みは命を喰らうけどとにかくしつこい。そこに命があるのならどこまでも追い続ける。一度姿を見られればもし隠れたとしても、星噛みには特集な器官があって即座に見つけ出される。
そのまま前に歩き出したイラの背中を見る。悲しいほどに、少女ながらに小さな背はいつも通りだった。
彼女の言うことが間違っていないのはわかる。でもそこまで割り切れるものなのだろうか。そこまで切り捨てられるものなのだろうか。
「……ねえ、イラ」
気づけば僕はその不気味な背中に声をかけていた。
「なんで、そんないつも通りなの? つらくないの?悲しくないの……!?」
イラは答えない。こちらに背中を向け立ち止まったまま。
そして振り返る。その瞳は思わず見惚れてしまうほど美しかった。何かを覚悟した者のように強かった。
「アラン」
一歩、僕に近づいた。
「前聞かれたとき、私言ったよね。大事なのは『状況を判断して、最善策を考えて、それを実行する』ことだって。今もそれと同じ。できなければ死ぬことになる。できなければ、捕食されることになる」
「――っ!」
僕も捕食される。集落のみんなが味わった苦しみを、苦痛を僕も味わう。そう考えた途端全身にザラリした気持ちの悪い寒気が走る。体が大きく揺れた。
イラは僕の前に来てその震えを抑えるかのように肩に手を置き、グッと顔を近づける。
「悲しむのは必要なこと。自分の気持ちに整理をつけられるから。でも悲しみに暮れるのは違う。悲しみに暮れてなにもしないのは違う。それは『最善』じゃない」
それはまるで諭すかのように。いつもの刺さるような視線とは逆にその声は温かく、柔らかい。
「死にたくないでしょ? なら、選び取るべき」
「私は私にとっての最善を」
「あなたも選んで。あなたにとっての――最善を」
気がつけば僕は頷き、そっと立ち上がっていた。
◆
「――て、アラ――」
誰かが僕を呼んでいた。
聞き覚えのある鈴が鳴ったような綺麗な声は心地よく僕の耳に入ってくる。だけど何となくいつもよりざらついているような気がした。
「お――て、アラン」
声はだんだんと鮮明になっていく。ここに来てやっとそれがイラのものだと気が付けた。
「起きて、アラン」
細く、眼を開ける。視界はぼやけてよく見えない。夢から覚めたような、ぼんやりとした不思議な感覚だった。体はだるいし、なぜか頭もいたい。
今は何時だ。もう見張りの交代の時間なのか。
寝起きのような頭でそんな考えを巡らせる。
さっきからガラスを引っ掻くような音とか、ガンガンと鉄を叩くような音とか、やけにうるさい。
はぁと、聞き慣れた呆れるようなイラのため息が鼓膜を撫でる。
「アランは相変わらず寝起きが良くない。――っ。毎朝私が起こしに行っても……っ。なかなか、起きてくれなかったし」
時々イラの声は詰まり、その隙間を埋めるように荒い息遣いがあたりの風に乗って流れて行く。
ああもううるさいな。眠いんだからしょうがないだろ。
そんなことを考えている間にだんだん視界がはっきりしてきた。まず感じたのは、蒼い光。そしてその中で舞うように動き回る、イラ。
そしてもう一つ。何か黒いものがいくつか、あたりを飛び回る。
なあ、イラはなにをしてるんだ? そんなに動き回って、そんなに疲れて、どうしたんだ?
まだまだ不明瞭な意識の中ではそんなこと口にできないけど。
「いつもはあまり強く言わない。でも今だけは、起きて。お願いだから、今直ぐ起きて……!」
「――っ!?」
普段イラは最善じゃないからと焦りとか怒りを表に出さない。そんな彼女が発したその言葉には、僅かだが確かに焦燥感を孕んでいた。
その感情が俺の意識を夢現から現実へと一気に引き戻す。意識はよりはっきりと。視界もより明確に。
頭に鈍い痛みが走る。その痛みに顔をしかめながら俺は体を起こした。
「はっ……はっ……ん。アラン、起きた?」
まず目に入ったのはイラの背中。気を失う前も決して綺麗だったとは言えなかったその衣服もより薄汚く、そして所々赤く染まっていた。半分に折れてしまっている槍を手に、少しふらつきながらも確かに二本の足で立つ。左腕からは真っ赤な液体が絶え間無く流れ出る。少し遅れて左腕の先がなくなっていることに気がついた。
次いでその向こうにいくつかの黒い、人くらいの大きさの何か。まるで蜘蛛のように四つん這いで床に、壁に沿って這う。その手足や体は細く黒曜石のように黒かった。そして干からびた果実のような黒い頭にある赤い瞳は、まっすぐと僕とイラを捉えている。
「星噛み……!?」
数瞬遅れてそう気がついた。船の中から外を見たときにいた奴らと大きさは明らかに違うが、確かに星噛みだ。むしろ僕にとってはこれくらいの大きさの方が馴染みがある。
その向こうに見えるのは大きな穴だった。月明かりと冷たい風が明らかに先ほどまでそこになかったその穴を通って入ってくる。
ここは古の巨大な鉄の船の中だったはずだ。あんな穴は断じて空いていない。さっきの衝撃と爆音は星噛みが鉄の壁を破壊した音だったのかと、今更ながら気がついた。
遅れて鼻の奥に飛び込んでくる血の匂い。辺りを見渡してみれば、イラが殺したんだろう、星噛みの死体が黒い血を流しながら倒れ込んでいた。
いや、そんなことよりも。
「イラ、お前傷が……」
僕の声は細かく震えていた。自分で思ったよりも声自体が小さい。そんなんじゃダメだと、同じく震える体に鞭を打つ。イラはどう考えても重症だ。星噛みにやられたであろう左手からは、いまだに血が流れ出ている。その度星噛みたちが嬉しそうにコココと喉を鳴らす。大きな口がニヤリと歪んだ気がした。
「大丈夫。まだ動ける」
確かにまだ動けている。動けているが、大丈夫なはずがない。片腕をなくしたのだ。どれだけの痛みか想像できない。
だがイラは悲しいことに天才だった。その痛みを抑え込むことができるほどの強固な理性を、彼女は持ってしまっていた。いっそのこと痛みに狂ったほうが楽だろうに。
僕は未だ痛む頭に耐えながら立ち上がる。
イラほど天才じゃないが、この光景を見てどれほど危険な状況がわからない僕じゃない。今は僕も戦わないといけない。
僕も槍を手に持ち構える。こんな近距離で弓を使っても意味はない。いや、意味はあるのかもしれないが、僕にはこんな近距離で当てられる技量はない。
切っ先を星噛みに向ければやつらが笑みを深めた気がした。気がつけば体が細かく震えていた。
わかってる。僕は怖がっているんだ。これくらいの大きさの星噛みなら、僕も一人で狩ったこともある。でもこの数だとわからない。しかもこいつらがイラの片腕をダメにしたと思えば、余計な恐怖心が心に染み渡っていく。
「……ふぅ」
一つ、深呼吸。
ほのかに混じる血の匂いに顔をしかめながらも少し落ち着いた。
「アラン。あまり無茶はしないで」
「それはイラの方だよ。……大丈夫。僕だって、やれる」
「そう」
その言葉ははあまりに端的だったけど少し温かみが戻っている気がした。それに気がついて心に火がこもる。
イラの方を覗き見た。真っ直ぐ、そして強く星噛みを睨みつけている。表情も雰囲気もいつものイラだ。だが僕は見逃さない。ほんの僅かだけど顔色が悪い。足も少し震えている。これはきっと恐怖とかじゃなくて、単純に血を流しすぎているんだ。
もう一度強く星噛みを睨みつけた。
わかってる。僕はイラよりも弱い。だからこそさっきは不甲斐なく気を失ってしまった。イラに守らせてしまった。イラに重傷を負わせてしまった。
だから今からは僕も戦う。僕のせいだとわかっているけど、少しでもイラの負担が少なくなることを願って。怪我がひどくならないことを願って。
目の前の星噛みの内、一匹の体に力がこもった。それはこちらに飛びかかる合図のようなもの。
それを皮切りに僕は思い切り地を蹴った。
「はっ……はっ……はっ……」
「はぁ…………はぁ…………」
夜の風が、無機質な床が、痛いくらいに冷たい。だがそれこそが僕らが生きている証拠。
戦闘は時間にしてみれば一〇分とかからなかった。だけど永遠に戦っているような心地だった。
僕もイラも息は荒い。ざらついた息遣いで、顔は上を向き空気を求める魚のようにパクパクと口を動かした。
「くっ……」
槍を杖代わりにしてフラつきながら立ち上がる。視界の隅に星噛みの死体が写り込んだ。細い体に刻み込まれた無数の切り傷と、そこから流れ出る真っ黒な液体。その傷の七割はイラがつけたものだ。あんな怪我をしておきながら、やはりイラは強かった。
そんなイラは台にもたれかかったまま座り込み、地面を見つめるその瞳に力はない。左手はもちろん、雪原のような綺麗な肌にも赤い線がいくつか走り、まさにその姿は満身創痍。
でも勝った。僕たちは星噛みを狩った。僕たちは未だ生きている。
「イラ……」
ふらつきながら彼女の元に足を動かし、そっと呟く。思った以上に自分の声には力がこもっていなかった。
対してイラは僕の方を見た。顔を動かさず視線だけをこちらに向け、本当に僕を見ているのかと不安になるくらいに弱々しい。
彼女をここまでにしてしまったのは僕だ。その事実がこれでもかと胸を締め付ける。
だけど僕たちは勝ったんだ。まだ死んでいないなら、何かできる。
「とりあえず、応急処置を――」
そう口にした時だった。
それをかき消すかのようにズンと重い音が腹を震わせ、地面が揺れる。そして幾度となく体を震わせてきた、コココと喉を鳴らす音。
「――っっ!!」
それが示すのは一つしかない。何が僕たちに迫ってきているのか、見なくてもわかる。
だけど僕は反射的に振り返った。
「星……噛みっ……!!」
さっきまでの小型ではない。日中この船の中から見た、あの大型。その黒い体表もあり輪郭はぼんやりとしている。だが高い位置でギラギラと光る赤い二つの目は、たしかに星噛みのものだ。
小型のように飛びかかってくることはない。それがしないだけなのか、元々できないからなのかはわからない。だけどそれこそ死神のように空気と地面を揺らしながらゆっくり近づいてくる様は、たしかに僕の心に黒い感情を芽生えさせていく。
昼間のように一瞬じゃない。星噛みの目は、確実に僕たちを捉えていた。
「くそっ……! イラ、立てる!?」
とにかくここから逃げないと。その一心で僕はイラに詰め寄った。幸いここが地面から高く星噛みも大きいからやつの姿を見ることができるけど、距離自体はまだある。あいつがここまで歩いてきて手を伸ばす。そこまではまだ少しだけど時間の猶予はある。
だから逃げることができるかもしれない。
だがイラは首を力なく横に振ることでそれに答えた。
「立てないの!? クソ……なら僕がおぶって――」
「ち、がう。立てないんじゃない。立とうと思えば、立てる」
「は……?」
訳がわからず彼女を見た。輝きを失ったその双眸は星噛みに向けられ、こちらは意識していない。
「私は、無理。どうせこの怪我。腕は見ての通りだし、多分足も折れてる。私を連れたら、確実に二人とも喰らわれる」
「ならどうすればっ……!」
「だから、アラン」
そこでやっとイラは僕を見た。
そしてさも当然のように言ったのだ。
「私を置いて、行って」
まるで時間が止まったかのようだった。僕は動きを止め、思考も動かなくなる。だけどそれも一瞬のこと。イラが何を言いたくて何をして欲しいのか、僕は理解してしまった。
「できるわけ、ないだろ……!」
グッと拳を強く握った。指先が冷たいのはきっと疲労とか怪我とか寒さが原因じゃない。
「まだ距離はある。二人で逃げればなんとか――」
「無理。あの星噛みは私たちを見つけた。だからどこまで行っても捕食しにくる。逃げるには、あの星噛みを殺さないといけない」
あの星噛みを僕らで殺せないのは、昼間に彼女が言った通りだ。しかも今は二人とも手負いの状態で。そんな今星噛みを倒せるわけがない。
だから彼女は言ったのだ。私を置いて逃げろと。
星噛みはその姿や習性、行動からは分かりにくいが星噛みもまた生き物の一種だ。やつらには空腹感が存在する。小型はまさに命に飢え捕食し大きくなると空腹感も少なくなっていく。一度大きくなれば空腹感が元に戻らないのがせめてもの救いだ。
つまり大きくなれば大きくなるほど、命への執着としつこさがなくなっていく。あれほど大きければ空腹感はほとんどないはずだ。イラを食べればそれで満たされて逃げた俺を追いかけないかもしれない。
だから、見捨てろと。
自分を見捨てて、お前は逃げろと。
そんなことをイラはのたまっているのだ。
「でも……」
確かにそれは正論で、正解で、僕にとっての最善策。
だからといってすぐ割り切って行動できるほど僕は強くない。イラほど、強くない。
存在するかどうかもわからない他の道を無意識にも探ってしまい僕は動けずにいた。
そんな僕を見てイラは呆れたように一つため息をつく。
チクリと針に刺されたような胸の痛み。まるで言うことを聞かない子供のように思われているようで、心がざわついた。
「もしかしたら、他にも方法があるかもしれないだろ……!」
「無理。そんなのはない。いつだって、私の言うことは正しかったでしょ?」
イラは別に自分が全て正しいと自惚れていっているわけじゃない。単純にそれが事実なだけだ。
「だから、逃げて。それがアランにとっての最善策だから」
「っ!」
「私はもう無理。もう、助からないから――っ!」
気がつけば僕は座り込んで、彼女の右腕を掴んでいた。女である彼女の腕は、当たり前のことだけど、思ったよりもずっと細い。少し力を込めれば軋んでしまいそうな、そんな腕だった。
イラの表情がわずかに歪む。もう先がない左腕ではないとはいえ、やっぱり僕の腕にこもった力は強かったらしい。
「なんで……イラはいつだってそんなに……」
無理やり絞り出したかのように、細かく震えていた。イラは僕をまっすぐ、心配そうに見つめている。
イラが正しいなんて分かりきってる。この場で一番バカなのは、時間もないのに逃げ出さずにいる自分だ。
大型の星噛みは未だに地面を揺らしている。早くしないと本当に僕まで逃げれなくなる。
イラの案には納得がいってるんだ。ただ僕の感情が認めようとしないだけで。
でも。
「なんでイラは、いつもそんなにあっけないんだ……!」
「……アラン?」
「たとえ不可能だってわかっても、少しくらい抗ってもいいじゃないか。イラだって死にたいわけじゃないはずだ。ならそれが最善じゃないからって、諦めなくてもいいじゃないか。無理なんて言わなくてもいいじゃないか……!」
「アラン……」
「僕がイラを見捨てて逃げて。イラは僕の身代わりになって星噛みに喰われて。それがイラにとっての最善策なのはわかってる。でも、僕にとっては最善じゃない。僕にとっての最善は、僕とイラで生き残ること、ただそれだけなのに……!」
「――っ!!」
イラの目が大きく見開かれた。口は少し開けられそこから漏れた息は暖かい。
「わっ!」
突然僕が掴んでいた右腕が強く引かれた。僕自身強く掴んでいたし、体の疲労も負担も大きかったこともあり、そのまま僕の体は前に倒れこみそうになる。イラに倒れこむわけにはいかない。とっさに体に力を入れ耐えると、ポスンと、胸のあたりに何かがあたる感触がした。
そっと視線を下に向ける。そこにあったのは、綺麗な黒い何か。すこしして、それがイラの頭だと気がついた。イラが体をこちらに傾けて僕の胸に頭を擦り付けるような、そんな状態。
こんなことは初めてだ。思わず体は固まり、肩を大きく跳ねさせた。すると目の下の彼女からふふと跳ねるような息遣いが聞こえてくる。
「イラ……?」
もしかして、イラが笑った?
思わず耳を疑った。それはあまりにも彼女らしくない。
だけどあれこれと頭を動かす前に、彼女は言葉を紡ぐ。
「そう、ね。何かすれば、何かが変わるかもしれないわね。諦めるのは、諦めてなにもしないのは、違うわよね」
「イラ……!! じゃあ――」
「でも、私が死ぬのは変わらない」
イラが考え直してくれたと、浮かれた心にイラが棘を指した。
もはや誰にも聞こえないだろうというくらいに小さな声で彼女の名をつぶやいた。
それは完全に無意識で。でも近くの彼女には届いてしまったのか。「ちがうわよ」と、いつもより熱のこもった声で、呆れたように口にした。
「諦めたとかじゃなくて、単純に、なにかできるほど体に力がないの。できることといえば、フラフラ歩くことくらい。私だって諦めたくない。死にたくない。――アランと歩いていきたい。だけどそれは無理だから。だから私には私にできることをするの」
そこで彼女は顔を上げた。彼女の黒い瞳が僕をじっと見つめている。
気がつけば僕は彼女の右腕を離していた。そして彼女はそっと僕の体を押した。そこに僕の体勢が変わるほどの力はない。逆に彼女の体が後ろに戻される。そこで彼女は止まった。後ろの瓦礫にもたれることまなく、僕の体にもたれかかることもなく、力なんてほとんどないはずなのに、自分の力だけで。
そしていつもの、もしかしたらいつも以上に力のこもった双眸で僕を見つめながら、口を動かした。
「私にとっての最善なんてもうない。きっと私にあるのは、最悪だけ」
「アランにとっての最善も、きっと実現しない」
「だから私は、選ぶことにした」
「きっとアランは怒ると思う。悲しむと思う。落ち込むと思う」
「でももう、私にできるのはこれくらいしかないから」
「それはひどいこと。でもアランに言われて気がついた。私は諦めたくない。なにもしないなんて、できないなんて嫌だ」
「だから私は、選ぶことにしたの」
「私たちにとっての、最善策を」
そして彼女は少しだけ口角を釣り上げた。そして足を震わせながらも頼りなく立ち上がり、穴の方へと足を進める。フラフラと、今にも倒れそうな歩き方で。
だが僕は止めなかった。止めることができなかった。
先程イラが浮かべたほんの少しの表情の変化。僕は瞬時にそれが笑みだと気づいた。気づいて、思わず固まった。
彼女の笑みを僕は見たことがない。生まれた時から一緒といってもいいくらい隣にいることが多いのに、一度もないのだ。
彼女に感情がないわけじゃない。この気を抜けばすぐ死んでしまうような世界で感情を感じることはともかく、それを表に出すのは無駄だといって彼女は今まで笑ってこなかった。
そんな彼女が、笑った。
僕は喜びに頬を緩ませて、驚愕に目を見開いて――違和感に体を震わせた。
別に彼女の笑みが不吉というわけじゃない。ただ一度も笑わなかった彼女が今このタイミングで笑うなんて何かとんでもないことをするつもりなんじゃと、そう感じてしまったのだ。
だというのに僕はまるで床に貼り付けられたかのようにそこから動けなかった。
大型の星噛みの足音が地面を揺らす中ついにイラは穴の淵にたどり着く。ちょうどその時足音も止まり、穴の下から黒い何かが数本飛び出した。それは鉄の床にめり込んで、紙か何かのようにたやすく切り裂く。
それは確かに星噛みの指。星噛みはもう、すぐそこにいる。
「……イラ」
僕の口から出たそれは、彼女に届いたかすら定かではないほど弱々しい。だが彼女はその場で足を止めて、振り返った。
長い黒髪が夜風に揺れて、青い月日に照らされる。
そのとき彼女が手にしている黒い球体に気がついた。
手のひら大の無機質な球体。僕はそれを知っている。そして彼女が何をしようとしているのか気がついた。気がついてしまった。
数日前、僕たちは本が大量にある建物にたどり着いた。ただどれも劣化が激しく、とてもじゃないが読めたものではない。何かないかと探した結果、唯一見つけたのが爆弾の作り方。
それを元に彼女が作ったのがあれだ。
ただ彼女がいうには、あの爆弾は欠陥品らしい。読めたといっても所々抜けている部分もあったし、部品も材料も時間もなく、作った彼女の持つ知識もその本のみ。欠陥品になるのもしょうがない。
ただ、その欠陥の内容がよくなかった。
あれは自分が起動させた瞬間爆発するのだ。だから起動させ、投げて爆発させることはできない。威力こそかなりのものだけど、つまるところあれは自爆専用。
要するにそういうことだ。彼女がしようとしているのは、そういうことだ。
「――っ!!」
僕は立ち上がった。
彼女を止めないと。体が動かないとかそんなもの知るか。彼女を止めないと、彼女が死んでしまう。
その後どうするとかそんなことはもう頭にない。感情が全てを塗りつぶしていく。
だが彼女の元に足を踏み出そうとしたとき、彼女はさらに笑みを深めた。
それにどういう意味があるのかわからない。ただそれは美しかった。思わず見惚れてしまうほど、高尚な絵画のように美しかった。
僕は一瞬足を止めてしまう。そしてその一瞬が全てを変えた。
彼女体が後ろに傾いた。まるで力を失ったかのように、ただそれでも端正な顔に浮かぶ笑みは消えることなく。
彼女は穴の淵にいたのだからその背後には何もない。あるとしたら星噛みだけ。
「イラッッッ!!!!」
ようやく僕は動き出した。彼女の体が見えなくなっても前へ前へと。足がもつれて転んで、地面を這いずるように進んだ。
もう落ちてしまったのだから助けることはできない。わかっているが前へと進む。
時間もかからず彼女が先ほど立っていたところまで到達した。次いでそこから下を覗こうと頭を出した瞬間、爆音。そしてゴウッ! と爆風が吹き荒れる。
「うわっ!」
下から噴き出した爆風に僕は吹き飛ばされ尻餅をついた。
頭をぐちゃぐちゃにされたような心地だ。耳鳴りもひどく何も聞こえない。
ただそんな意識の中でもイラが危ないという考えだけは頭にしっかりと根付いていた。だから僕はなぜか痛む身体に鞭打ちながら勢いよく下を覗き込んだ。
「――え」
そこにあったのは、大きな黒い何か。いや、よく見てみれば星噛みだ。ただ腹のあたりが千切れて二つに分裂してしまっている。血のように赤い瞳をめいいっぱいに見開いて、口も開けれるだけ開けて、それはまさに苦悶の表情。
そこにイラの姿は見られない。生きているイラも、死んでいるイラも僕は見つけることができなかった。だが僕に彼女がどうなったのか現実を突きつけるには十分すぎる。
足から力が抜けて座り込む。その無機質な床も、蒼い夜の風も、ここまで冷たいものだったか。
「…………イラ」
もう耳鳴りは治った。時間が止まったかのように静かな世界で、彼女の名はよく響く。
ただ呼べば何かしらの反応をくれた彼女がいないだけでここまで虚しくなるとは知らなかった。
何か大事なものがなくなってしまったような、心に穴が開いてしまったかのような感覚が、この上なく気持ち悪い。
その時、パキッとたまごの殻が割れるような音があたりからいくつも聞こえた。何かと思、呆然とした頭のままあたりを見回す。その音源は星噛みの死体だった。細く黒い身体にヒビが入り、そこから数本の光の帯が飛び出している。それは下の大型も、あたりにいくつも転がっている小型も同じ。
次いで、――コン、と。石が落ちたような、今でなければ聞き逃してしまいそうな音。
それが皮切り。
星噛みの死体から、幾多の光が噴き出した。
それはまるでほうき星。星噛みの漆黒から噴水のように光の粒が視界いっぱいに広がっていく。赤、青、緑。それだけにとどまらず幾多の色が暗い世界を照らしていった。
それこそまるで、溜め込んだ命を吐き出すかのように。
星噛みを殺すとこのような現象が起こる。それはこの世のものとは思えないほどに美しく、誰もが足を止めその光景に見入ってしまう。
無駄を嫌うイラでさえいつもこの時だけは動きを止めてこの絶景を眺めていた。
そしてそれは僕も変わらない。
退廃が彩られていく様を、ただただ呆然と眺める。ほぅと温かい息が漏れ出した。
そして頬に一筋の涙が伝う。
そして僕はそこで初めて気がついた。僕はイラが死んで悲しんでいたのだ。
いつかの時と同じだ。体の反応に感情が付いてきていない。
「うっ……あ……くっ……」
一度自覚すれば、一度漏れ出せばそれは止まらない。うずくまって額を地面につけて。ぼやけた視界の中で、錆色の地面にポツポツと染みが広がって。
涙はとめどなく、悲しみは絶え間なく。まばゆい光の中心で呻き声を漏らす。胸の中にぽっかりと大きな穴が開いたような虚しい感覚の中、わけもわからず僕は涙を流し続けた。
悲しい。泣きたい。泣いて、泣いて、悲しめば、少しはイラがいなくなったこの虚しさもなくなるのか。
少しでもそう考えた自分を自覚して、拳を痛いくらいに強く握った。
だめだ。それは許されない。彼女が抜けてできた穴をそんなもので補うなんて。
感情で埋めてたまるか。感情なんかで埋めてなるものか。
なぜか僕の中でそんな確固とした意志が存在していた。なんとなくそれは彼女を侮辱すると思ったのだ。
だが他にどうすればこの虚無感はなくなるんだろうか。それを知っていそうな、そして教えてくれそうな彼女はもういない。
だから僕はわけもわからず泣いているのだ。それこそ迷子の子供のように。
『悲しむのは必要なこと』
いつかイラに言われたことが頭に響いた。
『でも悲しみに暮れるのは違う。悲しみに暮れてなにもしないのは違う』
いつだってイラは正しくて、強くて、僕の憧れだった。そんな彼女が言っていたことだから、それはきっと正しいんだろう。
ただ泣くだけの俺を見たら、きっと彼女は叱咤を飛ばすに違いない。
でも、ごめん。
今だけは、今だけは許してほしい。
治ったらきっと立ち上がるから。きっと君のようになってみせるから。
だから今だけは、悲しみに暮れることを許してほしい。
彼女を失って灰色になった世界を幾多の光が彩りながら。
僕は絞り出すように唸り声をあげていた。
きっと涙が止まれば彼女のようになれる。イラという光がなくなって死にたくなるくらいに心細いし、不安ではある。でもきっと彼女がやってきたようにやれる。やってみせる。やらないといけない。
それが僕にとっての最善策。
そう信じながらまた一つ、涙を流した。