居酒屋「、」
午後4時、ワゴン車にキーを差込みエンジンをスタートさせた。
立秋などとは名ばかりで暑い日が今日も続く。
いつもの都心の公園に向けてワゴン車は走り出した。
実態とは不一致でありながらも
経済を揺るがす人間が作り出した金融の中心街に向う。
そして人々が足早に通り過ぎる無機質なこの街にも
まるでオアシスのような公園がある。
小学校が廃校となりできたその公園には
小さな丘があり春には桜の花が咲く。
公園に車を乗り入れることはさすがにできず
公園沿いの小道に車を止める。
ワゴン車を降り、車の外側から庇となる幌を伸ばす。
このワゴン車は改造車、後部に人の座る席はない。
積まれているのは大型のクーラーボックス二つと食器など。
助手席から後部までいっぱいに張られた庇
その下の窓の上部は庇に平行に持ち上げられ全開となり
逆に下部は下してカウンターとなった。
そして積んであった二脚の椅子をカウンターの傍に置いた。
全ては三年前、世界をどん底に陥れた「リーマンショック」が
奇しくも俺の第二のスタートとなった。
それまでは大手化学メーカーの営業課長として最前線で働いていた。
新興国の発展と共に自動車が花形産業となり
ネズミ算のように、その台数が加速的に増え地球を覆い始めた。
そして原材料が高騰する中、生産に追われていたのが化学メーカーだった。
それまでユーザー主導のコストダウンを迫られていた我が業界は
「安定供給」の名の元に、価格の決定権を手中に収めた。
その地位が完全に逆転したのであった。
確かに生産はフル稼働であったが決して「追いつかない」ことはなかった。
むしろユーザーに対して供給制限をして
我が社が安定供給に努めていることを印象づけた。
同時に原材料は上がり続けたので、上がる前にできるだけ生産して
上がった結果の原料価格を顧客へ転嫁して利ざやを稼いでいた。
原材料高騰は、サブプライムローンに代表される金融工学によって
世界に溢れた行き場のないお金が投機を引き起こし
中国を始めとするパンデミックな需要とメーカー側の
「心地よい供給制限」のバランスによって
更なる上昇気流をもたらした。
それは誰の目にも異常と思われたが、その事を声に出すものはいなかった。
そしてリーマンショックは起きた。起こるべくして起きた。
それから3ヶ月、我が社の製品は殆ど動かなかった。
4ヶ月後にやっとそれまでの50%まで動くようになった。
積み上がった在庫、何も手が打てない上層部は
何故こんな事態になったのかの犯人捜しを始めた。
その結果、販売計画を立てた営業の責任が追及された。
会社はリストラを行い、営業担当役員は彼が知る限りの
あらゆる日本語を駆使して取締役会で言い訳をすると
俺の首を役員の前に差し出した。
俺は幸いにも次の仕事に困ることはなかった。
取引先が一応なりとも俺の仕事ぶりを認めてくれていたのか
数社から誘いの声がかかった。
しかし俺は、どこも丁重に断った。
大企業はもとより、どんな小さな会社でも
これだけ世界がグローバルになり
結局、実体経済とは違う、一握りの金持ちによって
恣意的に経済が動かされる。
そんな事に翻弄されるのは、もう懲り懲りだった。
尤も、俺には嫁さんも子供もいないから
こんな気軽な判断もできたのだと思うのだが。
クーラーボックスの中身を確認し、七輪の炭をおこした。
そして改造した社内のキッチンに火がつくか確認した。
それから、家を出る時に水に漬けておいた米の入った
炊飯器の電源をいれた。
そして最後に小さな三脚に看板代わりの麻の布をかけた。
白い麻の布には筆で「、」が描かれているだけ。
この商売を始める時に、俺が家にあった筆で書いたものだ。
洒落た名前が思いつけばよかったのだが
布を前にして、筆に任せた結果だった。
これでこの店を開店させるという、30分程度のルーティーンが終了した。
そう、この車での移動式居酒屋が俺の転職先となった。
決して繁盛するとも思えなかった。
だからお客の定員は2名までと決めた。
出す料理は数品で、メニューは置かない。
その日の“手持ち”の材料から適当に肴を出す。
アルコールはビールと焼酎のみ。
お客に余り深酒をしてもらっても困るので
料理も酒も、こんな程度十分だと思っている。
食材は旬のものを使えば安くて美味しい。
一日の稼ぎは知れているが独り身が生活していくには
決して困ることはない。
今日は17:00に開店した直後、二組の客が1時間ずつ
酷暑の喉の渇きを潤していった。
上々の滑り出しである。
そしてその両方ともが年輩のお客で、多分「株屋」だったと思う。
どちらもこの日は儲けた様子だった。
「バブル」時には40,000円近くあった日経平均が
7,000円になろうとも相場は日々変動する。
その上げ下げの刹那に、人は喜怒哀楽を託す。
額面が1円の株でも2円になれば株価は倍。
そこに一千万円つぎ込めば二千万円に変身する。
要するにお金の絶対量がある方が有利なのである。
少し客足が途絶えた後
一人の男性がワゴン車の庇に下がる暖簾から顔を出した。
35歳過ぎだろうか。クールビズでネクタイがないせいか
どことなく疲れてみえる。
よく見るとYシャツの首回りがヨレヨレで
多分、相当の汗をかいたのだと俺は思った。
「すいません。ビールを。」
そう言われて、ビールサーバーから大きめのグラスに
ビールを注ぎ、革製の黒のコースターと共にカウンターにそっと出した。
“ゴクッ。ゴクッ。ゴクッ。”
彼の喉は鳴り、グラスの半分のビールが一気に無くなった。
「だいぶ汗かいたみたいですね。まだ暑いですからね。」
「クールビズでも一日営業で外回りをするとクタクタです。」
彼はそう言って、グラスのビールに目を移した。
「はい。まずはこれを召し上がってください。」
「フェタチーズと蛸のマリネです。」
羊、若しくは山羊の乳からできたギリシャのフェタチーズ。
オリーブの実と蛸と胡瓜とプチトマトを加えて
オリーブオイルでマリネにした一品。
藍色の蛸唐草の小鉢に盛った。
彼は割り箸を手にして、オリーブをつまんだまま動かない。
「すいません。オリーブは嫌いでしたか。」
俺の自分勝手な料理だから、こんなことも稀にある。
「いえ、そうじゃないんです。特別好きって訳でもないけど。」
「んー、というか好きなのか嫌いなのかわからなくて」
彼はそうつぶやいて、オリーブを口に運び
グラスに残ったビールを全て飲み干した。
「もう一杯ビールにしますか。芋焼酎もありますけど。」
「あっ、じゃ焼酎をロックでお願いします。」
ガラスは薄いがどっしりしたグラスに大きめのロックアイスを1つ。
そして焼酎を七分目まで注ぐ。
ロックアイスが抱き込んでいた空気が
焼酎の熱で微かにはじける音がした。
「これ『尽空』っていう焼酎で、JALの国際線のエグゼクティブクラスでも
出てくる銘柄なんですよ。」
空のビールグラスと交換に、焼酎をカウンターに置いた。
俺は次の料理の準備のために、クーラーボックスの中のアルミホイルの包みを
取り出し七輪の上に置く。
彼はマリネをつまみながら焼酎を口にした。
焼酎がロックアイスをゆっくりと溶かすように彼は話し始めた。
「一年半前、飛び込んだ営業先で小学校時代の友達にあったんです。
僕の田舎は九州だから、その時はもう20年以上ぶりの再会で」
彼は口の中のフェタチーズを焼酎で流す。
「特に仲が良かったわけではなかったのだけど懐かしくて
それから時々、飲み行くようになって。あっ営業成績には
結びつかなかったですけどね。」
「奴はもう結婚していて・・・子供はいなかったけど。」
七輪の上のアルミホイルから少しだけ湯気が上がり始めた。
「ある日、奴と飲んでいて終電がなくなるのを忘れるくらい盛り上がって、そしたら奴が“俺の家に泊れ”って。俺は一人暮らしだから気楽だし 奴の言うがままに泊ることにしたんです。」
彼の箸は蛸唐草の小鉢の中の残り少ないマリネの何を摘まもうとするわけでもなく迷っていた。
「でもね。今思えばそれがいけなかったんだな。」
俺は七輪で湯気を上げているアルミホイルを皿に移し、包んだホイルを広げて
中のものを包丁で輪切りにした。
「どうしていけなかったんですか。」
俺はそう言って、彼の前に『するめいかのワタ焼き』を出した。
するめいかの中身を全て出し、いかの足を細かく切ったものに、イカのワタそして味噌とネギを混ぜ合わせたものを、もう一度いかの胴体に詰めてアルミホイルで包んで七輪の上で火にかけた逸品。
「わぁ。旨そうですね。いただきます。」
迷っていた彼の箸が再び動き出した。
イカから溢れるワタをこぼさないように慎重かつ速やかに頬張り
彼は焼酎に口をつけた。
「真夜中なのに出迎えてくれた奥さんが、先輩だったんです。」
「小学校時代の?」
特に意味はなかったが、俺はそう言って水を一杯、口に含んで
彼にもチェイサーを用意した。
「ええ。俺、好きだったんです。彼女が小学校の頃。」
「っていうか、思い出したんです。彼女を見たときに、好きだったことを。
田舎の小学校で人数はすくなかったけど目立ちもしなかった。
でも何か光ってたんですよね。当時の俺にはそう見えてたんです。」
小学校の記憶を、そしてそこからの20年ぶりの再会を思い出すように
一口、また一口彼は焼酎を飲んだ。
「彼女は勿論、奴も当然、俺の小学校時代の思いなど知らなかったし・・・。
だからこそ、俺を家に誘えたんだと思うけど。」
「あっ。焼酎御代りください。」
「はい。」
新しいグラスに、中位のロックアイスを2つ
そして尽空を注ぐ。
「奥様の方はわかっていたんですか。」
そう言って俺は焼酎のグラスを交換した。
「覚えていてくれました。俺、目立つ方じゃなかったけど、人数が少なかったから」
「結局、その日はまた盛り上がって、朝まで3人で飲んでました。すっかり酔って 何を話したんだか今でも覚えてないんですけどね。」
イカのワタは未だ湯気を失わず包まれていたイカの胴体から
何処へ向かうとなく流れだし、ホイルの上で抽象画のような
絵画を創り出し、彼がそこに箸を出す事でそれは更に変化を増した。
「それから半年位して、彼女から電話があったんです。会社に」
「どうやらあの日、俺が名刺を渡してたみたいで。営業マンって嫌ですよね。」
彼の心の吐き出しは、同時にお腹も空腹にさせているようで
俺は粗めに切ってあった肉をクーラーボックスから出し
それを常温に馴染ませ始めた。
「想像の通りです。彼女が"会おう"って、"相談があるから"って」
「会ったら特段の相談もなく、それから頻繁に会ってました。
あっ、でも、話しをするだけでそれ以上の関係はなかったです。
楽しい時間だったけど。」
そう言って彼は目の前の焼酎を一息に飲んだ。
「もう一杯貰えますか。」
「はい。でも今日一日汗を随分かいたでしょうからチェイサーの水にも
少しだけ手を伸ばしてくださいね。」
俺はそう言って、三杯目のロックを作る前に常温に戻した肉を七輪で軽く炙り、一口大に切ったそれを粉引の白い皿にのせた。そして用意してあったソースをかけて蛸唐草の小鉢と交換した。三杯目のロックは適当な大きさの氷がなくグラスから少しはみ出た三個の氷を溶かすように焼酎を注いだ。
「能登牛の炙り焼きです。」
「その名の通り石川県の牛肉です。でも元々は兵庫の但馬牛を石川県で育ててできたものなので結局は但馬牛ですかね。意外と多いんですよ。全国の名のある牛肉の由来が但馬牛であったりするものが。」
「美味しそうだな。ところでこの上にかかっているものは何ですか。」
「あー、それね。オクラと茗荷と梅肉をたたいたもので・・・まぁ適当なんですけど。」
能登牛の濃厚な味に絡み合う3つの素材、茗荷と梅肉はそれぞれに個性があるが全体としてはさっぱりした逸品だ。
「旨っ!」
三杯目のロックに一口、口をつけて彼が言った。
「そんな関係・・・関係なんて大げさなものじゃないけど、それが暫く続いたんです。」
「って事は、終わったってことですか。」
「はい、ある日突然というか、彼女から連絡が来なくなって。こちらからの電話は何となく気が引けて、メールは何回か送ったけど返信がなくて・・・」
それぞれに溶けだしたグラスの中の三つの氷。
それを混ぜるように彼はゆっくりグラスを回し口に運んだ。
「そうしたら、奴から連絡があって“飲もう”って」
「彼女と会うようになってからは、何となく奴に誘われても断るようにしていたので、奴の誘いも頻度が減っていたから久しぶりの連絡でちょっとびっくりしたんですけどね。」
「でも、会うことにしたんですね。」
「奴に会って俺と飲みたかった目的がわかりました。奴は彼女と離婚した事を言いたかったみたいで。理由は聞かなかったけど。奴としては俺と飲んで気晴らしがしたかったのだと思います。俺の方は逆に気持ちが落ち着かなくなったけど。」
彼はそう言うと焼酎に、そしてチェイサーにも口をつけた。気がつけば彼の目の前の料理も能登牛が一切れ残っているだけになった。
「それから暫くして、というか二週間前に彼女からメールがありました。」
“今日の18:10の新幹線で実家に帰ります。のぞみ57号13号車4E”
「携帯の時計を見たら17:00過ぎ。今から行けば何とか東京駅に間に合うと思いました。と言うか何としても会いたかった。何のためだろう。引き留めたかったのかな。地下鉄に飛び乗って、乗り継いで東京駅に着いたのが18:00前、後は全力で走りました。掻き分ける人波が時間を現在から過去へ戻しているような、でも俺が追っているのは未来に向かっている彼女なんだよな、とか訳のわからない思いに駆られながら走りました。」
彼は最後の能登牛を口に運び、焼酎を流し込んだ。
「で、彼女には会えたんですか。」
「会えました。でも新幹線の窓越しでした。彼女笑顔でした。
頬に涙があるのはわかったけど」
そう言って、彼は氷も全て溶けてしまった焼酎を全て飲み干した。
グラスの中には何もなかった。
「昨日、奴と飲んだんです。俺が誘いました。何となく話がしたくて。」
「そしたら奴が教えてくれました。彼女、地元で仕事をしている同級生と結婚したって。」
「俺、何だったんでしょうね。」
それから彼は空のグラスを眺めたまま黙った。
俺は、四杯目を勧めるでもなく彼に背を向けた。
「田舎にも随分帰ってないし、帰ろうかな。」
彼の誰に話すとない声が聞こえた。
「お客さん、はい。」
俺は彼に曲げわっぱの小さな弁当箱を渡した。
彼の力ない手がそれを受け取り蓋を開けた。
「おにぎりですか。」
彼がつぶやく。
「具はないので“塩むすび”です。それからこれは“なめこのお味噌汁”」
彼はまず、お味噌汁をすすった。
「あれ、なめこ以外に何か入ってますね。」
「大根おろしです。なめこのお味噌汁って結構お味噌の加減が難しいんですよ。でも濃い目にお味噌を入れて、食べる瞬間に大根おろしを入れると上手く濃さが調整できます。飲む時になめこの滑めりでやけどすることも少ないし。何せ大根おろしの水気がなくなっても全然問題ないので、こんな移動式の店には丁度いいんです。」
「この塩結びも、ご飯が艶々していて・・・」
「確かにお米も拘ってますけど、杉の容器は通気性と保湿性があってね。」
彼は塩結びを頬張っていて、俺の話を聞いているのかどうかわからなかった。
「お客さん。例えばなんですけど大好きな風景画、大事な風景画があったとしても、そこには間違いなく自分は描かれていないですよね。その中に自分が入ってみても、実際にその風景の中の温度も、匂いも何も感じることはできない。それはやっぱり眺めていたり、時折思い出したりするだけでいいんじゃないですかね。」
俺はそう言って、塩むすびを食べ終えた彼の手を拭うためのおしぼり出した。
彼は手を拭きながら腕時計に目をやった。
時間は21:00を過ぎていた。
「明日も会社だ。よく考えたら仕事が忙しくって帰省どころじゃないですね。」
彼は笑顔でそう答えると、お味噌汁の椀を空にした。
その後、何を話すでもなかったが時間が経過し彼は公園からその姿を消した。年々暑くなる夏に、三杯のロックは彼に涼を運んだ事は間違いない。
ただ塩むすびとお味噌汁が彼の心を温め、その中にもう一度大事な風景画を飾りなおすことができたらと願った8月の夜だった。
完