掌編小説『蝸牛(カタツムリ)』
一粒、一粒、二粒、三粒……雨が窓を打つ音が聞こえる。眠る前にも聞こえていた。長く長く雨が続いている。
「梅雨はジメジメして嫌ねえ。外にアジサイが咲いてるわよ。葉の上にカタツムリがいる。いつもいるのよ。君のことが好きなのかも知れないわね
……って言っても分からないか。あれ……あー、殻が潰れちゃってるんだ……」
看護師が僕の気管に詰まった痰を吸引するため長いチューブを僕の喉に突っ込みながら言った。消毒の匂いが鼻に抜ける。狭くなった喉の肉壁にチューブの先が引っ掛かる。痛い。苦しい。涙が滲む。痛いという感覚を他人に伝える手段は涙だけ。そのほかに出来ることは、僕には何ひとつ無い。
「あー、泣いちゃった。痛かったか」
チューブがずるりと抜かれ粘った液が引っ張られたゴム紐のように喉の孔に戻る。
「はい、じゃあ食事、流しますよ~」
僕の胃にも孔が開けてあり、そこに管を通してある。そこを伝って胃の中に冷たい液を流し込まれる。この液が僕の殻である体を生かしている。止めろと言う声が出ない。管を引きちぎる力は無い。ただ、苛立ちに涙を滲ませるだけだ。
扉がギィッと鳴り、開き、複数の足音と衣擦れの音が溢れる。病室が慌ただしくなる。
「やっぱり土曜は忙しいわね」
「この荷物って?」
「あー、あとから奥さんが来る」
今日は土曜日か。この病室に新しい人が来たようだ。看護師の会話に年配の女性の声が混ざる。
「よろしくお願いしますね」
嗄れた老婆の声。この人がたった今話に出た奥さんなのだろう。品の良さそうな言葉使い。
「はーい」
看護師達が軽快に、それでいて諦めたように答えると扉がギィと閉まり、サンダルの音が遠ざかってゆく。饐えたような匂いと絶望が流れたあと、老婆が僕に話し掛けて来た。
「こんにちは。まだ若いのに大変ね。うちのはもう八十歳だから。……あら? 聞こえてないのかしら? 」
老婆は僕の右側から話し掛けている。そちらは聞こえない。だけど左耳なら聞こえている。考えるだけでは何も伝わらないと僕は再び確認した。
また病室の扉が開き、医療ソーシャルワーカーが横から口を挟む。相変わらず暖かみのない冷めた調子で急き立てた。
「あ、斉田さん、後でいいので、下の、相談室の場所、分かりますか?」
「この方、聞こえてるのかしら? 目は開いてるけど……」
「あー、高藤さんなら、もう閉じ込めになってるから、見えてないし話しても返事しないので」
「あら、……そうなの?」
「分かります? 相談室」
「はい……階段の前だったかしら?」
「そうそう、私、七時までいるんで、それまでに」
「はい、伺います…」
雑に扉が閉められた。向かいの寝台に寝ているのは斉田さん。その奥さんが老婆。斉田さんの奥さんが僕の寝台から離れて行く。靴底を床に軽く擦りながら。
「閉じ込め……うちのも閉じ込めかしら……」
僕は頭の右側が痒くなった。暫くの間沈黙が満ちた。老婆の溜め息と共にレジ袋がカサカサと鳴ったあとで、乾いた皮膚を撫で擦る音が長く続いた。夫である斉田さんの手足を何度も擦っているようだ。
「元気になってね……元気になってね……」と呪文のように繰り返した。
時折、コロンコロンと夢のように揺れる響きが漂う。多分、乳児に持たせる玩具だろう。夫の手はまだ動くようだ。その手が不規則に、恐らく乳児より下手くそにコロンコロンと夢のように玩具を鳴らす。
我慢しているうちに頭の痒みは消えた。僕の脳ミソに睡魔が取り憑き、僕は微睡む。
いつしか老婆はいなくなっていた。相談室へ行ったのか。僕の向かいの寝台に釘付けられているであろう斉田さんは眠っているらしい。彼が苦しそうに発し戻す呼吸が狭い病室にヒョーッと大きく響き、痰の絡むゴロゴロと湿った音が続く。それが繰り返される。雨が強く降り始め、まるで伴奏のように窓を打った。一粒、一粒……二粒、三粒……五粒、八粒……。
僕は再び眠りに落ちた。
やがてオムツ交換の時間が来て、僕は意識を戻した。そしていつものように、意識が戻ったことを強く呪った。寝台を囲むカーテンが閉じられ、僕は二人の介護士に汚れた下半身を晒している。
「あらら~、梅雨だからカビちゃったかな……」
高い声の女がそう言ったあとで短く笑い、応えるようにしてもう一人の女が小さく笑った。僕の寝台のカーテンが開かれ、間を置かずに斉田さんの寝台を囲むカーテンが閉じられる。
病室に残る排泄物の匂い。うとうとしながら僕は窓の外に咲いているというアジサイの花を、そして殻が潰れているというカタツムリを想像した。そうしているうちに小学校の帰り道、雨降る道路で踏み潰した十五匹のカタツムリのことを思い出した。桜の青葉からボタボタと滴が落ち、頭の上で傘を叩いていた。一粒、一粒、二粒……。
次に僕の意識が覚めた時、コロンコロンと夢のような音がしていた。斉田さんの奥さんが来ているのだろう。しかし乾いた皮膚を擦る音はしていない。相談室に行っているのだろうか。相談室へ呼ばれて急き立てられるのは入院費用についてが大半だ。払えるのか? 若しくは、払え。どちらかだろう。年金で足りるのかどうか。
「こんにちは……」
いきなり、僕の耳元で老婆の声がした。動くものの音は無かった。だとすると老婆……つまり斉田さんの奥さんはずっと僕の傍にいたことになる。声には悪意が込もっていた。そう思った途端、僕は頭や目を何度もこづかれた。次に腕の内側のところを強くつねられた。老婆の息が僕の顔に掛かる。老婆は僕に囁いた。
「……死ね」
賛同するように乳児の玩具が鳴っていた。
点滴の落ちる音が聞こえるほどの静寂。真夜中だろうか。雨は上がっているようだ。向かいの寝台に転がっている斉田さんの欠伸が一度だけ聞こえた。
窓際から雨と青い草むらの匂いがする。誰かの気配を感じた。
『誰だ? 』声にならない声を掛ける。
『……誰であればいい?』
答えが返って来たことに驚く。透き通った濡れた声。どことなく女性的だと思った。テレパシー。 妄想。幻聴。なんでもいい。退屈しのぎになれば。
『誰でもいい。カタツムリでも』
『あたり』
カタツムリには聴覚がないと聞いたことがある。テレパシー。妄想。幻聴。
『あたった。冴えてるな。僕は』
『昨日、私は人に踏まれて背中が大きく壊れた』
『……そう』
『背中が壊れてるから、このあと夏が来たら私は死ぬ』
『背中って殻のことか?渦巻きの?』
『うん。背中』
『羨ましい。死ぬだろうね。暑さにやられて。真夏に子猫が死んでいるのを見たことがあるよ。野良だけどね。血を吐いて、渇いていた。肉も血も渇いてた。蛆虫が貪り食ってたよ。少ない水分を奪ってた。渇いたら死ぬだろうね。羨ましい』
『背中を踏まれたから死にそう』
『……水が飲みたい。気管に入ると肺炎になって面倒だから飲ませてもらえないけど。飲めないけど』
『雨降りが続けばいい』
『ああ。いいね』
ゆっくりと雨が振りだした。それを確かめるように二人で黙った。彼女は笑顔だったのではないか。そして僕も同じだったと思う。
『……外の様子を教えて』
『アジサイが咲いてる。葉が雨に濡れている。葉の筋に沿ってぬめぬめを付けるのが好き』
『気持ち悪いな。葉の上にカタツムリは?』
『いない』
『……そう』
『夕方に来てた人は何故あの人を撫でてた?』
『……斉田さんか。撫でたら動くようになると思ってるんだ。』
『面白そう。私も撫でてみよう。』
彼女が僕の枯れ木のような腕に触れると、冷たく濡れた感触が伝わってきた。ひんやりとして腕をあがって行く。僕は思い付いたように言った。
『そうだ。もし動くようになったら、新しい殻をやるよ』
『殻? 背中』
『そう。昔から僕の中には蝸牛が二匹棲んでいるんだけど、一匹はもう死んでる。その死んでる蝸牛を追い出して代わりに君が棲んでもいい』
『どこから入るの?』
『耳。僕の頭の横に孔が開いてるだろ』
『……開いてる。うん。分かった』
彼女は一頻り僕の腕を撫でていたが、やがて
『動かない』と言って止めた。
『殻は嫌だな』
『何故? 雨がなくても渇かないですむのに』
『重い。動けない』
『私は動かせるのに』
僕の中に苛立ちが湧き上がった。
『……やれるもんならやってみな。入って来いよ』
別にどうなっても構わない。僕は寝台の上から動けないのだし、見ることすら叶わないのだから。どうでもいい。
『腕を動かせなかったのに入ってもいい?』
雨が強く降り始めた。
『雨天決行』
『ウテンケッコウ……』
冷たさが左の耳朶に這い、次第に穴の奥へ進む。そっちは死んでないんだけどなあ。セロファンを破るような音がする。叫びたいほどの激痛がした。叫ぶことは出来なかったが、ほんの少しだけ彼女の撫でていた方の腕が動き、一瞬だけ病室の天井が見えた。
鼓膜を融かして進み、彼女が耳の奥で蹲る。熱い泡立ったような液体が溢れ、首まで伝って来る。多分、血だ。
耳の奥に渦巻いていた蝸牛と彼女が入れ替わった。僕の聴力を支えていた蝸牛が耳の外に追い出されてゆく。この世界が遠のく。
『君は……いつも葉の上にいたカタツムリ?』
彼女は答えなかった。枕に敷いてあるタオル、痰と涎に湿ったそのタオルの上に、追い出された蝸牛が転がり落ち、草むらの中を走り抜けるような音がした。最後に聞こえたのは廊下で壜が割れる微かな響きと雨の音……三粒、二粒、一粒、一粒。世界がひとつ消えた。
『ここ、夏でも死なない?』
もう、彼女の声しか聞こえない。
[了]