意図せず人を傷つける
「先輩。ちょっといいですか?」
声の主は桜子だった。
声のトーンはいつもより暗め。明るくて声の高いいつもの桜子の声色ではない。
「あ、あぁ……」
久典がそう答えると、桜子は「こっちです」と言って人影の少ない裏地へと久典を誘導した。
久典は当然警戒をする。それは当然である。昨日の傷もまだ癒えていないのだ。
「何か用なのか?」
「はい」
「一体どんな用が――」
「先輩を殺しに来ました」
桜子がそう言うと同時に斬りかかってきた。
「やめろ桜子!」
久典は桜子の斬撃を避け、二歩ほど下がり、桜子の間合いの外に出る。
「なんでですか先輩。先輩は私を裏切りましたよね。だから殺されても文句は言えませんよ」
久典を睨みつけながら桜子は言う。
「裏切ったってなんのことだ。身に覚えがないぞ」
「自分の胸に手を当ててよく考えたらいいです。誰かさんの胸は触るくせに」
桜子が久典に突進してくる。もちろんナイフを握りしめて。
「一体何を言ってるんだ桜子」
傷が痛むのを耐えながら久典はなんとか桜子の攻撃をかわす。
しかし、この路地は狭い。攻撃を続けられたらそのうち当たるだろう。
「私、知ってるんですよ。先輩があの女とショッピングモールに行ったってことも。先輩が好きな人もあの女ってことも、毎日一緒に帰ってることも、私は知ってるんです」
「なんで桜子がそんなことを――」
そう、久典は桜子に話していない。
蒔菜が好きなことも、蒔菜とショッピングモールに行ったことも、蒔菜と毎日一緒に下校していることも。
「私はずっと見てましたから先輩のこと。だから知ってるんです」
桜子は何度も久典に斬りかかる。
その度久典は逃げる。
桜子も久典を追ってくるので、場所はドンドン移動していった。
昨日の公園がすぐそばだったので公園へと逃げる久典。裏路地よりも広く、動きやすく、更には夕方だから人が少ないであろうと踏んだのだ。
「はぁ、はぁ……」
桜子は興奮状態になっているのと斬りかかるという行動を続けている結果。肩で息をしている。
だんだん大振りになり、久典にとって避けやすくなった。
やっぱり最初避けれたのがよかったのだろう。
「なんで……逃げるんですか?」
斬りかかりながら桜子は口を開いだ。
「先輩は私に殺されなきゃいけないんです」
久典は必死にかわし続ける。
そして……。
「なんで殺させてくれないんですか」
桜子は斬りつけるのをやめて、棒立ちになり、涙を流し始めた。
「先輩が。先輩が私を裏切って。他の女と仲良くして、デートまでして、私はそれを耐えて毎朝起こしに行って。私自身だって、見た目も性格も先輩の好みに合わせて――。それなのに。それなのに。それなのに。それなのに。それなのに。それなのに。それなのに先輩は――」
最近の桜子の様子がおかしかった理由がやっとわかった。
桜子は未だに久典のことが好きなのだ。好きで好きで、好きすぎて。心の中のゲージが破壊されてしまったのだ。
「桜子……」
「もういいです。先輩が殺させてくれないんだったら私が死にます!」
桜子はナイフを持ち直して、自分の腹に思いっきり、突き刺そうとした。
「やめろ桜子!」
久典は腕を差し出して止める。
桜子の腕をつかむのではなく、間に入る形で。
すると、桜子が持っているナイフが、久典の腕に刺さった。
「先輩……何して……」
久典の腕から血が流れているのを見て、桜子は正気に戻った。
「桜子、お前が死ぬ必要はない」
うずくまる久典だが、その言葉だけははっきりと言う。
「先輩。先輩! 大丈夫ですか!?」
桜子は久典の血のついたナイフを投げ捨て、うずくまった久典の肩に優しく触れる。
「僕の心配をするんだったら。約束してくれ。もう二度と自分で死のうとしないと」
「なんでですか。先輩が私を裏切ったんじゃないですか。それなのに先輩は自分勝手です。だったら先輩に私の重みを背負わせます。それが先輩への復讐です」
「だとしても、桜子が死んでいいわけない」
「そんなことより先輩。病院に――」
そう、桜子は本当に死のうと思いっきり突き刺そうとした。だから、久典の腕にかなり深い傷を負わせてしまったのだ。昨日の腹の傷とは比にならない。
「病院はダメだ」
「なんでですか。早く治療しないと出血多量で死んでしまいます」
「大丈夫、この血の量だと出血多量で死ぬことはないだろ。というか桜子もおかしいな。殺そうとした相手が死ぬことを恐れてるなんて」
「それは……だって……。今のは意図してないことでしたから……」
「なぁ、桜子。さっきの約束してくれるか? もう二度と自分で死のうとしないということ」
「でもそんなこと……。だって先輩は他の人が好きで――」
「あぁ、僕は蒔菜のことが好きだ。告白もしようと思ってる。それは正直に白状しよう。でもな桜子。僕は桜子のことも大事なんだ」
「なんですかそれ……。先輩は本当に自分勝手です」
そう言いながら桜子は涙を拭う。
「確かに僕は自分勝手だ。でも約束してくれるよな」
「意地悪ですね先輩。私が先輩の頼みごとを断らないことを知っててそんなことを言うんですから。わかりました。約束します。もう自分を殺そうだなんてことはしません」
「ならよかった。じゃあ帰ろう」
「えっ、病院に行かないんですか!?」
「だって病院に行ったらこの傷のことを聞かれるだろ。桜子のことは僕は言えないし、バレるのも嫌だ」
「そんなこと言ったって……病院に行かないと……。これ絶対縫わないといけない傷ですよ」
「自分で縫う」
「いやいやいやいや、それはあり得ないです。いいから病院に行きましょう」
「いや、だから桜子のことがバレてしまったら……」
「だったら私の事言わなければいいだけです。警察だって被害届を出さなければ動かないんですから」
「でも……」
「いいから病院に行きましょう。私も一緒に行きますから。一人で行かせたらちゃんと行ったかどうかもわからないので」
「わかった。わかったから俺を揺さぶるのを止めてくれ、昨日の傷と腕の傷が痛む……」
「じゃあ病院に行ってくれるんですね」
「あぁ」
「なら救急車呼びますから待っててください」
「それは大事すぎるだろ。大事にしたくない。病院も遠くないわけだから歩いて行こう」
「わかりました」
そう言うと、桜子は自分より体の大きな久典に肩を貸す。
久典も桜子に身を預けるようにして二人で歩いて病院に向かった。