気持ちというのは上手く伝わらない
次の日。
桜子はいつもと変わらず、久典を起こしに来た。
「先輩。起きてください。朝ですよ」
目覚ましが鳴るよりも早く桜子は現れる。
目覚まし時計がもはや意味をなしていない。
桜子が目覚まし時計の代わりになっているという感じだ。
「あぁ……。おはよう」
目をこすりながら久典は起きる。
そしてあくびをしながら朝食を食べるために部屋を出る。
今日は桜子も一緒についてきた。
「桜子ちゃんも御飯食べる?」
二人でリビングに入ってきたのを見て、杏子が桜子に聞く。
「あ、大丈夫です。お母さん。私家で食べてきましたから」
「そう、じゃあ飲み物でも出すからテレビでも見てて、朝だし、牛乳でいい?」
「あっ、ありがとうございます」
桜子はいつもと変わらない笑顔だった。
どうやら昨日のはやっぱりおかしかったんだ。と久典は思う。
少し安心はした。今日も昨日と同じだったらどういう風に接したらいいのかというのがわからない。
気をつけるといってもどう気をつけていいかもわからない。
護身術とかが出来るわけもなく。格闘技のかの字もない。久典はずっと帰宅部の一般人だ。
ずっと帰宅部だというのが一般的かどうかは置いておいて……。
とにかく、久典は運動というのが苦手だ。
運動が出来ないわけではないけれど、好きではない。理由は疲れるから。
桜子は久典が朝食をとっている間、今日のワンワンというコーナーを見ながらキャーキャー言っていた。
それを横目で見ながら食事を終えると、着替えるために自室に戻る久典。
着替えている間話し声と桜子の笑い声が聞こえてきた。
昨日のことがあったのに機嫌がいいようだ。
いつも通り過ぎて逆に怖い部分はあるけれど、暗い桜子を見るのは嫌だから別にいい。
「さて、桜子行くか」
着替え終わり鞄を持ってリビングまで戻った久典は言う。
「待たせておいて偉そうね。少しは桜子ちゃんに有り難みを持ちなさいよ。こんないい子いないわよ」
「わかったわかった」
「もう、ホントバカ息子が。ごめんね桜子ちゃん」
「いえ、いいんですよ。私は先輩と一緒に居れたらいいので。じゃあ行って来ますね」
「はい、いってらっしゃい」
毎回、行って来ますというのを桜子が言うので、もはや感覚的に桜子の家なんじゃないだろうかという錯覚が出てきてしまう。
靴を履いて、玄関を出ると、桜子が久典に声をかけてきた。
「先輩、ネクタイが曲がってますよ。直してあげます」
「あっ、あぁ……」
ニコニコしながらネクタイを直す桜子。
「あらあら、相変わらず仲がいいのね。新婚さんみたいよ」
ゴミ出しをしていた近所のおばちゃんが声をかけてくる。
「あらやだおばさま。新婚さんみたいだなんてそんなっ」
両手を頬に当てて、頭を振る桜子。
「若いっていいわねー」
おばさんはそう言いながら去っていった。
「うふふ、新婚さんみたいですって、先輩」
「二人とも学生服の新婚さんなんて居ないだろ」
「もう、先輩はデリカシーないんですから。先輩が高校で留年したらあり得ますよ。二人とも学生での制服夫婦」
「だから僕は留年なんかしない!」
「もう、ほんと先輩は……そんなに私と同じクラスになるのが嫌なんですか?」
「桜子と同じクラスメイトになることよりも、周りの目の方が気になるわ」
「きっと長老とか呼ばれますね」
「やめてくれ……」
そんな会話をしながら歩いていると。
「おはよう。久典くん。と後輩ちゃん」
蒔菜が声をかけてきた。
「今日も仲が良さそうね」
「蒔菜。おはよう。仲がいいというかなんというか」
ハハハと誤魔化す久典。
腕を掴まれる感覚があったので、チラっと桜子の様子を見てみると、蒔菜の方を睨んでいた。
「そんなに睨まなくても噛みはしないわよ」
蒔菜が笑顔でそう言うも、桜子は黙って睨み続ける。
「本当に私嫌われてるわね。じゃあ久典くんまた学校でね」
手を振りながら蒔菜は学校へと先に向かった。
それにしても桜子はなんでこうも蒔菜を毛嫌いしているのだろうか。
「先輩……」
「ん、どうした桜子」
「先輩はどの指を切り落とされたいですか?」
その声はとても冷ややかだった。
久典は背筋がゾクッとして振り返ろうとしたら、腕を掴まれていて振り返れない。
「な……なにを言ってるのかな桜子は……」
冷や汗をかきながら問いかけてみる。
「何を言ってるって、先輩の切る指を決めてるんですよ。先輩の利き腕は右手でしたよね。ですから左手の指で我慢します」
「まて、冷静になれ。僕を傷つけて桜子にメリットはあるのか?」
「メリット? 何を言ってるんですか先輩。これは当然の報いなんですよ」
「どういうことだよ……」
「先輩はさっき私以外の女子に鼻の下を伸ばしてましたよね。それが許される行為だと思ってるんですか? 思ってるんだとしたら先輩はとんだお花畑さんですね」
「…………どうすれば許してくれるんだ?」
「そうですね。これは別に脅しじゃないので。心改めると決意してくれるのなら許してあげないこともないです。私は寛大な心の持ち主なので」
「心を改めるとは具体的にどうすればいいんだ?」
「んー。最初から大きなことを言うつもりはありません。他の女に鼻の下を伸ばさない。ぐらいで譲歩します」
「わかった。もう鼻の下を伸ばさない……。だから離してくれ……」
「僕は桜子以外の女に鼻の下を伸ばさない。です」
復唱を求められているのだろう。ここは素直に従ったほうがよさそうだ。
「僕は桜子以外の女に鼻の下を伸ばさない」
「わかればいいんです」
桜子はそう言うと手を離した。
久典はしびれた手を揉みながら、桜子の手に握られているものを確認。
昨日はカッターナイフだったが、今日はもっと切れ味のありそうなナイフが握られていた。
文房具の域から離れている。完全に凶器だ。これなら確かに指も切ることが可能かもしれない。
「桜子――」
久典が言葉を発しようとしたその時。太ももに激痛が走った。
桜子が逆の手を太ももに振り下ろしたのだ。
しかし、この激痛は手で殴っただけのものじゃない。
「――つっ」
「今日はこのぐらいで勘弁しておきますね」
しゃがみ込む久典を見下ろしながら桜子が言う。
久典は一体なにが起きたのかわからず、痛みのある太ももに目をやる。
しかし、見た目ではよくわからない。
「ちゃんと制服が破れないように考慮したんですよ。私、優しいですから」
そう言う桜子の手を見てみる。ナイフが握られている手とは逆の手だ。
すると、安全ピンが握られていた。しかし、針がむき出しになっている。安全とは程遠い状態だ……。
「桜子……お前一体どうしたんだ……」
「どうもしませんよ。私はいつもの私です。さて、先輩学校に行きましょ。こんなところで立ち止まってたら他の通行人に迷惑ですよ。ほら、人が増えてきました」
桜子はナイフと安全ピンを素早くしまった。流石の桜子もまだそこら辺の常識はあるようだ。
「先輩。立ち上がってください。そんなに痛がることでもないでしょう。ちょっとした罰程度ですよ」
そう言って手を差し伸ばす桜子。
桜子は一体どうしてしまったのだろうか。
人に危害を加えるような子じゃなかったはずだ。
少なくとも、今まではそうだ。
何が桜子をこうまで変えてしまったのか。
ひょっとしたら昨日のはちょっとした冗談のつもりだったのだろうか。などと考えていたが。これは決して冗談ではない。
安全ピンの針を人の太ももに刺すだなんて常識的に考えてあり得ない。
少なくとも久典には人の太ももに針を刺す心情なんて全くわからない。
桜子は一体何を思いながらナイフで脅し、針で太ももを刺したのか。
「先輩、なにさっきから黙ってるんですか。楽しくおしゃべりしましょう」
桜子の笑顔が久典にとっては恐ろしく怖く感じた。
本当に何を考えているのかわからない。
太ももを刺した相手に笑顔でおしゃべりしようだなんて。
自分がその相手に嫌われるようなことは全くしていないといった様子だ。
常識はずれといえば常識はずれなのだろうけれど、この場合。人の心が全く読めていないと言ったほうが正しい。
桜子は久典の気持ちを全くもって考えていないのだろう。
久典は強くそう感じた。
「楽しくおしゃべり……か……」
「何か不満ですか?」
「いや……。桜子は何か最近良いことはあったか?」
またナイフを突き出されても良くない。それは久典的にもそうだし、桜子的にも傷害事件を起こしたという風になれば桜子は捕まってしまう。
そうなることは久典的にも好ましく思っていないので、話を逸らす方がいいと判断した。
「いい事ですか。そうですねー。毎日先輩と一緒に登校出来るのはいい事ですよ」
いつも通りの明るい感じで喋る桜子。
しかし、久典にはいつも通りという風には感じることは出来なかった。
「そうか」
「先輩は楽しくないんですか? 私と一緒に登校できてるんですよ? 同じ学校ならいざ知らず別の学校なのにそれが出来るだなんてありがたいことだと思いませんか?」
「そうだな。毎朝起こしに来てくれることには感謝してるよ」
「えへへ、先輩に会えるんだったらそんなのちょっとしたことですよ。先輩に会えなくなる方が辛いです」
照れ笑いをする桜子。
「それより、先輩。足大丈夫ですか? 痛かったでしょ?」
「あっ、ああ。その……痛かったけどまぁ、大丈夫だ」
「ならよかったです。私やり過ぎちゃったかな。なんて少し思いましたが、でも先輩が悪いんですから仕方ないですよね」
久典は何か言おうとしてやめる。
火に油は注ぎたくない。
そして、今の桜子には何が地雷なのかわかったものじゃない。
その後桜子と別れるまでやり過ごすという結果になった。